説     教    詩篇31篇21節   第二コリント書5章16〜17節

「平安と喜びの源泉」

2017・05・07(説教17191695)  私たちの教会のいちばん高いところに十字架が掲げられています。単なる飾りではありません。私たち の教会は十字架の主イエス・キリストのみを真の救いとして宣べ伝える群れだからです。十字架の主によ って、全ての罪を贖われ、赦され、復活の生命に結ばれて、新しくされた者の群れが私たちの教会です。 この恵みは測り知れない救いそのものであり、私たちはそれを全ての人々に証しするべくここに礼拝を献 げているのです。  今から1800年ほど前の初代教会の時代、キリスト者たちはこの「罪の赦しの永遠の喜び」を感謝と讃 美をもって祝い、安息日の、日曜日の礼拝をとても大切にしていました。当時はまだ日曜日は公休日では ありませんでした。だからキリスト者たちは一日の仕事を終えて、夜になってから礼拝に集まったのです。 しかもローマ帝国による組織的なキリスト教迫害が始まっていたため、礼拝の場所を地下の共同墓地のよ うなところに設けました。そこで蝋燭の光で礼拝を献げ、自らを迫害する人々のために執成しの祈りに生 き、想像を絶する困難の中でひたすらに福音の宣教に努めたのです。教会は最初から十字架の主のみを宣 べ伝える礼拝の群れでした。  私ごとですが、私がはじめて教会の礼拝に出席したのは高校2年生になったばかりの4月6日のことで した。その日、私は生まれて初めて聖書の御言葉の説教を聴き、讃美歌を歌い、主の祈りを献げ、献金を 献げ、頌栄を歌いました。その日の説教の内容も、歌った讃美歌も、今でもはっきり覚えています。そし てその日、礼拝からの帰り道に私は書店に立ち寄り、そのころ岩波から出版されたばかりの石原謙著「キ リスト教の源流」を買い求め読み始めました。今から思えば本当に無謀なことをしたと思います。高校生 に歯が立つような本ではありません。しかしこの本と取り組むことによって、私は主の教会を大切にし、 主の教会に仕える喜びを教えられました。いまでもこの本は私の座右の書です。  この本の著者である石原謙はかつて東京神学大学で教会史の講義をしていたかたです。1976年、私が神 学校に入った年に98歳で天に召されるのですが、私は後にこの石原先生の最後の様子をあるかたから伺 いました。石原謙というかたは本当に「慄き」という言葉でしか言い表せないほど、それほど深く死を恐 れられたと言うのです。否、正しく言うなら、ご自分が死によって主なる神の御前に立たしめられること に限りない畏れを抱いたのです。そうした信仰の事情をよく弁えない人が石原先生に対して「先生ほど信 仰の深いかたでも死ぬことは怖いのですか?」と訊ねた。すると石原先生はその人にこう答えたそうです。 「あなたは人間の罪の深さ、罪の恐ろしさというものを、まだ知らないからそのようなことが言えるので す」。人間の罪とその審きの恐ろしさを知れば知るほど、死はどんなに恐れても足らぬほど恐ろしく厳粛な ものだ。私はこれこそ、この偉大な学者が後世に遺した大切な遺言であり、生きた信仰の証しであったと 思います。  実はこの石原謙という人は、ただ死を恐れ罪を畏れて死んでいったのではないのです。その恐れが真実 であったのは、唯一の救い主イエス・キリストに拠り頼む信仰のゆえでした。ある人はその姿を「キリス トのもとに駆け寄る幼子」に譬えました。この一人の老神学者の死に際して、そこに輝き現れたものは、 文化勲章受章者の名誉でも世界的な神学者としての栄光でもなく、ただひたすらに、ひとすじに、十字架 の主イエス・キリストのもとに走り寄り、主にのみ拠り頼み、十字架のキリストによって全ての罪を贖わ れた者として生かされた一人の信仰者の姿でした。だからこの一人のキリスト者の生涯を通して、ただ十 字架のキリストの限りない愛と救いの恵みが輝き現われました。そして主に全てを委ねた全き平安のうち に石原謙は天に召されたのでした。  私たちもまた、同じ十字架の主の救いの恵みにあずかり、生かしめられ、そして死にゆく幸いを与えら れているのです。言い換えるなら、十字架のキリストのみが、罪と死に打ち勝ちたもうた唯一永遠の救い 主であられる。この確信と平安に、私たちは共に生かしめられているのです。そこに私たち全ての者があ ずかる「平安と喜びの源泉」があるのです。  このことをヨハネ伝17章3節において、主イエスは「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあ なたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」と語りたまいました。 そして何よりも、今朝の御言葉である第二コリント書5章16節以下に使徒パウロは「それだから、わた したちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとして も、今はもうそのような知りかたをすまい」と語っています。そしてさらにパウロは今朝の17節にこう 語っています。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去っ た、見よ、すべてが新しくなったのである」。  