説    教     詩篇103篇1〜5節    ガラテヤ書6章6〜10節

「神の賜物の共有」

2017・02・05(説教17061682)  今朝与えられたガラテヤ書6章6節以下に、このように告げられていました。「御言葉を教えてもら う人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。まちがってはいけない、神は侮られるような かたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉か ら滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」。使徒パウロはここに、愛 するガラテヤ教会の人々に「御言葉を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさ い」と勧めています。この「すべて良いもの」とは「神から賜わった恵み(そして祝福)の賜物の全体」 をあらわし「分け合いなさい」とは「(その恵みを)惜しみなく共有する群れになりなさい」という勧め です。  教会はキリストの身体、聖徒の交わりです。それは一枚の布に譬えることができます。布は(織物は) 横糸と縦糸とで織りなされています。横糸だけでは織物はできないのと同じように、人間同士の交わり だけでは主の教会にはなりません。人間同士の交わりという横糸に、御言葉と聖霊という「神の賜物」 の縦糸が組み合わされて、初めて教会はキリストの身体として成長し、主の教会という織物に成長して ゆくことができるのです。今朝の6章6節の御言葉は、まさにその縦糸の大切さを私たちに示していま す。横糸だけでは織物はできません。縦糸が編みこまれてはじめて、一枚の布になるのです。  そこで、改めて今朝のパウロの勧めを見ますと、パウロはここに、愛するガラテヤ教会の人々に「御 言葉を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい」と勧めています。このこと が強調されていたという事実は、ガラテヤの(諸)教会には、まさに大切な“縦糸”が欠けていたことを 示すのではないでしょうか。言い換えるならば“神の賜物によって生きるキリスト中心の信仰生活”が ガラテヤ教会の人々には欠けていた。教会の縦糸であるキリストとの交わり(聖徒の交わり)が欠如し ていたのです。  だからこそパウロは、ここで語調を改めて「御言葉を教えてもらう人」と「教える人」との関係を敢 えて明らかにしています。それは主がお建てになった主の教会の御言葉に基く恵みの秩序です。エペソ 書4章11節にあるように、主なる神はある人を「使徒」とし、ある人を「預言者」とし、ある人を「伝 道者」とし、ある人を「牧師」「教師」としてお立てになった。それはエペソ書4章12節が告げている ように「聖徒たちをととのえて、奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせる」ためです。私た ちがキリストの恵みの主権のみを現わすまことの教会へと成長してゆくためです。  ですから「教える人」(それこそエペソ書4章11節の語る「使徒、預言者、伝道者、牧師、教師」の こと)は、みずからの才能や熱心や決意で「教える人」になるのではなく、それは「神の賜物」による のです。神から「われ汝を選びて御言葉の役者に立てたり」との召命を戴き、神の霊の賜物を与えられ、 神に選ばれた人のみが「(御言葉を)教える人」として立ちうるのです。ひとりの人が洗礼を受けて教会 員になるということは神の恵みによる選び以外のなにものでもありません。それならば「(御言葉を)教 える人」になるということは、さらに厳しい選びであると言わねばなりません。  私は東京神学大学の後援会に関わっていますが、年々神学校に行く人の数が(献身して牧師になる人 の数が)減っている現実があります。東京神学大学でも毎年文部科学省が規定した学部の学生数を確保 できず、定員割れをおこしています。現在学部一学年の定員が15名ですが、現実には一学年10名ほど で運営されています。大学院も同じような状況です。いっそのこと同志社の神学部のように、学生を献 身者に限らない方針に変えれば、大幅に学生数が増加するのかもしれません。しかし献身して神学校に 入るということは、いつの時代にも「狭き門」であるし、そうあるべきなのではないでしょうか。神学 校の目的は文部科学省の政策に従うことではなく、御言葉を宣べ伝える真のキリストの使徒、教会の牧 会者を育てるためにこそ、神学校は存在しているのです。それは私たちの信仰生活についても同じこと が言えるのです。  「(御言葉を)教える人」は、「日々おのれを捨て、おのれの十字架を負って、主にのみ従う」ことを 求められます。パウロはこのガラテヤ書6章14節にも「わたし自身には、主イエス・キリストの十字 架以外に、誇りとするものは断じてあってはならない」と語っています。まさにそのようなキリストの 僕として、神に選ばれ召し出された者こそが「(御言葉を)教える人」なのです。すなわち「(御言葉を) 教える人」とは「キリストによって、キリストと共に、この世に対して死んだ」者です。この世の与え る富、この世の成功、財産、名声、営利栄達、その他、この世が尊び喜びとするものを捨てて、ただキ リストの御業に仕える僕とされたのです。ひたすらキリストの十字架の福音のみを、全世界の全ての人々 に対する真の救いと喜びと自由と幸いの音信として宣べ伝えるために召されたのです。  ですから、この「教える人」とは言い換えるなら「説教者」であり「牧会者」です。それこそ御言葉 を宣べ伝え、主の教会に仕え、主の群れを教え導く務めです。そこでこそ教会が「聖徒の交わり」であ ることの意味がより明らかになります。