説    教   ゼカリヤ書9章9節  ヨハネ福音書12章12〜16節

「主のエルサレム入城」

2017・03・12(説教17111687)  旧約聖書ゼカリヤ書9章9節にこのように記されていました。「シオンの娘よ、大いに喜べ、 エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって 勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る」。  ゼカリヤは紀元前6世紀前半に活躍した預言者です。この時代“バビロン捕囚”という出来 事がありました。イスラエルが新興国バビロニヤに滅ぼされ、国中の人々がバビロンの地に捕 囚として連れ去られ、50年もの間つぶさに苦難を嘗めた出来事です。やがて50年後の紀元前 538年、ペルシヤ王クロスの帰還命令により故国イスラエルに帰ることを許された人々は、エ ルサレム神殿の再建という未曾有の大事業に取り組みます。それは単なる建物の復興ではなく、 真の礼拝の再建によるイスラエル国家の再構築という大事業でした。その困難な事業のさなか にあって、預言者ゼカリヤは一つの幻をイスラエルの民に示したのです。  それこそ9節の「あなたの王が来られる」という喜びの音信(おとずれ)でした。地上のあ らゆる圧制と暴虐から全ての人民を解放し、真の自由と平和を与える「救い主」なる「王」の 到来が高らかに預言されているのです。しかも、その救い主なる「王」は「義なる者であって 勝利を得、柔和であって、ろばに乗る」かたとして再建されたエルサレム神殿に入城されると いうのです。しかしこれは常識では考えられないことでした。なぜならロバは動物の中で最も 卑しい家畜として蔑まれていたからです。しかもこの真の「王」は「ろばの子に乗って」入城 されるというのです。そしてそれこそ、このかたが真の「王」すなわち「救い主キリスト」で あることの「しるし」だと言うのです。  もう40年ほど前ですが“キリストの生涯”というアメリカ映画を観たことがあります。内 容は聖書に基づきキリストの生涯を忠実に描いたもので、見応えのあるとても良い映画でした。 その中で、主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城さたとき、それを見た祭司長やパリ サイ人らが大声で嘲笑う場面がありました。妙にその場面が印象に残っています。「あの哀れ な姿を見ろ、あれがイスラエルの王だというのか?」。パリサイ人らはそう言って、ロバの子 に乗った主イエスを嘲笑ったのです。事実もそのとおりであったでしょう。群衆が手に手に棕 櫚の枝を持って歓迎するイスラエルの真の王、その王は何と「ろばの子」に乗って入城せられ たのです。「王」と「ろばの子」という途方もないミスマッチに、祭司長らは驚きを通りこし て嘲笑ったのです。ロバの子を蔑んだのと同様に、主イエスをも蔑んだのです。  そのときの彼らは、預言者ゼカリヤが示した「キリストのしるし」を見事に忘れていたので した。この神殿の完成は、全世界の救いと祝福は、神から遣わされた唯一の真の「王」すなわ ちイエス・キリストの到来によってのみ成し遂げられる。その真「王」イエス・キリストは「ろ ばの子」にお乗りになって来られる。それこそそのかたが本当のキリストである「しるし」で ある。この大切な旧約の預言を彼らは忘れていたのです。神の御言葉を忘れ、自分たちの判断 だけを拠り所としたのです。目に見えるものだけを「主」とし、神に栄光を帰さなかったので す。  エルサレム神殿は、ピラミッドにも劣らぬ壮麗無比な大建築でした。ヨセフスという歴史家 は当時のエルサレム神殿について「それが朝日を受けて輝くさまは、さながらもう一つの太陽 が地上に出現したかのごときであった」と記しています。しかし主イエスはパリサイ人らに「こ の神殿を壊したならば、わたしは三日のうちにそれを建て直すであろう」と言われました。パ リサイ人らはやはりそこでも、驚くより先に主イエスを嘲笑ったのです。「この神殿を建てる のには48年もかかっている。それなのにあなたは、それを3日で建てると言うのか」と。主 イエスが語られたのは、ご自分の十字架と復活によって建てられる真の神の家(教会)のこと でしたのに、彼らはそれを悟っていなかったと福音書は記しています。  さればこそ、主イエスはパリサイ人らに言われました。「あなたがたは、この建物をしか見 ていないのか。この建物の石ひとつでさえも、他の石の上に残らないようになる日が来るであ ろう」。事実西暦90年ローマ軍による徹底的な破壊によってエルサレム神殿は瓦礫の山になり ました。私はその破壊の痕跡を見たことがあります。堅い大理石が粉々に打ち砕かれているそ の様は、人間の宿業のようなものを感じさせました。ローマ軍は神殿の土台の礎石までも掘り 返し、二度と再建できないように全てを徹底的に破壊したのです。今日では“嘆きの壁”と呼 ばれる神殿西側の壁の一部分のみが僅かに残されているだけなのです。  実はこれは、エルサレム神殿だけのことではないのです。全て目に見えるものは総て、外見 を永遠に留めうるものは何一つ地上には(歴史には)存在しないのです。教会も同じです。ただ 地上の建物をもって“教会”と呼ぶのなら、それは空しいのです。教会の本質は目に見えない キリストの恵みの主権にあります。主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかから れ、死にて葬られ、三日目に復活されたことにより、そこにキリストの御身体なる真の教会が、 聖霊なる神の御業として建てられたのです。そのことを使徒信条は「われは聖霊を信ず。聖な る公同の教会、聖徒の交わり…を信ず」と告白しているのです。