説    教   民数記21章4〜9節  ヨハネ福音書18章28〜32節

「十字架の決定性」

2017・04・23(説教17171693)  今朝の御言葉ヨハネ伝18章28節以下には、主イエス・キリストの十字架決定の場面が記されてい ます。28節をご覧になりますと「それから人々は、イエスをカヤパのところから官邸につれて行った」 とあります。「時は夜明けであった」ともあります。これは金曜日の明けがたのことです。ユダヤの人々 は日没をもって一日の始めとしていました。ですから土曜日すなわちユダヤ教の安息日が始まるまで 半日の猶予しかなかったわけです。そこで律法学者たちは何とかして主イエスの十字架刑を、安息日 が始まる前に行ってしまおうと急いだのです。  そこで、この金曜日の明けがたに彼らが主イエスを連れて行った「官邸」というのは、当時のロー マ帝国ユダヤ州総督であったポンテオ・ピラトの官邸のことです。そもそも「ポンテオ」とはギリシ ヤ語で「総督」という意味ですから、ポンテオ・ピラトで「総督ピラト」という意味になります。と ころがユダヤ人たちは「けがれを受けないで過越の食事ができるように」との理由から、ピラトの官 邸の中に入ろうとしなかった。ユダヤ人にとって異邦人であるピラトの官邸に立ち入ることは、それ だけで安息日規定に反する「けがれ」を受けることだったので、こうした奇妙な官邸訪問になったの です。いずれにせよピラトにしてみれば、早朝のものものしい訪問者たち、しかも官邸の中には入ら ずピラトのほうから外に出てきてくれと願う、この不躾な訪問者たちに迷惑至極であったにちがいあ りません。  29節をご覧になりますと「そこで、ピラトは彼らのところに出てきて言った」と記されています。 ピラトが問うたのは次のことでした。「あなたがたは、この人(ナザレ人イエス)に対してどんな訴えを 起すのか」。これが、この早朝の不躾な訪問者に対するピラトの質問でした。こんなに朝早くから騒ぎ を起こして、私の安眠を妨げたからには、このナザレのイエスなる人物はよほどの悪事を働いたのだ な?、とピラトは尋ねたわけです。これは律法学者たちに対するピラトの痛烈な皮肉でした。つまり ピラトは「どのような悪事を働けば、こんなに朝早くから総督である私を起こすことが許されるの だ?」と尋ねたわけです。  かつてドイツにカール・レーヴィットという非常にすぐれた哲学者がいました。ユダヤ人であった ゆえにナチスから公職を追われ、日本に来て東北大学などで教えたこともある人です。このレーヴィ ットが「キリスト教的紳士(christlich Herrn)とは何ぞや」という論文を書いています。これはヨーロ ッパ世界とその価値観に対する痛烈な批判の文章です。レーヴィットはこういうことを言うのです。 ヨーロッパ世界において最も価値ありとされる理想的な人間像はいわゆる「キリスト教的紳士」(the christian gentlemen)の姿である。しかし果たして聖書の中にその「キリスト教的紳士」なる人間像 が存在するのだろうか?。そしてラディカル(根源的)なことを言っています。「存在する」とレーヴィ ットは言うのです。それは「イエス・キリストでも、その弟子たちでもない」「ヨーロッパ人が理想と するいわゆる“キリスト教的紳士”にして聖書に登場する唯一の人物、それはポンテオ・ピラトであ る」とレーヴィットは言うのです。  レーヴィットによれば、現代のヨーロッパ社会はいわゆる“ポンテオ・ピラト的紳士”を生み出す 似非紳士社会に成り下がっているではないか。その反面“真のキリストの弟子”はどこにも存在しな いではないかと批判するのです。言い換えるならヨーロッパ社会だけではなく、およそ人間が生きる あらゆる社会において、真のキリストの弟子が重んじられた社会は未だかつて存在したことはなかっ た。むしろ古今東西を通じて人間社会が重んじてきたのは常に“ポンテオ・ピラト的紳士”であって “真のキリストの弟子”はなかったと言うのです。約80年前に書かれたこの論文は今日でも通用す る鋭い現代社会批判です。そしてもしレーヴィットの言うとおりであるのなら、今日の私たちの社会 もまた二千年前のイスラエル社会と同様、イエス・キリストに対して「十字架にかけよ」と狂い叫ぶ 社会でしかないのです。その私たちは、イエス・キリストを十字架に追いやる代わりに、ポンテオ・ ピラトのような温厚にして常識的な人物を社会の理想的人間像(キリスト教的紳士)として持てはや す存在なのではないでしょうか。  今朝の御言葉の30節を見ますと、人々はピラトに対して「もしこの人が悪事をはたらかなかった なら、あなたに引き渡すようなことはしなかったでしょう」と申しています。つまり「どんな悪事を 働けば私をこんな早朝に起すことが許されるのだ?」と問うピラトに対して、人々はみなこう言って 答えているのです。「総督さまのお怒りはごもっともでございます。しかし私たちも、このイエスなる 男が総督さまを起すことが許されるほどの悪事を働いたのでなければ、敢えてこんな時間にご迷惑を おかけしたりいたしません」と申しているわけです。まことに洗練された、優雅にして紳士的な語り 合いがここではなされているわけです。そこでピラトは、自分の権威が保たれたことに満足したので しょう、今度は逆にユダヤ人たちをおだてるようなことを言っています。それが31節です。「そこで ピラトは彼らに言った、『あなたがたは彼を引き取って、自分たちの律法でさばくがよい』」。つまりピ ラトは律法学者らに対して「あなたがたの好きなようにしなさい、私がそれを許可する」と申してい るわけです。ところが人々はなおもピラトの立場を尊重するのです。つまり「わたしたちには、人を 死刑にする権限がありません」と申すのです。  これは、事実そのとおりでした。