説    教    詩篇102篇9節   ヨハネ福音書11章28〜37節

「主イエス涙したもう」

2017・04・09(説教17151691)  私たちはどのような時に涙を流すでしょうか。悲しみの涙、嬉し涙、悔し涙、意味もなく流れる涙。人 間には様々な種類の涙があります。  アフリカの使徒と呼ばれたアルベルト・シュヴァイツァーはフランス改革派教会の牧師の家庭に生まれ た人です。彼は自叙伝の中で5歳の時のある記憶を書いています。あるとき幼心にとても悲しく感じるこ とがあり、家の前を歩いていたとき、自分を心配そうに見つめる大人の視線に気がついた。その視線と目 が合った瞬間に思わず大声で泣きそうになった。ところがそのときシュヴァイツアー少年は心の中にはっ きりと「それは恥ずかしいことだ」と声がしたのを感じたと言うのです。人に見られるため、人の同情を 引くため、自分に注目してもらいたいために涙を流すことは「はずかしいこと」だ。それ以来シュヴァイ ツァーは、自分は二度と自分のために(人に見られるために)涙を流すまいと決心したと言うのです。  これは特別なことかもしれません。少なくとも5歳の少年が抱いた感情としてはきわめて異例のことで、 シュヴァイツァーだからこその経験と言えるかもしれません。しかしたしかに言えることは、私たちの流 す涙には、たとえ大人であっても「自分のため」という要素が入り混じっていることは事実なのではない でしょうか。それを「恥ずかしいこと」と思うか否かは別として、私たちは自分のため、自分に目を向け て欲しいために涙を流すことは多くあっても、純粋に人のため、他者のために涙を流すということは、意 外と少ないのではないかと思うのです。  今朝お読みしたヨハネ伝11章28節以下に、私たちは非常に印象ぶかい御言葉に出会います。それは35 節に主イエスが「涙を流された」と記されていることです。実は新約聖書の中で主イエスが「涙」を流し たもうたと記されている箇所は、今朝のこの11章35節とルカ伝19章41節の2箇所だけです。原文のギ リシヤ語は「ダクリュオー」という言葉で、これはつまり新約聖書に2回しか出てこない言葉です。 ま ずルカ伝19章41節では、十字架を目前にされた主イエスがオリブ山の山頂からエルサレムを見渡したま い、そこでエルサレム全住民の救いのために「涙を流された」ことが記されています。「いよいよ都の近く にきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、『もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を 知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている』」。主はこのように言われて、エルサ レムの人々の救いのために涙を流されたのです。  そして2番目の「ダクリュオー」が今朝の御言葉です。弟子たちにとって、それはとても印象ぶかい出 来事でした。主がベタニヤ村の人々に案内されて愛するラザロの墓の前にお立ちになったとき、主の御目 から涙が流れたことを人々ははっきりと観たのです。36節には、ユダヤ人たちは主イエスの「涙」を見て 「ああ、なんと彼を(ラザロを)愛しておられたことか」と感極まって語り合った様子が記されています。 しかしそれと同時に37節にはこうも記されています。「しかし、彼らのある人たちは言った、『あの盲人 の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか』」。  ここには、主イエスに対する私たち人間の、生の反応が現れています。主イエスが流したもうた「涙」 に感動を覚えつつも、なお不信仰の心でしか主イエスを見ない私たちの姿です。つい最近アメリカの長老 教会で、現代の若者にふさわしい信仰告白という名目で新たな告白文が作られました。それを見ると、ま るでフォークソングの歌詞のような文章です。「イエス様はいつも僕たちと一緒だ。何も怖くない」といっ た調子です。昔から「君子の交わり水の如く、凡夫の交わり蜜のごとし」と申します。本物の信仰はフォ ークソングの歌詞のようなデコラティヴな甘言で培われるものではありません。むしろ私たちが受け継い できた381年のニカイア・コンスタンティノポリス信条、また使徒信条、そして1890年(明治23年) の「日本基督教会信仰の告白」を大切にしなくてはならないと思います。