私たちの教会の基礎は大理石 の礎石などではなく、教会の唯一の土台は「イエスは主なり」との信仰告白にあるのです。唯 一のかしらなるキリストを信ずる信仰告白によってのみ、教会は初めて真の教会たりうるので す。それゆえ教会の制度・組織もまた、キリストの主権のみを現すために存在します。そのよ うな真の教会を形成し、ともに主を待ち望みつつ、主の御身体なる教会に仕えることが、私た ち一人びとりに与えられている務めであり責任です。  私たちはこの新しい礼拝堂を主にお献してはや17年経ちました。設計者の折田さんに「百 年もつ礼拝堂を建ててほしい」とお願いしました。その願いは十分に適えられました。今年度 は大規模補修工事も行われました。しかし百年後の、今はまだ顔を見ていない、しかしやがて この同じ場所で礼拝を献げるであろう人々に対して、私たちが負うている責任はただそれだけ の事ではありますまい。何よりも私たちは百年後の人々に対して、目に見える建物以上に、目 に見えない教会の本質を、今ここにおいて健やかに形成しているか否かが問われるのではない でしょうか。「百年前の葉山教会の人たちは、この建物と共に、それ以上に、立派な信仰の遺 産を残してくれた」と言われる私たちであらねばなりません。そのような「聖徒の交わり」た る「聖なる公同の使徒的教会」に成長することこそ、今の私たちの主にある責任なのではない でしょうか。  さて、祭司長やパリサイ人たちだけではなく、主イエスと寝食を共にしていた弟子たちでさ えも、ロバの子にお乗りになったキリストの「しるし」を、すなわち神の御言葉を正しく悟っ てはいなかったという事実を、私たちは今朝の16節を通してはっきりと示されるのです。「弟 子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイ エスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、 思い起こした」と記されていることです。特に最後に「人々がイエスに対してした」とある 「人々」とは、祭司長や律法学者そして何よりもエルサレムの群衆全てをさしています。それ こそ私たちの罪の姿が示されているのです。最初は棕櫚の枝を打ち振り、歓呼の声を上げて主 イエスを迎えた群衆も、主イエスが自分たちの願っていた“この世の王”ではないとわかった 瞬間、掌を返すように「十字架につけよ」と絶叫し、主イエスに対して呪いの言葉を投げつけ たのです。  そこでこそ大切な音信は「弟子たち(でさえも)初めはこのことを悟らなかったが、イエス が栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてある」ことを「悟った」と記さ れていることです。この「悟った」とは「信じた」という意味です。聖書の御言葉を、自分に 対するキリストの福音として信ずる者になったということです。これを言い換えるなら、自分 の義、自分の利益、自分の清さのみを求めていた弟子たちが、主イエスを信ずる信仰によって 新たにされ、キリストの愛と祝福の内を歩む新しい人生を生きる者になったことです。測り知 れない罪人さえも、赦し、極みまでも愛して、その救いのために、生命を献げて下さったキリ ストの愛によって、立ちえざるものが立ち上がり、歩みえない者が歩みはじめ、神の子であり えなかった者が神の子とされて、新しい生命に満たされ、平安と、慰めと、限りない勇気を与 えられたのです。  だからこそ預言者ゼカリヤは申します。「シオンの娘よ、恐れるな」と!。ゼカリヤ書の原 文では「大いに喜べ」となっています。恐れを駆逐せしむる大いなる喜びが、今あなたのため に神からもたらされた。神の大いなる救いの御業があなたに与えられた。それゆえ、もはやあ なたは何も恐れる必要はない。あなたの心に重くのしかかる全ての不安や苦しみ、悩みや試練 や病苦の中で、あなたはいま神の民として「永遠の御国」への道を歩む者とされている。だか ら恐れてはならない。慄いてはならない。「今こそあなたの王が、ろばの子に乗っておいでに なる」からだ。そのようにゼカリヤは宣べ伝えるのです。  主イエスは、限りなき柔和の主として、私たちのただ中においでになりました。その確かな 「しるし」こそ「ろばの子」です。それはあのベツレヘムの馬小屋、主の最初の褥となったあ の飼葉桶にも較ぶべきものです。それと同じように、私たちの生活は、私たちの存在は、あの 飼葉桶、あのロバの子のようなものでしかありえないのです。使徒パウロが言うところの「土 の器」でしかないのが私たちなのです。しかしそのロバの子は、主イエスをお乗せしたロバの 子です。あの飼葉桶は、主イエスをお迎えした飼葉桶です。あの「土の器」は、福音という絶 大な宝が盛られた土の器です。そのとき、ロバの子は、飼葉桶は、土の器は、そのあるがまま に、主の尊い御用のために、用いられてゆくのです。主が必ず、豊かにお用い下さるのです。  私たちにとって、それ以上の幸いと喜びはないのです。それこそが私たちの教会なのです。 私たちはここに集うて、自分の義を誇るのではない。自分の正しさや清さを誇示するのでもな い。ただひたすらに「キリストの義」のみを讃美し、栄光をただ神にのみ帰したてまつるので す。それが私たちの献げる礼拝であり、私たちの形成する真の教会です。「主イエスは、ろば の子を見つけて、その上に乗られた」(14節)。この「見つけて」とは「お選びになった」とい う意味です。主はいま、ロバの子をお選びになるのです。私たちを、御業のためにお選びにな るのです。そして主の教会の仕え人となして下さるのです。主は必ず全ての人々に、救いと祝 福を、永遠の生命の喜びを、与えて下さるのです。祈りましょう。