「御言葉を教えてもらう人」と「教える人」とが共に御言葉によ って養われ、今ここにおけるキリストの救いの御業に仕える群れへと共に成長してゆく幸いです。です から「聖徒の交わり」とは元々の意味は「聖なるかた(キリスト)にあずかる者たちの交わり」です。 そのような真の教会をこそ、私たちはここに形成してゆく者として選ばれ召されているのです。だから こそパウロは告げています。「御言葉を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさ い」。そこにこそ、神の御言葉に養われ、キリストの義に連なる者とされた私たちの、変らぬ喜びと幸い があるからです。  まさにガラテヤ教会の人々は、この喜びと感謝において欠けていたのです。その理由は「御言葉を教 えてもらう人」が「(御言葉を)教える人」と「すべて良いものを分け合う」ことをしないことにありま した。御言葉の説教を軽んじていた。説教者である牧師の言葉を軽んじていたのです。その結果、教会 の「主」であられるキリストが見えなくなってしまったのです。御言葉を喜びとしないとき、御言葉に 養われる群れであることをやめるとき、そこに残るものは、人間相互の誼(よしみ)による横糸だけの 繋がりに過ぎません。横糸だけの布はばらばらにほぐれてしまうだけです。神の言葉、キリストの御業、 聖霊の祝福という縦糸が加わってこそ、教会という織物は力強く、また美しく織り上がるのです。全て の人に祝福を告げてゆく御言葉の器とされるのです。主は私たちという横糸を神の賜物の縦糸にしっか りと組み合わせて下さいます。そして私たちの教会をより確かな「主の教会」へと成長させて下さいま す。そのためにこそいま私たちはここに招かれ「神の賜物」を共有する群れとして立てられているので す。  それに反して「御言葉を教えてもらう人」たちが「教える人」と「すべて良いものを分け合う」こと ができないとき、すなわち御言葉が正しく聴かれず、キリストの教会が人間相互の誼による横糸だけの 交わりとなり、不平不満や呟きの巷となるなら、私たちはもはや神の御栄えを現す群れであることを失 うのです。それこそ伝道以前の問題です。人間は御言葉に対してこそ我儘で自分勝手になる傾向がある からです。主イエスが地上におられたとき、人々は主イエスのことを口を極めて罵り謗りました。使徒 パウロに対しても様々な批判の声が渦巻きました。エルサレム教会への献金を勧めたパウロのことを 人々は「陰で金を抜き取っているのだ」と陰口を言い、パウロの説教についても「手紙は重々しいけれ ど、説教はつまらないし、長いし、風采も良くない」と悪口を言ったのです。  清貧に甘んじ、信徒に負担をかけまいと心を砕き、躓きを与えまいと肉を食べることもせず、謗られ ても貶されても悪口を言われても、柔和に謙遜に、そして忠実にキリストの御業に仕えぬいたパウロで した。しかし御言葉を謙遜に聴かず、難癖をつけようとする人々はガラテヤ教会の中にも少なからずい て、教会の伝道の足を引っ張り、キリストの御業に泥を塗り、自分たちがさも優れた者のように振舞っ たのです。心の病んだ人も教会にはいます。肉体が病むのと同じように、心の病んだ人もいるのは当然 のことです。ガラテヤ教会にも、今日の教会にも、長老や執事の中にも、心の病んだ人はいるかもしれ ない。しかし大切なことはただ一つです。神の賜物を共有する幸いに生きることです。御言葉によって 養われ、真の礼拝を献げ続け、福音宣教の御業に共に仕えてゆくことです。その志、祈り、目的におい て一つとされるならば、神はその病をもあるがままに、私たちの教会を豊かに祝し用いて御業を現して 下さいます。  私たちはみな、神の賜物と祝福を共有するために、ここに選ばれ、招かれています。この大きな恵み の前に、いつも立ち帰って、心を合わせて信仰の道に歩む私たちでありたいのです。なぜなら、私たち を支配するものは祝福の御言葉だからです。私たちはいつも自分ではなく、キリストを唯一の「主」と する幸いを与えられているからです。永平寺の開祖である道元禅師はこの幸いについて「老婆心こそ尊 ぶべきなり」と言いました。この「老婆心」とは共有する心、分かち与える心です。これを聖書的に言 い換えるとこうなります「御言葉を尊び、感謝しつつ神の賜物を共有せよ」。「教えられる人は、教える 人と、すべてのよきものを分かち合いなさい」とはそういう意味です。この御言葉に具体的に従うとき、 私たちはキリストに連なる喜びと感謝を具体的に現す群れとなります。  主はそのような群れを必ず豊かに祝福し、私たちの思いを遥かに超えた大いなる御業を、この葉山の 地にも現わして下さるに違いありません。だからパウロははっきりと語ります「まちがってはいけない、 神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを刈り取るようになる」。「すなわち、自分の 肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取る」のです。この 「霊にまく者」とは「御言葉に生き、教会に連なり、キリストの復活の生命にあずかって生きる人」の ことです。その人は神の賜物を感謝し、神を讃美しつつ「すべて良いものを分け合う」幸いに生きるの です。いま私たち一人びとりが、その幸いに生きる神の僕とされているのです。  第一テサロニケ書2章13節以下をお読みして終わります。「これらのことを考えて、わたしたちがま た絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聴いた時に、それを人間の 言としてではく神の言として――事実そのとおりであるが――受けいれてくれたことである。そして、 この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである」。祈りましょう。