説    教     詩篇48篇8節    ヨハネ福音書17章24節

「神の永遠の愛」

2017・03・05(説教17101686)  主イエス・キリストは、私たちのために絶えず祈り続けたまいます。主イエスの祈りに支 えられて、私たちの日々の信仰の生活があるのです。その意味で特に今朝の御言葉・ヨハネ 伝17章24節は大切です。主イエスはこのように祈りたもうのです。「父よ、あなたがわたし に賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前から わたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい」。  そこで、この24節は一見2つの部分から成り立っているように見えます。まず前半で主イ エスは、私たちがいつも主イエスと共におれるようにして下さいと祈っておられる。そして 後半では、主イエスの創造以前からの「栄光」を私たちにも「見させて下さい」と父なる神 に願っておられる。この2つの祈りは一見別々のように見えますけれども、決してそうでは ありません。むしろこれがひとつの祈りであるというところに大きな意味があるのです。  それではまず24節の前半の祈りについて、ご一緒に吟味しつつ心に留めて参りましょう。 たしかにこの前半の祈りの主旨は、主イエスが私たちをして「わたしのいる所に一緒にいる ようにさせて下さい」と御父に執成しておられることにあります。そしてその“私たち”と は「あなたがわたしに賜わった人々」つまり、父なる神が主イエスにお与えになった(お委 ねになった)人々のことです。具体的に申しますならば「主イエスをキリストと信ずる全て の人々」のことであると、そのように考えることができるでしょう。  しかし、より深くこの御言葉を味わうとき、決してそれだけの意味ではないということが わかるのです。つまり、今ここでイエスをキリスト(救い主)と告白し、主の教会に連なる 私たちだけのことを、主は考えておられるのではないということです。もともとこの17章の 祈りの全体、ひいてはヨハネ福音書全体を通して観るならば「御父が主イエスに賜わった 人々」とは、実は全世界の“全ての人々”をさしているのだということがわかります。つま り主イエスは、今ここに連なっている私たちだけではなく、世にある全ての人々のために「執 成しの祈り」を献げておられるのです。  何よりもも同じヨハネ伝14章の冒頭に、主イエスは「わたしの父の家には、すまいがたく さんある」と仰せになりました。そして14章2節と3節には「わたしは…あなたがたのため に場所を用意しに行くのだから。そして行って、場所の用意ができたならば、またきて、あ なたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」 とはっきり語りたもうたのです。特にこの最後の御言葉は今朝の17章24節と全く同じ表現 です。どちらも「わたしのいる所にあなたがたも一緒にいるように」と、主イエスみずから 世にある全ての人々のために祈りたもうた執成しの祈りなのです。  私たちの信仰生活の理想と目的は「いつもキリストと共にあること」であると言い切るこ とができるでしょう。信仰生活の内容もまさにその一言に尽きると言ってよい。たとえば、 私たちは信仰の先達たちを偲ぶとき「あの人はいつもキリストと共にあった人である」そう いう言いかたをして信仰の姿勢を偲ぶのではないでしょうか。そして「あの人はいつもキリ ストと共にあった人である」と語るとき、私たちの心はその人への個人的な追慕を離れて、 主なる神への讃美と感謝に満たされるのではないでしょうか。天に召された信仰の先達を通 して神の祝福と恵みを讃美することこそ、私たちキリスト者に与えられた全てにまさる慰め であり平安なのです。  しかし同時に、私たちはそのようなとき、このような思いも心に抱くのではないか。それ は「たしかにあの人は、いつもキリストと共にあった人である。しかしこの私はそうではな い」という忸怩たる思いです。そして実はこの忸怩たる思いこそが、意外に根深く私たちの 現実を支配しているのではないでしょうか。たしかに「いつもキリストと共にあること」は 信仰生活の理想の姿です。しかしそれはあくまでも理想であって、それを実現できる人は、 本当に限られた、恵まれた人のみなのだと、そういう思いも私たちは抱くのではないか。自 分はとても「いつもキリストと共にある」人間などではない。弱さと汚れに満ちた存在であ る。自分を省みて、まことに慙愧に耐えざる私たちなのではないでしょうか。  そのような私たちの忸怩たる思いは、しばしば、信仰生活を立派に全うした人々に対する 嫉妬や偏見として現れることがあります。それは「あの人があんなに立派な信仰の生涯を送 ることができたのは、環境や家庭が恵まれていたからだ」そのような思いです。そして案外 そこで私たちがひそかに思うのは、あの主イエスがなさった「種まきの譬え」なのです。あ る人が種を播くために出ていった。播いた種はいろいろな場所に落ちるのです。ある種は道 端に落ちた。ある種は土の薄い石地に落ちた。またある種は茨の茂みの中に落ちた。そうい う種は全て、芽を出したけれども涸れてしまったり、あるいは幾らか成長はしたものの、つ いに実らぬまま萎れてしまったりするわけです。よく肥えた畑の上に落ちた「恵まれた」種 だけが成長して実を結び「三十倍、六十倍、百倍にもなった」のです。  私たちは、立派な信仰の生涯を送った先達たちを羨望のまなざしで見つめつつ、しかし忸 怩たる思いを打ち消すように、どうせ自分は「道端、土の薄い石地、または茨の茂みに落ち た種」なのだと、どこかで勝手な聖書解釈をしているのではないでしょうか。