説   教   詩篇32篇5節   ヨハネ福音書8章1〜11節

「審きと赦し」

2017・03・26(説教17131689)  それは人々が見ている前で、白昼公然と繰り広げられた異様な光景でした。主イエスがい つものように、エルサレム神殿の中庭で人々に御言葉を語っておられた時のこと、突然荒々 しい叫び声がしたかと思いきや、大勢の律法学者やパリサイ人たちが、一人の女性を捕らえ て、主イエスのもとに連れて来たのです。そして彼らはこの女性を主イエスの前に立たせ、 主イエスに向かってこう申しました。「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モ ーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。  周囲はたちまち、物見高い群衆の人だかりができました。衆人環視の中でパリサイ人らに 罪を糾弾されたこの女性は、恐怖と絶望と羞恥心に顔面蒼白となり、うつむいたまま微動だ にしません。あたかも生ける屍のごとくに佇む彼女に、するどく険しい視線を向けながら、 さも穢れたものを扱うように、律法学者やパリサイ人らは、主イエスに対して詰め寄るので す。「さあ、どうなのですか。あなたはどのような判決を、この女に下すのですか。早く我々 に答えて下さい。返事をしなさい」と。  当時のユダヤの法律では、誰かが罪を公に審く権威は律法学者(パリサイ人)だけにあり ました。ですから、彼らは自分たちだけでこの女を審けばよかったのです。何もわざわざ主 イエスのもとに連れて来る必要はなかったのです。むしろ、民衆が主イエスの話を喜んで聴 いているのを不愉快に思っていた彼らなのです。そのような彼らが、どうしてここでわざわ ざ主イエスのもとに、この罪を犯した女性を連れてきたのでしょうか。実はそこにこそ、彼 らパリサイ人らが主イエスに対して仕組んだ「重大な罠」があったのです。  もしもここで主イエスが、いやいやそんなことをしてはならない。この女を石で打ち殺し てはならないと言われたなら、それはモーセの律法に叛くことになるわけですから、彼らは 直ちにそこで、この女性と一緒に主イエスをも石打ちの刑に処することができたのです。主 イエスを抹殺せんとする宿願を一挙両得に果たすことができたのです。モーセの律法は完全 かつ絶対であり、それに叛くことは神への冒涜だと考えられていたからです。  ではその逆に主イエスが、そうだその通りだ。このような女は石で打ち殺すべきであると 語ったなら、どうなるでしょうか。その時には、モーセの律法に叛くことにはなりませんが、 民衆の支持を失うことになるのです。主イエスの御言葉を喜んで聴き、主イエスに従ってい た人々は、主イエスに失望して離れてゆくに違いないからです。何だ、この人も所詮はパリ サイ人と同じなのかと、人々は失望して主イエスを見限り、結果として主イエスは社会的に 失脚することになるでしょう。  つまり、いずれにしても、主イエスがどちらの答えをしても、パリサイ人らは主イエスを 葬り去ることができるわけです。処刑されるか失脚するか、この二者択一しか主イエスには ありえないのです。それほど巧妙な罠がこの質問には仕掛けられていました。この時ばかり はパリサイ人らも、大勢の群衆が集まるのを快く思ったことでした。さあ皆の衆よく見てお れ、お前たちが尊敬する“ナザレのイエス”なる男は、我々のこの質問の前に立ちえぬ哀れ な輩にすぎないのだ。そのような勝ち誇った思いでいたことでした。  ところが、主イエスはと見ますと、なんと主イエスは身をかがめて「指で地面に何か書い ておられた」というのです。ちなみに、主イエスが何かものを「書いた」と記された場面は 聖書の中でここだけです。この様子を見てパリサイ人たちは逆上しました。侮辱されたと感 じたのです。そこで彼らはますます興奮して主イエスに詰め寄りました。どうなのか、早く 答えよ、答えられないのか、お前はモーセの律法どおりに、この女を石で打ち殺すことに賛 成するのか、それとも、反対するのか。すぐに我々に答えてみよ!。  パリサイ人らは、勝利は百パーセント自分たちのもの、主イエスには惨めな敗北しかない と確信していたので、追及の手を緩めようとしなかったのです。次から次へと言葉を繰出し、 少しも容赦しようとしません。正義は自分の側にあると確信した人間ほど残酷になるのです。 この徹底追求の“残酷な正義の言葉”が矢のように飛び交う中を、真中に立たされた女性は 顔面蒼白のまま微動だにしません。彼女の運命はただひとつ、呪われて死ぬことだけです。 そしてそこでこそ、主イエスは身を起こされ、パリサイ人らに問いたもうたのです。今朝の 7節です。「彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、『あなたがたの中 で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』。そしてまた身をかがめて、地面に 物を書きつづけられた」。今の今まで、パリサイ人らが追及していた罪は、この女性の罪で した。彼らにとって、正義と審きは常に自分にあり、罪と悪は相手にありました。