当時のイスラエルはローマ帝国の植民地でしたから、独立した自 国の刑罰法を持っていなかったのです。犯罪人を処罰する法的な権限は宗主国であるローマに委任さ れていたのです。その点においては、ローマにはかの有名なローマ法体系が確立していました。歴史 家のギボンが語っているように、ローマ帝国は幹線道路とローマ法体系の2つで世界を支配しました。 その伝統は今日の国際法体系にも受け継がれています。だから人々は、ぜひその偉大なローマ法に基 づいてナザレのイエスを処罰して下さいとピラトに願ったわけです。自分たちの伝統(すなわち律法) よりもローマ法のほうを私たちは重んじますと、いわば恭順の意をピラトにあらわしたわけです。両 者共にどこまでも紳士的であったのです。いま流行りの「忖度」の精神、相手の立場を思いやる譲り 合いの精神がここには見られるかと思えるほどです。  さて、ここまでこうして今朝の御言葉を読んで参りますと、少なくとも今朝の御言葉においては、 主イエス・キリストのお姿は、ポンテオ・ピラトの官邸前に押しかけた群集とピラトとの間に交わさ れた「紳士的」な言葉の駆引きの中に、あたかも埋没しているかのごとくに見えます。今朝の御言葉 には主イエスのお姿は直接には見えてこないのです。むしろここに出てくるのはレーヴィットが言う ような似非紳士としての「キリスト教的紳士」すなわち“ポンテオ・ピラト的紳士”の姿です。しか しヨハネはそこでこそ、続く32節の大切な御言葉を私たちに宣べ伝えているのです。それは「これ は、ご自身がどんな死にかたをしようとしているかを示すために言われたイエスの言葉が、成就する ためである」とあることです。  あたかも音楽における通奏低音のごとく、人間が奏でる高らかで軽やかな洗練されたソプラノの背 後に、厳かな神の御声が通奏低音のごとくに響いていることを、私たちは聞き漏らしてはなりません。 それを福音書記者ヨハネは聴き取っているのです。そして私たちに明確に宣べ伝えているのです。こ の一連の出来事の主人公は、ユダヤ人たちでもなければポンテオ・ピラトでもなく、ただ主イエス・ キリストの父なる神であられることを、今朝の御言葉は私たちに明確に告げているのです。それでは、 ヨハネが見抜いている「イエスの言葉」とは何のことをさしているのでしょうか。それは同じヨハネ 伝の8章28節のことなのです。  ヨハネ伝8章28節にはこうございます。「そこでイエスは言われた、『あなたがたが人の子を上げ てしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ 父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう』」。この御言葉には旧約聖書・ 民数記21章4節から9節という大切な背景があります。約束のカナンの地に向かう途中で、出エジ プトの民は苦しさのあまり「つぶやく」罪を犯しました。つまり人々は、神が共におられる荒野での 不自由な生活よりも、神が共におられなくても、豊かで安定していたエジプトでの生活のほうが「良 かった」と「つぶやいた」のです。この罪によって多くの人々が荒野で死にました。私たち人間を人 間たらしめるものは、物質でも生活の安定でも豊かさでもない、ただ真の神の御言葉と愛と真実のみ が、私たちを人格たらしめ人間たらしめるものです。それを忘れて物質の支配にみずからの人生を委 ねるとき、人間はたとえ肉体的には生きていても、魂においては死んだ者となるほかないのです。  この人々に対して、主なる神はモーセにお命じになって「火のへび」を「さおの上にかけなさい」 と言われます。そしてそれを仰いだ者のみが死をまぬがれたのです。実はこの「火のへび」こそ来た るべきキリストの十字架の象徴でした。つまり私たちは罪によって死ぬほかはない「罪の法則」のも とにあるのですが、その私たちがあるがままに十字架の主イエス・キリストを信じて仰ぐなら、キリ ストを信じて教会に連なるなら、そこで永遠の生命に甦るのです。救いを与えられるのです。そこで、 私たちはもう一つのことを心に留めねばなりません。それは「火のへび」というのはもちろん、主な る神の主権を現す形ではありえないということです。それこそルターが言うように「神の栄光は十字 架の相のもとに隠されている」のです。人々の怒濤のような呪いの叫びとピラトの権威によって十字 架に追いやられたキリストの御姿も、信仰なき人々の目には、世界でもっとも悲惨な死をとげたひと りの犯罪人の姿にすぎないのです。  しかし、まさにその比類なき悲惨さこそ、本当は私たち全ての者が主なる神の御前に担わねばなら なかった罪の結果でありました。まさしくその、私たちが担うべき罪の結果をことごとく、十字架の 主イエス・キリストは身代わりとなって引き受けて下さった。贖いの死をとげて下さったのです。そ の十字架の主イエス・キリストを仰ぎ信ずる者は、もはや罪と死の支配のもとにはいないのです。キ リストの復活の生命が、その人の全存在を覆い生かしめるのです。そして神の御前に、神と共に、神 の御言葉の導きの内を、喜びと感謝と讃美をもって生きる御国の民とされるのです。いま私たち一人 びとりが、そのような生命の恵みのもとに招かれ、入れられているのです。キリストの十字架の確定 は人のなしたることであった。しかしその本当の意味は、父なる神のなしたもう世界の救いと祝福の 御業、摂理の出来事そのものであったということ。そのことを今朝の御言葉は私たち全ての者に伝え ているのです。  これこそ「十字架の決定性」です。主の十字架による贖いこそ、私たち全ての者の救いにとって唯 一の「決定的なできごと」なのです。感謝と讃美をもって、新しい一週間も、私たちは十字架と復活 の主を仰ぎつつ、信仰の道を歩んで参りたいと思います。祈りましょう。