1890年信仰の告白はニカイア信 条の厳密かつ忠実な解釈であり、それを私たちの教会は信仰の遺産として受け継いでいるのです。  そこで、ひとつの例を挙げるなら、たとえば私たちはルカ伝10章の「善きサマリヤ人の譬」をどのよ うに読むのでしょうか。あそこには強盗に襲われて傷つき、死を待つばかりのユダヤ人の旅人、その旅人 を見て見ぬふりをして去って行った祭司とレビ人、そしてこの旅人に駆け寄って傷の手当てをし、その生 命を助けたサマリヤ人、この3種類の人間が登場して参ります。そこで問題は、私たちは自分をどこに置 いてこの御言葉を読むのかということです。少なからぬ人が、最後のサマリヤ人の立場に自分を置く、あ るいは「置くべきだ」と感じるのではないでしょうか。そうすると同時に、このルカ伝10章の御言葉は 一転して甘ったるい人道主義、つまり「困っている人を助けられる人間になりましょう」というだけの道 徳訓になってしまいます。事実、そのような読みかたをする人がとても多いのではないでしょうか。 実はそのとき私たちは、この譬えにおける最も大切なメッセージを見失っています。それは、このサマリ ヤ人は十字架の主イエス・キリストの御姿を現しているという事実です。そして、実は傷つき倒れて死を 待つばかりの旅人、またこの旅人を見捨てて去って行った祭司とレビ人こそ、私たちの姿だという事実で す。ユダヤ人にとってサマリヤ人は不倶戴天の敵でした。同じように私たちは「罪」によって神に敵対し、 徹底的に御言葉に背き、滅びるばかりの存在だったのです。しかし、そのような私たちのもとに、ご自分 の全てをなげうって駆けつけ、ご自分の御傷をもって私たちを癒し、ご自分の死をもって私たちに生命を 与えて下さったかた(主イエス・キリスト)がおられる。それこそ聖書が私たちに告げている福音のメッ セージなのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。主が言われる「汝も行きて同じようにせよ」とは、単なる 人道主義や道徳の勧めではなく、主イエスを信じ、主イエスを仰ぎ、主イエスに従う、キリスト中心の信 仰生活への招きです。神の「隣人」ではありえなかった私たちが、主イエスの十字架による罪の贖いによ って、神の御国の民とならせて戴いたことです。キリストによる恵みと祝福の宣言です。だから、そこに 響き渡っている主の御声は「あなたもこれをしなさい」という行いへの誡めではなく「あなたは私を信じ るか」という信仰への招きであり、十字架と復活によって、罪と死のあらゆる支配に勝利され、その勝利 の中に教会を通して私たちを連ならせて下さる、主イエスの限りない恵みを明らかにするものなのです。  主イエスの流された「涙」は単なる人道主義の涙ではありません。主イエスは決してご自分のために涙 を流されませんでした。主イエスの涙はいつも、私たちの罪からの救いと生命のために流された「涙」で あり、見せつけや自己主張の涙とは根本的に違うものです。私たちは死の現実の前に沈黙する以外にあり ません。主イエスをお迎えしてさえも、なお私たちは「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死な せないようには、できなかったのか」と呟くほかはない者たちです。しかしそこでこそ大切な唯一のこと は、私たちにとって全ての言葉が空しくなる“死”の現実のただ中に、ただひとり主イエス・キリストの みが復活の生命の与え主として、生命と祝福の主そのものとして、いまここに共にいて下さるという事実 です。主はご自分の御傷をもって私たちの全ての傷を癒し、ご自分の死をもって私たちを罪と死から贖い、 なんの功もなき私たちを“永遠の生命”(三位一体なる神との、永遠の愛の交わり)へと回復して下さった のです。  主イエスは、救いなき私たちの「救い」のためにこそ、熱い「涙」を流して下さいました。ご自分のた めに一度も涙されたことのないかたが、ただ私たちの「罪」という名の墓前で熱き「涙」を流して下さっ た。この事実こそ、私たちに対する主イエスの救いの確かさと真実を証しているのです。本来「墓」には 何の希望もないはずでした。墓は私たち人間の人生と生命の終着点だからです。終着点とは「もうその先 に希望はない」という意味です。