説     教    創世記22章1〜12節  ヘブライ書11章9節

「イサクの奉献」

2017・01・22(説教17041680)  旧約聖書の創世記12章以下に登場するアブラハムは「信仰の父」と呼ばれ、私たちの信仰の模範と される人です。アブラハムはもとの名をアブラムと言いました。アブラムは75歳のとき、主なる神の 召命(御言葉による新たな人生への召しいだし)に従い、故郷メソポタミアのハランを旅立ち、行先を 知らぬまま、ただ御言葉に従って約束の地を目指しました。このことを創世記15章6節は「アブラム は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と記しています。自分の全てを神の御手に委ねて生き た信仰がアブラムの「義」(救い)と認められたのです。さらにアブラムが99歳のとき、主なる神は 彼に対して「恵みの契約」(全世界に対する救いの約束)を結ばれ、彼に新しく「アブラハム」(諸国 民の父)という名をお与えになりました。そしてアブラハムが百歳のとき、独子イサクが祝福の世継ぎ として与えられました。  このように、ひたすら信仰に生きたアブラハムの生涯に、思いもかけぬ大きな試練が訪れます。それ はアブラハムと妻サラにとって最愛の独子イサク。イサクはただ最愛の独子であるばかりでなく「全世 界に対する救いの約束のしるし」でした。その独子イサクをこともあろうに、主なる神は「焼き尽くす 献げもの」として献げるようお命じになるのです。創世記22章1節以下です。「これらのことの後で、 神はアブラハムを試された。神が「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が「はい」と答えると、神は命じら れた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命 じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。この「焼き尽くす献げもの」とは 以前は「燔祭」と訳されていました。「燔」という漢字は激しい炎を表します。つまり神はアブラハム に「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを」激しい炎によって「焼き尽くす献げもの」にしな さいとお命じになったのです。聴き間違いではありませんでした。確かに主なる神がお命じになったこ とでした。  いかに主なる神のご命令とはいえ、人の親たるものにとって、愛するわが子を献げよという命令にま さる残酷な要求が他にあるでしょうか。そもそも神がアブラハムにイサクをお与えになったのは「祝福 の基」としてアブラハムとその子孫を祝福し、神の祝福を受け継ぐ者たちを「星の数ほどに」まし加え て下さるという約束でした。これを「アブラハム契約」と申します。ところがいま神がアブラハムに命 じたもうことは、まさにその「アブラハム契約」を根本的に覆すこと(無効にすること)でした。だから アブラハムの驚きは大きかったのです。神は絶対に恵みの契約を曲げることをなさいません。しかしい まアブラハムが聴いた神の言葉は、まごうことなき「イサクの奉献」を求めるものでした。そもそも人 身御供の儀式はイスラエルにはなく、それは異教国アッスリヤやバビロニアの風習でした。イスラエル では人身御供は神によって「あなたがたの間ではあってはならぬこと」と禁じられていました。その「あ ってはならぬこと」を、主なる真の神がお命じになったのです。  今朝の創世記22章には、この信じがたい残酷なご命令に、アブラハムがいかにも淡々と従う姿が描 かれています。しかしその心中は張り裂けんばかりであったでしょう。森有正という哲学者は「アブラ ハムはこの悲しみにおいて文字どおり死んだ者となった」と語っています。独子イサクの奉献は、父ア ブラハムにとって自らの死より遥かに辛いことでした。このときイサクは少なくとも15歳以上の青年 でした。それは「息子」と訳された元々のヘブライ語が示しています。それならば、この神の残酷なご 命令に父アブラハムと共に息子イサクも信仰をもって聴き従ったのです。父子2人してただ神のみを信 じたのです。アブラハムは自由な人間として、神のご命令を無視することもできたはずです。イサクも 同様でした。しかし“ここにはなにか、必ず大きな意味がある。意味なくして主なる神がこのような命 令をお下しになるはずがない”と、ただ神のみを信じて従順に聴き従ったのです。  アブラハムとイサクが向かった「モリヤの地」とは、今日のエルサレムのことです。およそ70キロ、 普通に歩けば2日の道程を、アブラハムとイサクは3日かけて歩きました。それほど重い足取りだった のです。ようやく「三日目」に「モリヤの地」の「その場所」が見えてきました。それは大きな岩山で した。アブラハムがイサクと共にその岩山に登ってゆく様子を、今朝の22章6節以下はこのように記 しています。「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は 火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」 と呼びかけた。彼が「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにあ りますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子 よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った」。  「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」。ここにはアブラハムとイ サクの、主なる神に対する“摂理の信仰”が現れています。摂理とは英語で申しますとプロヴィデンス (providence)。その意味は「神は先を見たもう」です。私たち日本人は先のことを言う場合「摂理」よ りも「運命」という言葉をよく使います。しかし「運命」とは諦観、諦めをあらわす言葉です。自分の 人生が暗く冷たい意思(力)に支配されていることを「運命」と言います。