もしそうなら ば、どうか私たちは主イエスの御言葉に正しく聴く者になりましょう。たしかにあの「種ま きの譬え」においては4種類の異なる土地が出て参ります。しかしそれは「あなたはいった いどの土地なのか」と問われていることではないのです。そうではなく、私たちの誰もがそ の4種類の土地に「なりうる」存在なのです。そこで大切なことはただひとつです。「御言葉 を聴いて信じた人」は全て「よく肥えた畑」になるのだということです。そして必ず「三十 倍、六十倍、百倍」もの実りを生み出すようになるのです。大切なことは「御言葉を聴いて 信じること」にあるのです。  すると、どういうことになるのでしょうか?。実はこの事柄と関連して、今朝の24節の御 言葉の中にこそ、私たちが聴くべき最も大切な福音の音信があるのです。それは「天地が造 られる以前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい」 と主が祈っておられることです。「天地が造られる以前からわたしを愛して下さって、わたし に賜わった栄光を、彼らに見させて下さい」。この「見させて下さい」とは「その現実におい て彼らを新たにして下さい」という意味の言葉です。つまり主イエスはここで、天地創造以 前からある三位一体なる神の永遠の愛の交わりの内に、私たち全ての者を入らしめて下さい と御父に祈られ、まさしくその愛の現実の中でこそ、私たちが新たな者になるようにと祈っ ておられるのです。その場合大切なことは、ここで主が言われる「栄光」とは何かというこ とです。それは主イエスにとっては十字架のことであり、主を信ずる私たちにとっては「復 活の生命」(永遠の生命)のことなのです。  私たちは「復活の生命」(永遠の生命)という場合、それは端的にキリストの生命であって、 この自分とは無関係だ、などと考えやすいのです。しかし今朝の御言葉にどのように告げら れていたでしょうか?。「復活の生命」(永遠の生命)とは何よりも、天地創造の以前から父・ 御子・聖霊なる三位一体の神の内にあった完全なる愛の交わりの現れであるという事実です。 つまり「復活の生命」とはキリストの十字架の死と葬りによって世に現れた生命なのですが、 それは既に天地創造の以前から、永遠から三位一体なる神の内にあった完全なる愛の交わり であり、それが主イエス・キリストの十字架の贖いによって世に現されたのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。私たちのこの教会はその「復活の生命」(永遠 の生命)の共同体なのです。教会はコイノニア(ともにキリストの復活の生命にあずかる聖 徒の群れ)です。キリストの十字架と復活の最も確かな証拠は教会の存在です。なぜなら教 会は、私たち全ての者の罪を背負って贖いの死をとげられ、葬られて陰府に下り、甦られた 復活のキリストの御身体にほかならないからです。それならば、いまこの教会において、ま さしくこの礼拝において、私たちは共に見る幸いを与えられています。私たちを愛したもう 神の永遠の愛と、その永遠の愛に基づく「復活の生命」(永遠の生命)がどんなに確かなもの であるかを…。  この恵みを知るとき、私たちの人生そのものの視点が180度変わるのです。根本的な変化 が私たちに起るのです。それは「キリストと共にあること」は特別な一部の恵まれた条件の 人たちだけの祝福なのではない、いまここに集うている私たち全ての者が、いまそのあるが ままに、まさしく主の御身体なる教会によって「キリストと共にある」「聖徒の交わり」とな らせて戴いているのです。復活のキリストの限りない生命の内に入れて戴き、その生命に共 にあずかる群れとされているのです。だから信仰とはヘブル書が言うように「まだ見ぬ事実 の確認」です。「まだ見ぬ事実」というのは、神のなさる救いの御業はいつも、私たちの思い を遥かに超えているからです。そして「確認する」とは、私たちの思いを遥かに超えた神の 御業を、ただ神の御言葉によって「確認する」幸いを与えられているからです。言い換える なら信仰とは、私たちの思いや望みに反して、私たちに対する神の絶対の救いの御業を信ず ること(確認すること)です。これこそ信仰による認識であり、聖霊による英知(神への全 き信頼)です。  そのとき、私たちはこの自分も、否、この自分こそ「いつもキリストと共にある」僕とさ れている事実を「確認する」者とされるのです。私たちの思いに反して、それを神のなさる 救いの御業として受け入れ、讃美感謝する僕とされているのです。何よりも既に私たちは、 キリストの御身体なる教会に堅く結ばれているのです。キリストの復活の生命に堅く結ばれ ているのです。死を超えた永遠の生命をいま歴史において生きる者とされているのです。主 は私たち一人びとりにはっきりと言われるのです。「わたしはあなたを抜きにして神の国を 考えない」と。あなたこそ御国の民とさその人だと。なぜなら、主はまさしく私たち全ての 者のために十字架に死んで下さったからです。私たちの救いと生命のために、死から甦られ たからです。キリストが私たちのために来られ、十字架に死なれ、甦られたからには、私た ちに与えられた救いは限りなく確かなものなのです。  もういちど、今朝のヨハネ伝17章24節をお読みして終わりましょう。「父よ、あなたがわ たしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前 からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい」。祈りまし ょう。