ここでパウロが言う「肉によってキリストを知る」とは、信仰によってではなく、単なる知識としてキ リストを知ることをさしています。私たちはともすると知識が最初であり、その後に「信ずる」ことが起 るのだと考えやすい。しかしパウロはそれは逆だと言うのです。福音の真理はまず私たちに「信ずること」 を求めるのです。そうして後にはじめて「キリストを真に知る」者とされるのです。パウロはコリントの 教会にこの点において重大な間違いがあることを憂慮していました。コリントの人々は知識欲が非常に旺 盛であった。それは良いことですが、キリストについても、実際にキリストに会ったことのある使徒と、 そうではないパウロのような使徒とを区別し、キリストに会ったことのないパウロのような使徒には「権 威がない」のだと考えていたのです。  こうした知識偏重の考えかたに対してパウロは、私たちがキリストを「知る」のは「肉によって」(つま り知識によって)ではなく「信仰によって」つまり聖霊なる神の導きによってこそ「キリストを真に知る者 となる」ことを明らかにしているのです。もし知識を問われるなら、パウロもまたキリストを「肉によっ て」知っていた者の一人です。キリストに会ったことがあるのです。しかしパウロは申します。「かつては キリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知りかたをすまい」と。大切なのはキリ ストを信仰によって正しく知ること(告白すること)だけである。信仰による認識、ソフィア(英知)だけが大 切な唯一のキリスト認識である。そのことをパウロはここに明白にしているのです。  私たちもまた、洗礼は受けたけれど、いつのまにか信仰が知識だけのもの、自分の心の状態だけのもの になる危険があるのです。十字架のキリストを信じ「キリストのもとに駆け寄る幼子の姿」を失い、それ こそ「肉によってキリストを知る」だけのものになるとき、私たちは「平安と喜びの源泉」を失ってしま います。だからこそ今朝の御言葉は全ての人に対する大切な勧めであり「平安と喜びの源泉」を示すもの です。何よりもここでは唯一の救いの御名(十字架の主イエス・キリスト)のみが明らかにされています。 この唯一の救いの御名(十字架の主イエス・キリスト)を、私たちが肉によらずただ信仰によって「知る」 者となることが大切なのです。すなわち「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者で ある。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」と告げられていることです。この 真の「新しさ」に、私たちが本当に生きた群れになることが「平安と喜びの源泉」なのです。  「罪の女」と町でレッテルを貼られた女性が、パリサイ人シモンの家に入ってきて主イエスの御頭に香 油を注ぎ、涙で主イエスの足を濡らして、自分の髪の毛で拭いました。この女性は主イエスによって救わ れた喜びを生命がけであらわすためにやって来たのでした。罪という不治の病に侵されながら、自分はな お健康であると自惚れていた人々はみな、心の中でこの女性を審きました。汚らわしい女が入ってきたと 思ったことでした。この人々に主イエスは厳かに言われました。「この女がどんなに多くの罪を赦されたか は、彼女が示したその愛の大きさでわかる」と。ルカ伝7章36節以下です。主イエスはシモンに「あな たはこの女性を見ていないのか」と問われました。信仰のまなざしでしか見えない真実があるのです。た だレッテルだけで女性を審いていたシモンに、主イエスは「肉によらない」真のまなざしを与えて下さっ たのです。そしてこの女性に宣言して下さいました。ルカ伝7章50節です。「あなたの信仰があなたを救 ったのです。安心して行きなさい」。  「あなたの信仰が、あなたを救った。わたしの平安の中を歩みなさい」と十字架の主は宣言して下さい ます。人間を真実に、かけがえのない人格たらしめ、神と共なる新しい人生の自由と幸い、永遠の喜びを 与えるものは、十字架の主イエス・キリストによる「罪の赦しによる永遠の喜び」のみです。人間はたと え全世界を所有しようとも、聖なる神の御前に罪の赦しなくして決して人間たりえないのです。虚しい存 在でしかないのです。そのような私たちに、永遠の生命を、復活の喜びの生命を与えて下さるために、そ して永遠に主の御手の内を歩む者として下さるために、主は十字架にかかって、御自分の全てを献げ尽く して下さったのです。いま私たち一人びとりが、この恵みに生かされているのです。ここに「平安と喜び の源泉」があるのです。    だから使徒パウロは明確に告げています。「だれでもキリストにあるならば(教会によってキリストに結ば れているならば)その人は新しく造られた者である」。そして「すべてこれらの事は、神から出ている」と。少し も私たちの力ではありません。救いは十字架の主イエス・キリストにあるのです。十字架のキリストの恵みによ り、私たちは「新しく造られた者」とされて、キリストの復活に堅く結ばれ、贖われた者の平安と喜びと勇気を もって、歩む僕とならせて戴いているのです。そこに私たちの、また全ての人々の、変わることのない、永遠の 平安と喜びの源泉があるのです。だからこそ私たちの教会は、主の十字架を高く掲げてやまないのです。祈りま しょう。