説    教   エゼキエル書11章19節   ヨハネ福音書11章17〜27節

「永遠の生命」

2017・04・02(説教17141690)  数あるキリスト教の教理の中でも「永遠の生命」の項目ほど、私たちがわかっているようでい て、実はよくわかっていないものは、ないのではないでしょうか。私たちは「永遠の生命」とは、 いわゆる“不老不死”とは違う、という程度のことは常識として知っているでしょう。では改め て「永遠の生命とは何か?」と問われたとき、きちんと説明できる人は意外に少ないのではない でしょうか。  ヨハネ福音書3章1節以下に、ニコデモという名のユダヤ人の指導者が出て参ります。ニコデ モは夜ひそかに主イエスのもとを訪ねて「永遠の生命」について質問しました。そこで主イエス は彼に「よく、よく、あなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることは できない」とお答えになりました。そこで驚いたニコデモは再び問います。「人は年をとってか ら生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょう か」。  ニコデモにとって「永遠の生命」とは、神に従い律法を守ってきた人生に対する神からの当然 の褒賞でした。譬えて言うなら生命保険のようなもので「良き行い」という掛金を支払い続けて きた者が満期に受け取る報酬のようなものだと考えていたわけです。ところが主イエスは「永遠 の生命」を得る条件は「新たに生れること」のみであると言われたのです。今までの掛金は全く 意味がないと言われたも同然でして、これはニコデモの理解を超えたことでした。  ニコデモにしてみれば「あなたのような立派な人は当然『永遠の生命』を受ける資格がある」 と主イエスに言って欲しかったのです。お墨付きが欲しかったのです。ところが「だれでも新し く生れなければ、神の国を見ることはできない」と主は言われた。それでニコデモは驚いて「も ういちど私に、母親の胎内に入って、生れ直せとでもおっしゃるのですか」と的外れな答えをし ています。同じ誤りはあの“富める青年”にも見られます。マルコ福音書10章17節以下です。 一人の青年が主イエスのもとに走りより跪いて「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をし たらよいでしょうか」と問いました。その直前に主イエスは「幼な子ら」を抱いて祝福しておら れます。主イエスは人々に「神の国はこのような者(幼な子)の国である」と言われ、「よく聴 いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいること は決してできない」とお教えになったのでした。  ところが、まさにその主の御言葉と幼子への祝福の一部始終を見ていたはずのこの青年が、主 イエスに「私はどんな立派な行いをすれば永遠の生命を受けられるでしょうか?」と質問するの です。ここに根本的な誤りがありました。彼もまたニコデモと同じように「永遠の生命」を自分 の功績の積立てによって得られる満期報奨金だと思い違いしていたのです。主イエスが求めたも うものは“信仰のみ”でありましたのに、ニコデモも富める青年も、信仰ではなく自分の努力や 行ないによって「永遠の生命」を得ようとしていたのです。  では、私たちはどうなのでしょうか。たしかに私たちはニコデモや“富める青年”のように、 自分の行いを誇ることはしたくてもできませんし、また「永遠の生命」を自分の功績で手に入れ ようとも考えないかもしれません。しかしそれならばなおのこと、私たちに問われていることは、 私たちがいつでも「新しく生れた者」となり「幼な子のように神の国を受けいれる者」になって いるかどうかです。これを要約して申しますと、私たちにはニコデモと“富める青年”と同様、 主イエスからただ“信仰のみ”が問われているのです。  主イエスがベタニヤの村に入られたとき、ラザロは死んでからすでに4日間も「墓の中に置か れていた」のでした。マルタとマリアの家で行われたラザロの葬儀には、彼女たちを慰めんとし て多勢の弔問客が訪れていました。これはラザロがいかに多くの人々に慕われ愛されていたかを 示すものです。そしてマルタとマリアはこの大勢の弔問客のもてなしに忙しく立ち働いていまし た。その様子が今朝の御言葉から伝わってくるのです。そこに、主イエスが来られたという報せ が入りました。マルタは急いで家の外に出てゆき、道端で主イエスに出会い、そして申しました。 「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。この 言葉には、遅れてやって来た主イエスに対する非難がこめられています。