説    教     詩篇124篇8節    エペソ書3章1〜7節

「キリストの囚人」
2017・02・26(説教17091685)

 使徒パウロにはいつも変わらぬ、大きな喜びがありました。それは、自分がいつも、どのよう
な時にも、ただ神の恵みと憐れみによって、主イエス・キリストの僕・福音の使徒とされている
ことです。それこそパウロの最大の喜びであり誇りでした。パウロはその喜びと誇りを「自分は
…イエス・キリストの囚人である」という言葉で現しています。まさに今朝のエペソ書3章1節
以下がその一つです。「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにイエス・キリストの囚人と
なっているこのパウロ」とあることです。

 さて「囚人」とは、牢獄に繋がれた者のことです。良い言葉ではありません。むしろ隠したい
言葉、社会常識からすれば恥ずべき言葉です。しかもパウロがこの手紙で「イエス・キリストの
囚人」と書いたとき、それは単なる言葉の喩えではなく、パウロは現実にローマで牢獄に繋がれ
る身になっていました。つまりパウロはここで、自分が「イエス・キリストの(証し人たる理由
によって)牢獄に繋がれる身になっていること」を、限りない喜びと誇りと感謝をもって明らか
にしているわけです。

 当時の古代ローマ社会においては、囚人にはかならず「殺人の囚人」「強盗の囚人」「騒乱の囚
人」というように、いわゆる“罪状書き”が付けられていました。その罪状書きと共に公衆の面
前に晒し者にされたのです。使徒パウロにつけられた罪状書は「イエス・キリストの囚人」とい
うものでした。しかしパウロにとってこの罪状書こそ、またとない伝道の機会でした。悪事のゆ
えに囚人となったのではなく、イエス・キリストの福音を証したゆえに囚人となったのですから、
何ひとつ恥じる必要はなく、むしろ喜びと誇りをもって、明歴々露堂々とキリストを証しする機
会を得たことをパウロは喜んだのです。

 さて、このエペソ書3章1節において、パウロは「異邦人」という言葉を「全世界」と同じ意
味で用いています。私たちの感覚(常識)で申しますなら、囚人になることは不自由な身になる
ことです。しかしパウロは違いました。自分は今こそ「異邦人」(すなわち全世界)にキリスト
の御名による唯一永遠の救いを宣べ伝えるために「キリストの囚人」とされたのだ。そのための
真の自由を、いま「キリストの囚人」として神は与えて下さったのだと言うのです。パウロにと
っては、たとえ自由の身であろうと牢獄に繋がれていようと、なすべきことはいつも一つでした。
いかなる境遇にあろうとも「イエス・キリストの囚人」として、ただ十字架と復活のキリストの
福音のみを宣べ伝えることです。「囚人」とは徹底的な支配の下にある者です。パウロはいま「キ
リストの囚人」という罪状書で牢獄に繋がれるほどに「キリストの所有」キリストの真の僕とさ
れたことを、限りない恵みの出来事として喜び、言い表しているのです。

 かつて1875年(明治8年)京都に同志社を設立した新島襄は、当時の内務大臣田中不二麿から文
部省に入って官僚政治に加わるよう要請を受けますがそれを拒絶しました。自分はキリストの伝
道者であって、政治家になるつもりは毛頭ないというのが理由でした。怒った田中不二麿は新島
に「では君は耶蘇の囚人ではないか」と申しますと、新島は「君の言うごとく吾は耶蘇の囚人な
り。しかしてそを最も誇りとする者なり」と答えたそうです。後に新島が著した「文明の基礎」
という文章の中にこのようなくだりがあります。「神ヲ知リ、敬シ、恐レ、且信愛スルハ人ノ最
大切ナル者ニシテ、之無クンバ人迷ニ陥リ、又ハ物ノ奴隷トナリ、決シテ自由ノ人トナル能ス」。
新島は言うのです。文明の基礎は人間が真の自由を得ることにある。その真の自由を得るために
は、真の神を知り、敬い、畏れ、信ずる者にならねばならない。真の神を信ずることなくして、
人間は物質の奴隷であるよりほかにないと。私たちは自分がいつも「キリストの囚人」であるこ
とを全てにまさる喜びとし誇りとしているでしょうか。主イエスは「自分たちは罪人などではな
い」と言い張るパリサイ人らに対して、ヨハネ伝8章34節において「すべて罪を犯す者は罪の
奴隷である」と語られました。「キリストの囚人」でない者は「罪の囚人」なのです。