しかし主 イエスはそのような、正義に陶酔する彼らの魂に一筋の閃光をお与えになります。人間は自 分の正義によっては決して魂の闇は照らされません。むしろ暗くされるのです。真実が見え なくなるのです。その彼らの魂に、主イエスは一条の光を投げ込まれます。それが「あなた がたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」との御言葉でした。  それは譬えて言えば、闇夜に一瞬の稲妻が閃いたのに似ていました。その一瞬の閃光がパ リサイ人らの魂の暗闇を照らしたとき、彼らははじめて気が付いたのです。自分たちの姿も また神の御前に「罪人」にすぎないことを。ただ福音の光のみが、私たちの魂を奥底までも 照らし、真の神へと導くのです。それは聖霊による光です。ただ神の御霊によってのみ、私 たちは神の御心を正しく知る者とされます。おのれの正義によって硬直化した私たちの魂は、 本来は聖なるものであるモーセの律法さえ罪の働く器に変えてしまうのです。良いもの、美 しいもの、人が称賛するものほど、罪の支配を受けやすいのです。自己義認という偶像礼拝 を起こしやすいのです。  そこで、パリサイ人らの反応はどうだったでしょうか。パリサイ人らは今朝の9節にあり ますように「これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエ スだけになり、女は中にいたまま残された」のでした。この「年寄から始めて」とあるとこ ろは大事です。最初に石を捨てて立ち去った人は「年寄り」であった。つまり、神の言葉を 長く聴き続けてきた人から率先して悔改め、手にしていた石を投げ捨て、振り上げていた拳 を降ろし、その場から立ち去ったのです。それに呼応するように、一人また一人と立ち去り、 ついには女性と主イエスだけが残されたのです。  主イエスはそこで、最後に彼女にお問いになります。「そこでイエスは身を起こして女に 言われた、『女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか』」。私たちは、 この御言葉をどのように読むでしょうか?。更に申すならば、今朝の御言葉の全体をどのよ うに読むのでしょうか?。単なる「可哀想な女性が救われた話」として読むのでしょうか?。 そうではないと思うのです。主イエスが「罪なき者まずこの女に石を投げよ」と言いたもう たことは、逆に申すならば「罪なき者」のみがこの女性に、否、私たち全ての者に、石を投 げることができる、真の審きをなしうるかただということです。このことに、彼女は気が付 いたのです。彼女は「主よ、誰もございません」と言って主イエスを見上げました。瞬間的 に、彼女は主イエスが神から遣わされたキリスト、神の永遠の御子であられることを悟りま した。ああそうだ、誰もいないのではない、このかたのみが、私をお審きになることができ る唯一のかただ。このことに気が付いたのです。  これこそ、今朝の御言葉によって、私たち一人びとりが問われていることです。人には真 の審きはなしえません。ただ神のみが真の審きをお与えになる唯一の主です。この唯一の主 なる神の御前に立ちうるのでなければ、私たちの本当の自由と幸いと生命はないのです。改 めて申します。主なる神のみが私たちを正しく審きたもうのです。この神の御前に、私たち は健やかに立ちうる者でしょうか?。答えは「否」でしかありません。パリサイ人だけでは なく、この女性も、私たち全ての者も、聖なる神の御前に健やかに立ちえない存在なのです。 では、どこに私たちの、この女性の、パリサイ人らの、救いがあるのでしょうか。それは今 朝の最後の11節「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないよ うに」と言われた主イエスの御言葉にあるのです。  「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。これは、 こういう意味です。私はあなたを罰するためではなく、あなたを救うために、あなたの全て の罪と死を背負って十字架にかかり、あなたを贖い、あなたに永遠の生命を与えるために世 に来たのだ。そのようにはっきりと主は語っていて下さるのです。だから「今後はもう罪を 犯さないように」とは「今後のあなたの人生の全てを私の手に委ねなさい」という意味です。 私があなたと共に歩む、私があなたの全存在を贖う、私があなたを死から救い生命を与える、 そのように主ははっきりと告げていて下さるのです。  人間にとって最も大切な、最も必要な、人間を人間たらしめる、真の審きと真の赦しは、 ただキリストのもとにあるのです。主は私たちを「罪人のかしら」なる私たちを救うために 世に来られ、計り知れない御苦しみをお受けになり、十字架におかかり下さり、御自身の上 に審きを引き受け、真の赦しと平安を私たちに与えて下さるのです。この、キリストの恵み のもとにあってのみ、はじめて私たちは、自己絶対化の大きな罪から救われるのです。キリ ストの恵みと憐れみの主権のもとを、心を高く上げて、信仰の道を歩んで参りたいと思いま す。祈りましょう。