説    教    列王記上8章46〜50節   コロサイ書3章15節

「キリストの平和」

2017・04・30(説教17181694)  今朝、私たちに与えられたコロサイ人への手紙3章15節に「キリストの平和が、あなたがたの心を支 配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある」と記されていまし た。これは使徒パウロによるコロサイ教会の人々に対する「平和の勧め」です。ここに「召されて一体と なる」とありますのは、私たちがそれぞれの人生の中から主イエス・キリストの救いにあずかる者とされ、 あたかもひとつの身体に連なる肢体のように、主イエス・キリストを頭とする“新しい生命”を与えられ ている者であることを意味します。  つまり「キリストの平和」とは、新約聖書においては「キリストの生命」とひとつの事柄なのです。「平 和」と聴きますと私たちは、争いのない状態、対立やいがみ合いなどのない、いわば「静かな消極的な状 態」を思い描きますが、聖書においてはそうではなく、聖書における「平和」とは「キリストの生命の充 満」または「キリストの生命に満たされること」を意味するのです。決して「静かな状態」のことではな く、むしろダイナミックな、生き生きとした、キリスト中心の新しい生活の姿をあらわすのです。  言い換えるなら「キリストの平和」とは「キリストの復活の生命に満たされること」です。つまりパウ ロが語っていることは「私たちはキリストの復活の生命に満たされるために、召されて一体とされた群れ である」という福音の音信であります。教会はキリストの生命の共同体なのです。教会生活を軽んずるこ とはキリストの生命を軽んずることです。教会から離れることはキリストの生命から離れることです。そ こに、キリストをかしらとする新しい生活はないのと同じように「キリストの平和」もまた存在しないの です。  そこで、併せてお読みしたいのはヨハネ伝17章20節以下です。ここに主イエスは「わたしは彼らのた めばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします」と祈ら れました。私たちが礼拝を通してキリストの恵みを証する僕になっているかどうか。「キリストの平和」が 私たちの全生活を支配しているかどうか。改めてそのことが問われています。何よりも、主を信ずる全て の兄弟姉妹たちのために、主は特に17章21節以下の祈りを献げて下さいました。「父よ、それは、あな たがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためでありま す。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつ かわしになったことを、世が信じるようになるためであります」。  生命の本質が外へと拡大してゆくことにあるのと同じように「キリストの平和」もまた外へと拡がって ゆくものです。それは伝道のわざです。伝道とはキリストの復活の生命に甦らされた私たちが、その同じ 生命の喜びを他の愛する同胞たちにも伝えてゆくことです。最近の社会は次第に人間の生命を軽視する方 向に向かっています。機能重視の人間理解、または業績中心の誤った人間尊重の陰で、人間本来の尊厳や 価値といったものが見失われ、そうした反生命的な価値観が社会にも様々なひずみを与えているのです。 そうした社会風潮のただ中にあって、私たちキリストの教会に連なる者たちのみが、本当の意味での生命 愛に生きることができるのではないでしょうか。それは教会こそ言葉の真の意味において“バイオフィラ ス”(生命愛的)な群れであるからです。生命を愛するように見せかけて、実は生命を損ない憎むことしか 教えない現代社会に対して、ただ「キリストの生命の共同体」である主の教会のみが、あらゆる反生命愛 的な人間の営みに対して“否”の声を上げうるのです。その“否”の声とは、キリストが私たちを支配す るあらゆる罪と死の力に対して「サタンよ立ち去れ」とお命じになった、あの勝利の御声に呼応する私た ちの生命の喜びの息吹です。  何よりも主イエスは「わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります」 と言われました。この「一つとなる」とは単に考え方や価値観の一致ではありません。そうではなく、キ リストを唯一のかしらとして、私たちがその肢体となることです。人間の身体は個々の肢体が勝手に独立 していては一個の生命体であることはできません。一つの「かしら」すなわち脳の指令に従ってこそ、は じめて一個の生命体であることができるのです。それと同じように、私たちは教会に連なることによって、 かしらなる主イエス・キリストに従う生活をなすことにより、はじめて生きた一個の人格であることがで きるのです。死を超えた「永遠の生命」に満たされて生きる者とされるのです。  