だからこそマルタもマリアも、ラザロを知る全ての人々も、惜別の涙に 明け暮れていたのです。だから33節にこうあります。「イエスは、彼女(マリア)が泣き、また、彼女と一 緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、 『彼をどこに置いたのか』。彼らはイエスに言った、『主よ、きて、ごらん下さい』」。主イエスが「涙を流 された」のは、まさにそこにおいでした。死んでから4日間も墓の中に「置かれ」ていたラザロの墓前に、 主イエスは、まさにその絶望と虚無のただ中でこそ熱き「涙」を流したもうたのです。  この33節に主イエスが「激しく感動し、また心を騒がせ」とある御言葉を、ある人が「武者震いをさ れた」と訳しました。これは素晴らしい訳です。まさしくここで主イエスは「武者震い」をしておられる のです。私たちを、そして全世界を支配している罪と死の現実に対して、主イエスは唯一の救いの権威を もって対峙したまい「武者震い」され、熱き涙を流して下さるのです。私たちを滅びに引きこむ全ての力 に対して、主イエスのみが決然と立ち向かって勝利して下さるのです。そのような復活の勝利の主として、 いま主イエス・キリストは私たちと共におられるのです。どうぞ改めて考えて下さい。誰が墓の前に立っ て「武者震い」しうるでしょうか。毅然としてまなざしを墓に注ぎ、罪と死の支配に永遠に勝利された唯 一の救い主(キリスト)として、主は私たちのために「激しく感動し、また心を騒がせ」「涙を流された」の です。  旧約聖書・詩篇102篇9節に「わたしは灰をパンのように食べ、わたしの飲み物に涙を交えました」と ありました。私たちはここに、主イエスの「ゲツセマネの祈り」を思い起こします。永遠なる神の子が無 に等しき者になりたまい、全人類の罪の重荷を一身に背負われ、ゲツセマネの園での熱き祈りに臨みたも うたのです。そこで主は「父よできうるならこの杯をわれより取り去りたまえ。されどわが意にあらず、 ただ御心をなしたまえ」と祈られました。主はまさに「灰をパンのように食べ……飲み物に涙を交え」て 下さったのです。私たちの罪の贖いのために「涙」したもうた主は、ご自分が飲むべき苦難の杯にその「涙」 を混ぜ、最後の一滴も残さず飲み尽くして下さったのです。それがあの十字架の出来事でした。  すると、まさに今朝の御言葉は、涙したもうた主の御姿は、十字架の主の本質を示しているのです。古 代ギリシヤ人にとって、神はあらゆる人間的な感情から隔絶した存在でした。「苦しまない神」こそ本当の 神だと考えていました。中世ヨーロッパのスコラ哲学も同じでした。しかし聖書が示す真の救い主の御姿 はそのような「苦しまない神」ではなく、私たちのために全ての苦難を担われ、熱き「涙」を流され、そ の「涙」の杯(十字架)を飲み尽くして下さったかたなのです。みずから全人類の罪のどん底にまでお降り になって、そこで私たちの全存在の重みを受け止め、復活の生命を与えて下さる神こそ、私たちの信ずる 真の神なのです。私たちはそのような唯一の神を「まことの神」「主イエス・キリストの父なる神」「世界 の創造主」「救い主」と信じ、告白し、全世界の唯一の聖なる公同の使徒的なる教会と共に、ただ神にのみ 栄光あれ(Soli Deo Gloria)と讃美と感謝を献げつつ、主が聖霊によっていま歴史に現しておられる救いの 御業に、教会において共にあずかり、御業に仕える僕とならせて戴いているのです。  「涙をもて種まく者は、喜びの声もて刈り取らん」と詩篇126篇に告げられています。あのサマリヤ人 の譬えと同様、これも十字架の主の御姿を示すものです。主は「涙」したもうて私たちの存在に、生活の ただ中に、福音の生命の種を蒔いて下さいました。何の希望もありえなかったラザロの墓に向かって、主 は「涙」と共に生命の言葉を宣言して下さいました。「ラザロよ出できたれ」と!。そこに私たちの思いを 遥かに超えた救いの出来事が起こります。墓の中に復活の出来事が起こるのです。「ラザロよ出できたれ」 との主の御声に応えて、絶望のみが支配する私たちの「墓」から、復活の喜びの声が響きわたるのです。 神の国における永遠の喜びと祝福に、いま私たち全ての者が招かれ、あずかり、生きる者とされているの です。イースターの喜びに連なる私たちとされているのです。紛れもなく、いまここに連なる私たち全て の者が、十字架と復活の主の恵みを戴いているのです。祈りましょう。