 使徒パウロはわかっているだけでも、ローマ、カイザリヤ、エペソの3箇所で投獄されていま
す。エペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書の4書簡は「獄中書簡」と呼ばれ、パウロが
獄中で書いた手紙です。おそらくエペソ書はローマの獄中で執筆されたと考えられています。そ
れはパウロの殉教の直前であり、エペソ書をパウロの絶筆であると考える学者もいます。私はカ
イザリヤの牢獄の跡を訪ねたことがありますが、そこには鎖を通した穴が残っていました。もし
かしたらパウロもここに繋がれたのかもしれないと思いました。同じ獄中書簡のピリピ書1章12
節以下を見ると、パウロは自分の投獄が「むしろ福音の前進に役立つようになった」と言い「わ
たしと共に喜んで欲しい」とピリピ教会の人々に訴えています。「すなわち、わたしが獄に捕わ
れているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかに
なり、そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れること
なく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった」。このピリピ書1章13節にある「兵営全体」
というギリシヤ語を「ローマの街全体」と訳す写本もあります。そしてパウロは同じピリピ書2
章17節にこう語っています。「そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、
わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。同じよう
に、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい」。

 さて、このパウロの「喜び」はどこに由来していたのでしょうか。私たちはその喜びの根源を
今朝のエペソ書3章2節以下に読み取ることができます。3章2節から9節までお読みしましょ
う。「わたしがあなたがのために神から賜わった恵みの務めについて、あなたがたはたしかに聞
いたであろう。すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義を知ら
されたのである。あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理解しているかが
わかる。この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとによって啓示さ
れているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。
それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者と
なり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。わたしは、神の力が
わたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。すなわ
ち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリスト
の無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、更にまた、万物の造り主である神の中に、世々隠されていた
奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである」。

 ここに「奥義」また「キリストの奥義」という言葉が繰返し出て参ります。英語の聖書では「ミ
ステリー」と訳されます。その元々の語源「ミュステーリオン」というギリシヤ語は「顕される
ことを待っている事柄」という意味です。「奥義」とは本来は「顕されることを待っている事柄」
なのです。それが「奥義=ミュステーリオン」なのです。そしてその「事柄」こそイエス・キリ
ストによる「異邦人」すなわち全世界の人々に対する永遠の救いの出来事です。その出来事がい
まや“キリストによって”私たちに明らかにされた。それが「キリストの奥義」ということです。

 それは更に、こう言うことができます。ふつう武道でも稽古事でも「奥義」を伝授されるとい
うと、私たちはそれを「自家薬籠中のものにした」と思うのではないか。しかし「キリストの奥
義」とは、どこまでも「キリストの奥義」なのです。主体はキリストであり、私たちはそれを戴
くのみです。十字架と復活のキリストのみが「主」なのです。ですから「キリストの奥義」とは
今朝のエペソ書3章6節にあるように、すべての「異邦人」をして「福音によりキリスト・イエ
スにあって(結ばれて)、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、
共に約束にあずかる者となること」へと繋がるのです。すなわち、そこに建てられるのは「キリ
ストの御身体なる真の教会」です。その教会に結ばれることによって私たちは、死ぬべき身体を
纏いつつ、キリストの義(キリストの生命)に覆われて生きる僕とされてゆくのです。7節と9
節の言葉で言うなら「自分に与えられた神の恵みの賜物により」「キリストの無尽蔵の富」を与
えられているのです。