そして、その「永遠の生命」の本質こそ、父・御子・御霊なる三位一体の神との永遠の交わりの中に教 会を通して入れられることです。教会が「キリストの身体」と言われるのはまさにその意味においてなの です。私たちは主の御身体なる教会に連なることによってのみ「キリストの身体」の生きた肢体(すなわ ち幹に連なる活きた枝)とされるのです。それが「一つとなる」ことの本当の意味です。人間どうしの連 帯や一致ではありません。キリストとの一致であり、キリストに結ばれて生きる新しい復活の生命を与え られることです。御子なるキリストが永遠の昔から父なる神と一つであられたように、同じ完全な愛の交 わりの内に、私たち一人びとりが召され一体とされているのです。「キリストの平和が、あなたがたの心を 支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある」。  そこでさらに、ヨハネ伝17章22節を見ますと、そこに主イエスは「わたしは、あなたからいただいた 栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」 と仰せになっておられます。この「あなたからいただいた栄光」とは聖霊のことをさしています。ニカイ ア信条では「聖霊は父と子とより出で」と告白されています。フィリオクエ(御子よりもまた)という教 理ですが、その大切な教理の根拠の一つになっているのが今朝のこの御言葉です。聖霊は御父のもとから 御子を通して私たちのもとに遣わされ、教会を形成し、私たちに正しい信仰を与え、私たちをキリストへ と導くのです。それゆえに聖霊はカルヴァンの語るように「私たちを永遠にキリストに結ぶ絆」です。  その永遠に変らぬ神からのきずな(聖霊という名の帯)をもって、主キリストは私たちに一つとなる喜 びを与えて下さいます。私たちの教会もまた、礼拝を中心とした本当の愛の交わりへと成長することを求 められています。それは、教会は真にキリストのもとに一つとされた群れであることによってのみ、伝道 という世に対する務めを正しく果たすことができるからです。教会の中に主にある一致がないならば、そ れは伝道以前の問題なのです。昔から「船頭多くして船山に登る」と申します。教会は一人びとりが自己 主張する場ではなく、キリストの御意志に従う新しい生活を喜ぶ生命体です。私たち葉山教会に連なる者 たちは、唯一の主にしてかしらなるキリストのもとに、いつも「一つである」群れを形成して参りたいも のです。  そして、その私たちの主にある志には、大きな祝福が約束されているのです。それは23節に主がこの ように言われたことです。「わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなる ためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、 世が知るためであります」。この御言葉の意味はこうです。もし私たちがここに、キリストのみを証するま ことの教会を建ててゆくならば、この湘南の地に住む多くの人々に、まさにこの私たちの教会の礼拝の交 わりを通して、まことの神がどのようなかたであるかを知らしめることになるのです。この地に住む多く の人々が、私たちの教会を通して、ただ私たちの教会を通してのみ、主イエス・キリストが私たちを愛し て十字架にかかって下さった、その出来事によってまことの神の愛を知る者となるということです。だか ら、私たちにはいつも、大きな責任が主より委ねられているのです。礼拝者として忠実な生涯を、主の導 きのもとに歩んでゆく私たちであることです。それこそ「キリストの平和」「キリストの復活の生命」が、 私たちのただ中にいつも満ちあふれている、まことの教会を、ここに建ててゆくことなのです。  人生に絶望し、打ちひしがれ、死を願っていた一人の人が、まことの礼拝に接して、まことの神を知り、 キリストの限りない祝福があることを知りました。自分の存在と人生を、かき抱くようにして、極みなき 愛をもって祝福と平和を、生命を与えて下さる一人のかたがおられる。この自分のために十字架に死んで 下さったかたがおられる。この十字架の主イエス・キリストの現臨に、はじめて出席した礼拝を通して触 れたとき、この人の人生は根底から新たにされてゆきました。そして洗礼を受け、教会の執事となり、や がて長老となって、主の忠実な僕として今日に至っているのです。  私たちもまた、そのような礼拝者としての忠実な歩みをなしてゆく、主の御招きにいまあずかっていま す。私たちのこの群れが、現臨したもう十字架の主の、今ここにおける救いの御業に仕える幸いです。そ こに私たちの変わることなき喜びがあります。まさしく「キリストの平和」「キリストの復活の生命」が私 たちのただ中にあり、私たちの全生活を支配し、その喜びがここから一人でも多くの人々に広がってゆく ことを願い、祈りつつ、新しい一週間の歩みを始めて参りたいと思います。祈りましょう。