説    教   詩篇139篇7〜8節   第一ペテロ書3章18〜19節

「陰府に降りし神」

2017・01・29(説教17051681)  使徒信条に記された全ての言葉をばらばらに解きほぐして、その中から私たちが「自分はこの言葉にい ちばん心を惹かれる」というものを自由に選んだとしたら、もっとも多くの関心を集めるのは、どの言葉 でありましょうか。この問いは逆に向けることもできます。私たちの心は、使徒信条のどの言葉にもっと も関心が薄いか、ということであります。それは想像いたしますに、おそらく、主イエス・キリストが「陰 府にお降りになった」という告白ではないでしょうか。  これは教会の2000年の歴史においてもそうでした。今から約1600年前の、いわゆる「古カトリック教 会」の時代、使徒信条の中にキリストの「陰府への降下」の条文を入れるか否か、かなり慎重に議論され ていた記録があります。その名残でありましょうか、今日でも私たちが目にする使徒信条の日本語訳、た とえば1890年の「日本基督教会信仰の告白」の1934年版の改定本文の使徒信条では、この部分だけが括 弧で括られています。信徒の人たちは、こういうことをとても気にします。「先生、どうして使徒信条の『陰 府にくだり』という部分だけに、括弧が付いているのですか?」。この質問を私は幾度受けたかしれません。 そのたびに「これは今から1600年以上も前に疑問視されていた条文なので」などと言っても意味のない ことです。きちんと使徒信条の中に入っていながら、しかも括弧にくくられているのでは、信徒の人たち が疑問を抱くのは当然だからです。  1890年(明治23年)の「日本基督教会信仰の告白」の形式は、括弧も含めてそのまま踏襲すべきとい う見解があります。それも一理あるでしょう。しかし伝統に忠実なことと、形式に忠実なこととは、やは り違うのです。キリストが「陰府に降り」たもうたという告白、これはとても大切な信仰の告白であり、 括弧に括ってはならないものです。信仰告白は私たちの信仰の生命に関わることだからです。言い換える なら、括弧つきの告白文であなたは殉教できますか?…ということです。使徒信条に括弧(但し書き)付 きの文言などはありえないのです。  我らの主イエス・キリストは、私たちのために十字架に死なれ、私たちを罪から救うために、ご自分の 全てを献げて永遠の贖いを成し遂げて下さいました。いま私たちは受難節(レント)の季節を迎えんとして いますが、それはキリストの「死と葬り」を深く覚えつつ、礼拝中心の信仰生活にいっそう励む季節です。 そして、私たちはやがて私たち自身の身にも、この「死と葬り」という事柄が紛れもなく起こることを知 っています。言い換えるなら、キリストは「死にて、葬られ」という事実によってもなお、否、その事実 によってこそ、私たちと完全に一体となって下さった救い主であられる。死の完成としての「葬り」の彼 方にさえ、主は私たちの変わらぬ贖い主(生命の与え主)でいましたもうのです。ここに私たちは、罪と死 に勝利して下さった主による、確かな慰めと救いを見いだすのです。  そこでこそ大切なのは、キリストが「陰府にくだりて」とある使徒信条の告白です。ところで、この「陰 府」という言葉は、私たちに親しみのあるものではありません。日本語としてもほとんど死語になってい ます。せいぜい日本神話(古事記)の中で、イザナギノミコトがイザナミノミコトを「陰府の比良坂」に 訪ねた、などという話を読むぐらいのものです。では、外国語ではどうでしょうか。ラテン語や英語やド イツ語では、昔からの伝統的な訳語として「陰府」を「地獄」と訳してきました。するとその場合、使徒 信条の言葉はより激烈なものに変化します。「(キリストは)地獄に降りたもうて…」となるからです。ま さしく主イエス・キリストは、私たちを地獄から(測り知れない罪から)救うために、みずから「地獄」 のどん底にまで降って来て下さったかたなのです。それが使徒信条の告白です。  このような驚くべき訳語をあてはめた一つの明確な根拠は、「陰府」と訳された元々の言葉が、旧約聖書 の原文ヘブライ語では「シェオール」という言葉だからです。「シェオール」とは何かと申しますと、それ は神に呪われ、神に遺棄された人間の行きところと考えられていました。