これに対して「摂理」とは信 仰によって真の目的地(行くべき先)を見きわめ歩むことです。神の御心、神の顧みを信じて、神の御手 に自分を投げかけること(委ねること)が「摂理の信仰」です。キリスト教の大きな特徴は「運命」を 否定する点にあります。私たちキリスト者は運命ではなく「神の摂理」を信じます。今朝あわせてお読 みしたヘブライ人への手紙11章1節にこうありました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見え ない事実を確認することです」。ここに示されているように「望んでいる事柄」の先を見、見えている 事実の先にある「見えない事実(真の目的地)」」を知り、そこに向かって歩むこと、それが「摂理の信 仰」です。  神が「焼き尽くす献げものの子羊」を用意していて下さる摂理を、アブラハムは「見て」いた(信じ た)のです。この過酷なご命令には必ず、主なる神の大いなる備えと御計画があることを信じたのです。 それゆえに信仰とはバルトが言うように“目に見えるものの先は、神が備えて下さっている”ことを信 じて見ること、確認して神を讃美することです。9節以下をご覧ください。「神が命じられた場所に着 くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そして アブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「ア ブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を 下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、 自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして 見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を 捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ (主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と 言っている」。  主なる神に呼びかけられたとき、アブラハムは「はい」と答えています。この創世記22章の物語(イ サクの奉献)は「はい」で始まり「はい」で終わっています。この「はい」は「アーメン」と言い換え ることができます。信仰とは、私たちを限りなく愛し、私たちに語りかけたもう神の真実に対して「ア ーメン」と応えつつ歩むことです。この「アーメン」とは「神の真実」です。私たち全ての者を救い祝 福する神の真実です。アブラハムはただその「神の真実」にまなざしを注ぎ、みずからも「アーメン」 と応えます。喜びの時も悲しみの時も、ひたすらに神を見上げ、神の御手に自分を委ねたのです。行く 先の見えない試練の中にも、必ず神が祝福へと導いて下さることを信じたのです。それは、独子イエス・ キリストを十字架に献げて下さった贖い主なる神を「見る」ことです。この物語の主人公は、実はアブ ラハムでもイサクでもなく、主イエス・キリストの父なる神です。神が私たちを、その最愛の独り子を お与え下さったほどに限りなく愛し、御子キリストを献げて、私たちの罪を赦し、贖い取って下さった 「神の真実」が、ここに現れているのです。  そこで、大切なのはこの「神の真実」(エメト)の内容です。アブラハムには天から(神から)声がありま した。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かっ たからだ」と。しかし、どうか心に留めて下さい。主イエス・キリストの十字架においては、その御声 はかからなかったのです。「その子に手を下すな。何もしてはならない」アブラハムに響いたこの御声 は、主イエスの十字架の場面では響かなかったのです。そこでこそアブラハムは悟りました。イサクの 奉献を要求したもうた神は、イサクを、アブラハムを、そして全世界を救うために、ご自身の最愛の独 子イエス・キリストを奉献したもう神であることを…。それはヨハネ伝3章16節の「神の真実」を示 しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も 滅びないで、永遠の命を得るためである」。  さきほどのヘブライ人への手紙は11章9節にこう告げています。「信仰によって、アブラハムは他 国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一 緒に幕屋に住みました」。この「幕屋」こそ主が御自身の生命を、全てを献げてお建て下さった「教会」 のことです。アブラハムとイサクは、主の教会に連なることによって「神の真実」を知り、また、全人 類のためにご自身の全てを十字架において奉献して下さった神の独子イエス・キリストの贖いの恵みに よって、永遠の神の家である教会に連なる僕とされたのです。私たちもいま、アブラハムとイサクと共 に、主の教会に連なる幸いを与えられ、この教会によって永遠の御国(神の都)の民とされているので す。私たち全ての者のために、神の独子イエス・キリストが、ご自身の全てを献げぬいて下さったから です。  今朝のこの「イサクの奉献」の出来事を通して、私たちはイエス・キリストにおける永遠の「神の真 実」を見ます。神は私たちのために、この世界の救いと永遠の祝福のために、その愛する独り子イエス・ キリストをお与え下さった真実です。アブラハムはその信仰の歩みを通して「主の山に、備えあり(イ エラエ)」ということを、すなわち、私たちの罪のただ中に神は限りない救いの御業を顕して下さった こと、独子イエス・キリストを与えたもうたことを知る者とされ、それを証しているのです。  どのような時も「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエス」に向かって目を上げ、神の愛 である十字架を見つめて歩む、まことの信仰に生きる私たちであり続けたいと思います。祈りましょう。