「なぜもっと早く来て 下さらなかったのですか。そうすれば愛する弟ラザロは死なないで済んだのに。死んでしまった 今となってはもう全てが遅いのです」マルタはそう訴えたのです。  私たちはここに、主イエスに対するマルタとマリアの“不信仰”を見るわけではありません。 否マルタもマリアも主イエスを「信ずる者」として立っています。それは続く22節のマルタの 言葉からもわかります。「しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さ ることを、わたしは今でも存じています」。マルタもマリアも、そしてラザロも、主イエスを「神 の子・キリスト」と信じていた人たちでした。キリストを信ずる信仰による「永遠の生命」を信 じ、その信仰の内にラザロは死んだのです。その愛するラザロの死という耐えがたい悲しみの中 で、マルタもマリアも主イエスに悲しみの心をあるがままに訴えつつ、そこでこそ自らの信仰を 言いあらわすのです。それが「しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて 下さることを、わたしは今でも存じています」という22節の言葉でした。「あなたこそ死に勝 利された救い主・神の子キリストです」と告白しているのです。  ただ、どうか気をつけて下さい。マルタとマリアの信仰告白は、ここでもなお不十分なのです。 画竜点睛を欠くのです。「汝なお一つを欠く」と主イエスは言われるのです。それこそ「永遠の 生命」の信仰でした。更に言うなら、復活の主イエス・キリストを仰ぐ信仰の姿勢です。彼女た ちの信仰の誤りは、主イエスの御言葉によってすぐ明らかにされます。私たちの信仰生活は神の 言葉によっていつも軌道修正されなくてはなりません。すなわち主イエスは23節に「あなたの 兄弟はよみがえるであろう」と言われました。ここに主イエスは明確に「よみがえり」(復活に よる永遠の生命)を告げたまいます。キリストに結ばれて死んだ者は、もはや死に支配されず、 逆に死は生命に呑みこまれてしまったのです。第一コリント書15章55節以下に告げられてい るとおりです。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、 おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべき ことには、神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を賜わったのである」。  ここで大切なことは「私たちの主イエス・キリストによりて」という言葉です。この「よりて」 とは「あなたのために主がなして下さった救いの御業によりて」という意味です。私たちのわざ は死に打ち勝ちえず、いつも死に呑みこまれてしまう虚しい生命にすぎません。ただキリストの 御業のみが死に打ち勝ち、死を呑みこむ永遠の生命なのです。それならば、主がマルタに求めて おられたのは、まさに「あなたのためになされた救いの御業を信じなさい」という信仰です。た だ十字架のキリストのみを仰ぎ、キリストの御業のもとに立ち続ける信仰です。いま主はまさに 私たち一人びとりに、その信仰を求めておられるのです。  マルタは答えました。24節です「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じていま す」。これもまだ主が求めておられる“信仰”ではありません。パリサイ人たちも復活を信じて いました。しかしその復活とはあくまで、満期になった保険のようなもので、人間の良き行いに 対して自動的に支払われる報酬にすぎませんでした。ですから「終りの日のよみがえりの時」も 曖昧な不確かなものなのです。保険に譬えるならば、肝心の保険会社が倒産してしまえば、もう 満期どころではなくなるのと同じなのです。主イエスが言われる「よみがえり」とは、そのよう な不確かなものではありません。むしろ主は明確にマルタに宣言されます。25節です「イエス は彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死ん でも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信 じるか』」。  マルタよ、マルタよ、そうではないと、主は言われます。「よみがえり」は人間の良き行いに 根拠を持つものではない。人間の中に「永遠の生命」の保証があるのではない。そうではなく「永 遠の生命」の唯一の与え主は神なのだ。「永遠の生命」とは唯一の主なる真の神との“永遠の愛 の交わり”の内にあなたが入れられることなのだ。そのように主ははっきりと言われるのです。 だからこそ主は「われは甦りなり、生命なり、われを信ずる者は、たとえ死ぬとも生きるべし」 と言われたのです。