説    教   イザヤ書40章1〜5節  ヨハネ福音書11章38〜44節

「復活の朝」

2017・04・16(説教17161692)  この世界にもし“無意味な行い”があるとすれば、今朝の御言葉に記された主イエスの 行いこそ、まさにそれだと思われたことでした。それは主イエスが、ラザロが死んで墓に 葬られてから4日も経ってから、ベタニヤの村に来られたことです。マルタもマリアも村 中の人々も、そして弟子たちまでも「時すでに遅し」と想ったことでした。ラザロが死ん でしまった今、主イエスの来訪に、いったい何の意味があると言うのでしょうか。  譬えて言うならそれは、病人が死んで4日も経って、ようやく医者が駆けつけたような ものです。誰がその医者を歓迎するでしょうか。そこに何の意味があるでしょうか。だか ら人々は主イエスが流された涙も、哀悼の涙としか思いませんでした。主イエスはまさに、 そのような人々の思惑の中を、愛するラザロの墓へと歩まれます。38節を見ると「イエス はまた激しく感動して、墓にはいられた」とあります。「激しく感動して」とは「(最後の 敵である罪と死に対して)武者震いをされた」という意味です。罪と死に勝利される唯一の 神の御子として、いま主イエスはラザロの墓の前にお立ちになり、そこで「武者震いをさ れた」のです。その墓は「洞穴であって、そこに石がはめてあった」と記されています。  古代イスラエルの墓は横穴式の構造でした。その横穴の入口は大きな円盤状の石で塞が れ封印がしてありました。「そこに石がはめてあった」というのは、その円盤状の大きな石 と封印のことをさしています。直径2メートルほどもあるその石は非常に重く、大人が4 人がかりでようやく動かせるものでした。ですから主イエスが「石を取りのけなさい」と 命じたもうたとき、人々はわが耳を疑ったのです。イスラエルの、いな人類の歴史はじま って以来、誰がそのようなことを命じえたでしょうか。ラザロの姉マルタは主に申しまし た。「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。事実すでに石の隙間か らは死臭が漂っていました。まさにその死臭の中で、全ての者が絶望し沈黙せざるをえな い場所で、主イエスは「墓の入口を開けなさい」と私たちにお命じになるのです。  人々の驚きと戸惑いと虚無のただ中で、主は40節にマルタにこう言われました。「もし 信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。主は既に同じヨハネ 伝11章23節以下で「あなたの兄弟はよみがえるであろう」とマルタに言われ、マルタは 27節に「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じ ております」と告白しました。いま主イエスはマルタにその信仰告白を改めて問い直され るのです。あなたはいまその告白に健やかに立っているか?。あなたはいま何に心を奪わ れているのか?。マルタはあたり一面に漂う死臭に心を奪われ、絶望的な死の現実の前に われを失っていました。主イエスの御姿が見えなくなっていたのです。主イエスの御声が 聴こえなくなっていたのです。  私たちにも、同じことがないでしょうか。日々の生活の中で、思わぬ悲しみや苦しみに 心が押し潰されるとき、人間関係に悩み心乱れるとき、私たちは主イエスにではなく、震 え慄く自分の心に捕らわれ、動かしえぬ墓石のような現実に、自分を明け渡してしまうの ではないでしょうか。私たちこそ主の御姿を見失い、主の御声が聴こえない者になってい ることがあるのではないでしょうか。よく「苦しい時の神頼み」と申します。しかしそれ ならばむしろ良いのです。私たちの本当の問題は「苦しい時の神離れ」になってしまうこ とにあります。苦しみや悩みの中で、キリストにではなく、絶望に自分を委ねてしまいそ うになる私たちに、主はいまはっきりと語り告げて下さるのです。「もし信じるなら神の栄 光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。  「もし信じるなら神の栄光を見る」と、主イエスはマルタに宣言して下さいました。「神 の栄光」「神の主権」という言葉は現代人にあまり好まれません。人が好む言葉ではありま せん。それよりも「愛」や「優しさ」や「癒し」という言葉を現代人は好みます。しかし 聖書はまぎれもなく「神の栄光」を全ての人々の“救い”の出来事として語ります。私た ちの真の救いは、私たちが「神の栄光」「神の主権」のもとに新たにされること、すなわち、 私たちの真の救いはただキリストにあるからです。キリストの「愛」や「優しさ」や「癒 し」は、罪と死の現実に対して無力な「愛」や「優しさ」や「癒し」ではなく、まさに「神 の栄光」「神の主権」における神の御業であるゆえに、それは私たちに「永遠の生命」を与 える真の救いの御業なのです。