つまり、救いの余地の全くない 場所、それが「シェオール」でした。もはや神のご配慮、神の御手さえも届くことはない、永遠の暗黒と 絶望の世界、それが「シェオール」(陰府)です。だから「陰府」を「地獄」と訳したのは当然なのです。 そこで、私たちは「地獄」と聞くと大きな抵抗を感じるのではないでしょうか?。それは特別な悪人の行 く所だと思うからです。キリスト教の救済のイメージとは違うと感じるからです。ようするに「自分は地 獄とは無関係だ」という思いが私たちのどこかにあるのです。  しかし、聖書の語る「シェオール」(陰府)とは、そのような、私たちと無関係な場所などではありませ ん。むしろ聖書がはっきりと示していることは、私たちは全て例外なく、生ける聖なる神の御前に「罪あ る存在」だということです。病気に譬えて申しますなら、自覚症状は無いのです。しかし自覚症状が無い のと、病気が無いのとは違います。同じように、私たちは自分では自分の罪を自覚できないほどに深く罪 に捕らわれている存在である。その人間存在の根源につきまとう「罪と死の支配」を聖書は「陰府」また 「地獄」という言葉であらわしているのです。そういたしますと「陰府」また「地獄」はまさに、私たち 全ての人間の問題なのだということがわかるのではないでしょうか。「自覚がないから私は病気なんかじゃ ない」とは誰も言えないのと同じように「私は陰府(地獄)なんかと関係ない」とは誰も言えないのです。 それこそ使徒パウロがローマ書3章10節に言うところの「義人なし、一人だに無し」であります。だか らそれは特別な場所でも何でもない、私たち自身がそこに自分を見いだすのです。「シェオール」(陰府) に私たちはいるのです。親鸞聖人の言う「とても地獄は一定住処ぞかし」です。また、武田泰淳という作 家は「私の中の地獄」という文の中で「地獄の地獄性は、それを測り知りえない点にある」と申しました。 地獄の住人に自覚症状は無いのです。それが「地獄の地獄性」であり、親鸞の言う「とても地獄は一定住 処ぞかし」なのです。つまり「陰府」とは「自分の中には救いの余地が一切ない」という事実です。どこ にも救いの手立てを持ちえないのが「地獄」の本質です。それこそパウロがローマ書7章24節に言う「あ あわれ悩める人なるかな。誰がこの死の身体よりわれを救いたもうや」です。  まさしく、このローマ書7章24節の根源的な問い、真の救いを、慰めを、求めてやまぬ全ての人々に、 今朝の第一ペテロ書3章18節以下の御言葉が力強く答えを(光を)与えているのです。この大いなる慰めの 福音をいま共に聴く幸いを与えられています。それこそ私たちのあらゆる不可能の極限を超えて「地獄の 地獄性」に終止符を打って下さるかたが、いま私たちと共におられるのです。「救い無きところには救いは 無い」というのがこの世の常識です。しかしキリスト教の常識は「救い無きところにこそ救いはある」と いう福音の告知です。いまその福音の告知者が私たちと共におられるのです。第一ペテロ書3章19節を 読みましょう。「こうして、彼は獄に捕らわれている霊どものところへ下って行き、宣べ伝えることをされ た」。  いっさいの虚無が、ここでこそ終わりを告げるのです。ここに告げられている福音は、ひと言で言うな ら、たとえ私たちは神を見失っていても、神は決して私たちを見失いたまわない。たとえ私たちが神を見 捨てていても、神は決して私たちを見捨てたまわない。ということです。この現実が全世界を救う福音と して世界に現われたところはどこか?。理想的世界の中にでしょうか?。夢物語の中でしょうか?。そう ではありません。それはキリストが「陰府にくだり」たもうたところ、すなわち私たちのこの「地獄の地 獄性」とも言うべき現実世界にほかなりません。  スイスのカール・バルトという神学者がこのようなことを語っています。それは1933年、ドイツにお いてナチスがドイツ国会で288名の議席を獲得して大勝利をおさめ、ヒトラーが政権を掌握した年のこと。 バルトはそこに「神を見失った現代」の底知れぬ虚無と、その虚無が引き起こした地獄の様相を見ます。 そこでこそバルトはこう語りました。「世界は今こそ心せよ。神はキリストにおいて陰府にまで降りたもう たという福音の真理の前に、第三帝国(ヒトラー政権)は完全に滅び去るであろう」。