 そこで思い起こすのは、宗教改革者カルヴァンが“キリスト教綱要”の中で「信仰とみなされ
るべきものは全てキリストにおいて我々に備えられている」と語ったことです。これは慰めに満
ちた素晴らしい言葉です。私たちは「信仰」と聞くと、それは「自分の信仰」だと思いやすい。
更に言うなら「(信仰とは)自分の心の状態のこと」だと思いやすいのです。だから私たちは簡単
に「私は信仰の薄い者です」などと謙遜のつもりで言ったりするのです。しかし本当の「信仰」
とは、根拠を私たちの中に持つのではなく、ただキリストにおける神の御業に信仰の全ての根拠
があるのです。それこそカルヴァン流に言うなら、ただキリストの中に「全て…備えられて」い
るのです。さらに言うなら、私たちに対するキリストの御業の中に、私たちの信仰の全てがある
のです。それがカルヴァンの言う「信仰とみなされるべきものは全て、キリストにおいて我々に
備えられている」という言葉の意味です。

 これを逆に申しますなら、キリストの御身体なる教会という母体を離れた信仰生活はありえな
いのです。それは空中に樹木を育てようとするのと同じです。キリストにおける神の救いの御業、
キリストの御身体という教会に根ざしてこそ、私たちの信仰は大きく成長するのです。信仰生活
のひとつの大きな危険は、私たちの信仰が教会から離れた(つまりキリストから離れた)ものに
なることです。そこに信仰の主観化、人間化、個人主義化が起こります。パウロはそれこそ、教
会の中で「預言」ではなく「異言」が幅をきかせることだと見抜きました。「預言」は神の御言
葉に仕え、御言葉のみを宣べ伝えますが、「異言」は自分を宣べ伝え、信仰の装いのもとに自分
を主とすることだからです。ですからカルヴァンは「キリストの信仰」という言葉さえ用いてい
ます。私たちの信仰はすなわち「キリストの信仰」である。信仰の確かさはただキリストの中に
のみある。私たちの中には救いを確かにする何物もありません。それはただキリストの中にのみ
あるのです。そして私たちは教会に連なり、教会生活を大切にし、教会に仕え、礼拝者として御
言葉に忠実に生きることにおいてのみ「キリストの奥義」にあずかる僕とされるのです。それこ
そが「信仰の奥義」(ミステリウム・フィデイ)です。

 パウロは今朝の御言葉の8節に「聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたし」と語っていま
す。これは「小さい」という言葉の最上級を比較級にした不思議な言葉で、新約聖書でここだけ
に出てくるものです。パウロはキリストの恵みを、既成の言葉ではどうしても現わしえないと考
えたのです。最も小さき者、すなわち罪人のかしらなる私たちが、キリストによって贖われ、教
会の枝とされている。この事実こそ、既にキリストによる最後の勝利が「天上にあるもろもろの
支配や権威」に及んでいることの確固たる証拠なのです。まさに「一花開きて天下春なり」です。
だからパウロは「この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をも
って大胆に神に近づくことができる」と語っています。この「わたしたち」とはここに集う私た
ち全ての者のことです。そして「確信」とは、私という“罪人のかしら”さえ救って下さった神
は、御自身の教会によって、この全世界に救いの御業を完成させて下さるとの確信です。

 だからこそ、パウロは3章13節にこう語ることができました。「だから、あなたがたのために
わたしが受けている患難を見て、落胆しないでいてもらいたい。わたしの患難は、あなたがたの
光栄なのである」。同じようにパウロはピリピ書1章20節にも「そこで、わたしが切実な思いで
待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように
今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめら
れることである」と語っています。

 この「あがめられる」とは「大きくなる」という意味です。私たちではなく、私たちを贖い取
って下さった、十字架の主イエス・キリストの愛と恵みが、日に日に大きくなる生活の幸いです。
自分の正しさや清さにしがらみつくのではない、キリストの義にこそ覆われて生きる者の、本当
の自由と幸いと喜びが、そこにあるのです。そして私たちの日々の生活、全生涯が、キリストの
愛の麗しさ、確かさを物語るものとされてゆく。私たち一人びとりがいまキリストの証人とされ
ている。そこに「キリストの奥義」に仕えるパウロの、また私たち一人びとりの幸いと感謝があ
り、教会に連なる者の光栄があることを覚えます。祈りましょう。