漂う死臭さえものともせず、墓の入口を「開けなさい」と お命じになるかたの「愛」と「優しさ」と「癒し」なのです。  主イエスは「栄光を受ける」という言葉をいつも、ご自分の十字架の死をさして語って おられます。主イエスにとって「栄光」とは、ご自分の担われた十字架のことであり、す なわち私たちの罪の贖いと永遠の生命のための「栄光」なのです。ですから主がマルタに 「神の栄光を見るであろう」と言われたのは、あなたは兄弟ラザロの「救い」と「永遠の 生命」を「見るであろう」という意味です。全く無力な死者ラザロが、主イエスの十字架 の恵みによって「永遠の生命」に甦ることが「神の栄光」なのです。それは私たちの「救 い」であり、私たちの「復活」であり、私たちの「永遠の生命」です。この主イエスの御 言葉「神の栄光」をいまマルタは信じるのです。絶望にではなく、キリストに自分を明け 渡す者として、愛するラザロの墓前に立つのです。「わたしはよみがえりであり、命である」 と告げたもう主の御言葉を信じるのです。  主は村の人々に、ラザロの墓を塞いでいた大きな石を「取りのけ」ることをお命じにな り、人々はその御言葉のとおりに働きました。私たちも主の御言葉に従い、魂の封印を開 いて戴こうではありませんか。葬られたラザロの姿は全人類の姿です。まぎれもなく私た ちの姿なのです。私たちは「キリストの香り」ではなく「罪と死の香り」を漂わせ、「生命 の香り」ではなく「死臭」を放っていた存在でした。その人間の現実のただ中で、ただ主 イエスのみが「目を天にむけて」祈って下さいます。そして墓の中のラザロに向かって神 の主権をもって宣言して下さいます。「ラザロよ、出で来たれ」と!。今朝の43節をご覧 下さい。「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死 人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われ た、『彼をほどいてやって、帰らせなさい』」。  ドストエフスキーの小説「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフは「善悪の決定権は自分 にある」という虚無的な思想に捕らわれ無意味な殺人をおかします。しかし深い自責の念 に駆られ絶望の淵に沈みます。このラスコーリニコフにある晩ソーニャという少女が今朝 のヨハネ伝11章38節以下を読み聴かせるのです。「ラザロよ出で来たれ」という御言葉 を聴いた瞬間、ラスコーリニコフはソーニャに訊ねます。「これは本当のことなのか。本当 に主はこのことをなさったのか」。ソーニャは喜びに心を躍らせつつ答えます。「ええそう ですとも、全て本当のことです。神様はあなた様をも同じように甦らせて下さいます」。ま さにその瞬間ラスコーリニコフの魂の放浪は終わりを告げ、シベリアへの流刑の旅路は新 生への希望の道に変えられたのです。キリストの主権に結ばれて自らの罪を神に告白し、 キリストに贖われた新しい人生が始まっていったのです。  主イエスの恵みの御声が、私たちを支配する墓のような「罪と死」の現実に対して宣べ 伝えられるとき、そこに「神の栄光」が現われ、私たちの「救い」が起こるのです。生命 なき者がキリストの賜わる新しい生命に甦らされ、神を讃美しえぬ者が神の御名を讃めた たえ、何の希望もなく絶望に沈んでいた者が主の御力によって立ち上がり、神と共に歩む 「御国の民」とされる喜びです。「神の栄光」が私たちに現れるのです。それがこのイース ターの喜びと幸いです。主は墓から出てきたラザロを抱き「彼をほどいてやって帰らせな さい」と人々にお命じになりました。死装束のまま出て来たラザロに、復活の主は義と恵 みと生命の衣を着せて下さるのです。キリストを着た者にもはや死装束は必要ないのです。 私たちもまたキリストの十字架によって罪贖われ「永遠の生命の衣」を着せて戴いた者た ちです。そのような僕たちとして、いま主の復活の御身体なる教会に連なり、尊い救いを 戴いているのです。キリストは罪と死の支配を永遠に砕き、ラザロのように、ラスコーリ ニコフのように、私たちにも「永遠の生命」を与えて下さるのです。  その後のラザロの人生について、聖書は多くのことを語りません。しかしひとつ確かな ことは、ラザロは初代エルサレム教会に連なるキリスト者として、おそらくはエルサレム 教会の長老として、キリストに仕える人生を、忠実な信仰の生涯を歩み抜いたことです。 復活の主イエス・キリストの賜わる「永遠の生命」に連なる僕として、ラザロは復活の主 の御身体に連なる生涯を歩んだのです。私たちもいま、同じ救いの喜びを与えられていま す。「ラザロよ出で来たれ」。私たちはそこに自分の名をあてはめる幸いを与えられていま す。いま復活の主が私たち一人びとりの名を呼んで下さいます。私たち全ての者に「復活 の朝」を与えて下さるのです。祈りましょう。