主イエス・キリスト は、私たちの測り知れぬ罪の虚無をさえ、陰府に降りたもうたことによって担い取って下さった救い主で あられるのです。近代社会はニーチェの「神は死んだ」という叫びによって始まりました。これは言い換 えるなら「世界は陰府となった」です。しかし最も大切なことをニーチェは見落としていました。主イエ ス・キリストはその「陰府」を救うために「陰府に降り」たもうた救い主であられるという福音を!。  この神の恵みの福音の前に、もはや地獄は私たちを支配しえず、陰府は陰府の力を失うのです。近代社 会が「神は死んだ」と宣言するよりも遥かに深く真実な意味で、神はみずからを死に引渡し、陰府にまで 降られたかただからです。ギターやヴァイオリンの中身は空虚(うつろ)です。その空洞があってこそギタ ーやヴァイオリンは美しい音色を響かせます。それと同じように、私たちの「地獄性」という空虚の中に 主が来て下さった出来事によって、私たちのための主の十字架と復活の出来事によって、その空虚はもは や虚無ではなくなり、主の愛と恵みと祝福が響く空間となるのではないでしょうか。私たちの中の地獄性 さえ、もはや私たちの主とはなりえない。まことの主が陰府という虚無の中にさえ降って来て下さったか らです。その虚無を、主が御言葉と復活の生命によって満たして下さったからです。罪によって死んでい た私たちを、主と共なる喜びの生命に甦らせて下さるために、主は測り知れぬ陰府の(地獄の)どん底にま で降って来て下さったのです。  そのような明確な信仰の理解からでしょう、スコットランド国教会(COS)私たちと同じ伝統に立つ教会 ですが、新しい礼拝式文に記された使徒信条の訳を見ますと、従来の「地獄」という訳に替えて「死」と いう訳語そのものを用いています。「(主は)死の中にお降りになった」と訳すのです。それは「死人」と も訳すことができる言葉です。「(主は)死人の中にお降りになった」と訳すことができるのです。何のた めでしょうか、そこで「死人」を贖われるためです。陰府の支配に閉ざされていた死者のもとにさえ、主 イエスは限りない生命の恵みを現して下さった。そこで私たちを救い、祝福の生命を与えて下さるために、 主は十字架におかかりになり、死にて葬られ、陰府に降られたかたなのです。そこに私たちの限りない慰 めがあります。主は祝福の生命を「陰府」にさえ現して下さったのです。あのラザロを御言葉によって墓 から甦らせられたように、私たちにも御言葉によって永遠の生命を与えて下さるのです。  このキリストが来られたからには、神の御手が届かぬ「陰府」はもはや存在しないのです。このキリス トが十字架におかかり下さったからには、神の御言葉が宣べ伝えられない「陰府」はもはや存在しないの です。神の恵みのご支配の及ばぬいかなる場所もない、そのような世界に私たちは生かしめられています。 「死」はキリストの生命に呑みこまれたのです。滅ぶべき者が、キリストの復活の生命に覆われた者とし て、聖なる公同の使徒的なる教会のひと枝とされているのです。それこそ「(主は)陰府にお降りになった」 という告白が告げる福音なのです。  最後に、今朝のこの御言葉は、特に私たち日本のキリスト者にとって、深い慰めと希望の音信であるこ とを再確認しましょう。私たちにはいつも疑問があるのです。それは生前キリストを信じないまま死んで しまった私たちの祖先たちはどうなるのか?という疑問です。そこにこそ、今朝の第一ペテロ3章19節 は明確な慰めの答えを告げています。神は私たちが愛する者を、私たちに遥かにまさって愛し、その救い のために、私たちの思いを超えた摂理をもってご配慮下さることを、私たちは信じることができるのです。 もちろん、洗礼を受けなくても救われる、ということではありません。そうではなく、信仰を持たずして 死んだ愛する者たちのことを、私たちの思いや心配や悩みに遥かにまさって、神ご自身がご配慮くださる ことを、私たちは信じるのです。なぜならば、主は「陰府にまで下られた」救い主だからです。主の愛と 祝福と摂理の御手が届かない場所など、どこにも存在しないのです。私たちは愛する全ての者を、主の恵 みの御手の内に見いだすことができるのです。祈りましょう。