そればかりではない「生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なな い」と言われたのです。「あなたはこれを信じるか」と、マルタに、マリアに、そして私たち一 人びとりに主は問うておられるのです。  ですから、聖書が語る「永遠の生命」は「霊魂不滅」とは違います。霊魂不滅とは「肉体は汚 れているが、霊魂は清い」それゆえに「汚れた肉体は滅びても、清い霊魂は生き残る」という哲 学的な教えです。「汚れたものは生命を持たず、清いものだけが生命を持つ」ゆえに「肉体は滅 びても霊魂は滅びない」という論理的結論です。これを「霊肉二元論」と申します。肉体と霊を 区別して、肉体は人間にとって無意味であり、ただ霊魂だけが尊いと考えることです。この「霊 肉二元論」は中世の教会に影響を及ぼし、そして意外に今日の日本人にも影響を与えています。 「草葉の陰で見守って下さい」という仏教的死者観にも霊肉二元論の影響が見られます。「厭離 穢土・欣求浄土」という二元論的思想です。そこで宗教改革者ルターやカルヴァンは、こうした 二元論的な霊魂不滅論と聖書が語る「永遠の生命」が全く違うものであることを明らかにしまし た。霊魂不滅の思想とは、結局は、私たちの中にある生命の延長にすぎないのです。そうすると 困ったことになります。永遠とは「時間を超えたもの」であり「死なない」ということです。し かし私たちの中にある何が「時間を超えた(死なない)もの」たりうるでしょうか。そのような ものは「なにひとつない」と言わざるをえない私たちなのです。  改めて申します。「永遠の生命」とは、私たちの内側の一部分が「時間を超えたもの」になる ことではありません。そうではなく、主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかっ て下さった。私たちの永遠の贖いを完全に成し遂げて下さった。ただそのキリストの贖いの御業、 救いの恵みによってのみ、信ずる者すべてに無償で与えられる「キリストと共にある新しい生命」 こそ「永遠の生命」なのです。言い換えるなら、主が私たちの罪の贖いとなって、私たちのため にご自分の生命を注ぎ尽くして下さった、その主の生命に私たちは教会を通して「あずかる」者 とされているのです。私たちの生命ではなく、キリストの生命ですから、それは「永遠の生命」 なのです。だからこそそれは限りなく確かな生命なのです。罪と死に勝利する唯一の生命なので す。この主が賜わる「永遠の生命」に結ばれた者たちの集いでありますゆえに、教会は「キリス トの身体」と呼ばれるのです。教会はキリストの復活の生命に共にあずかり、新たにされた者の 群れ(聖徒の交わり)だからです。  「永遠の生命」は私たちの内側にある何かの延長ではなく、主が与えて下さる新しい生命であ るゆえに、私たちの身も魂をも健やかに生かしてやまないのです。「わたしはよみがえりであり 命である」とはっきりと語って下さる主が、私たちの唯一永遠の救い主なのです。「あなたはこ れを信じるか」と、主はいまマルタとマリアに、そして私たち一人びとりに問うて下さいます。 主が求めたもう信仰のみが、私たちを生かす正しい信仰なのです。マルタもマリアはこの問いに 答えて申しました。「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子である と信じております」。私たちはこの信仰によって生きる群れです。先ほども私たちは使徒信条を 歌いつつ告白しました。そこにも「われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会。聖徒の交わり。罪の 赦し。身体のよみがえり。永遠の生命を信ず」と告白されています。その主語は、私たちではあ りません。主にして三位一体なる神のみが「永遠の生命」の主語なのです。神が御子イエス・キ リストと聖霊によって、私たちの全生活・全生涯に現して下さる「永遠の生命」の恵みの中に、 私たちはいま主の御身体なる教会に結ばれてあずかる者とされているのです。まぎれもなくここ に集う私たちが「永遠の生命」にいま生かされているのです。キリストの復活の生命が私たちを 生かしめているのです。  「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、 生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。ただキリ ストの賜わる永遠の生命のみが、私たちを死を超えてまでも生かしめる唯一の真の生命です。そ の真の生命を与えるために、主は十字架への道を歩まれ、ご自分の全てを犠牲にせられ、私たち の罪の完全な贖いとなりたもうたのです。祈りましょう。