説    教    詩篇23篇1〜6節  ヨハネ福音書8章48〜51節

「御言葉による生命」

2017・01・15(説教17031679)  主イエス・キリストに対するパリサイ派の律法学者たちの反目は日に日に激しさをましてゆき ました。それがよく現わされているのが、今朝お読みしたヨハネ伝8章48節以下の御言葉です。 まず、ここにパリサイ派の律法学者たちは、主イエスは「悪霊に取りつかれている」と主張しま す。すなわち48節に「ユダヤ人たちはイエスに答えて言った、『あなたはサマリヤ人で、悪霊に 取りつかれていると、わたしたちが言うのは、当然ではないか』」と記されているとおりです。自 分たちの主義主張が通らないとき、相手を“理性を失った怪物”と非難するのは、全て独善的な 原理主義者たちの常套手段です。自分たちこそ絶対の真理であると主張する者たちにとって、反 対する相手は全て“悪”であり、自分たちには一点の非もないのです。それで彼らは主イエスを 「悪霊に取りつかれている」と非難しました。しかも主イエスはここで「サマリヤ人」と呼ばれ ています。  これは、どういうことでしょうか。主イエスは現実には「サマリヤ人」ではなく、ナザレ出身 のガリラヤ人のはずです。主イエスを「サマリヤ人」と呼ぶのは鹿児島の人を札幌の人と呼ぶよ うなものです。これは、主イエスがパリサイ人らによって通行を禁じられていたサマリヤを通っ て旅をされたこと、しかもスカルの町で一人の女性と出会い、彼女と対話をされ、彼女を信仰へ と導かれ、また多くのサマリヤ人たちを信仰へと導いたことが、パリサイ人らの逆鱗に触れたの でした。ですから、ここで彼らが「あなたはサマリヤ人(ではないか)」と主イエスに申した意味 は「あなたは、あの忌まわしく恥ずべきサマリヤ人の友ではないか」という意味なのです。あな たは“サマリヤの輩”と友達であるなら、それこそ、あなたは「悪霊に取りつかれている」とわ れわれが言うのは「当然ではないか」と、パリサイ人らは申すのであります。  あるとき、聖書のマルコ伝の学びの中で、そこに出席していたあるかたから「汚れた霊」とは いったい何ですか?という質問がありました。たしかに聖書、特に福音書の中には「汚れた霊」 あるいは「悪霊」という言葉がしばしば出て参ります。現代人の私たちからすれば不思議に思わ れて当然です。「汚れた霊」「悪霊」それは端的に人間の「罪」のことをさしているのです。 そ していっそう大切なことは、聖書はいつでも、その「汚れた霊」または「悪霊」に、われらの主 イエス・キリストが勝利しておられるという、恵みの事実を宣べ伝えていることです。私たちは 「悪霊」すなわち「罪」の力に対して全く無力な者です。連戦連敗するほかない者です。ドスト エフスキーがその名も「悪霊」という小説を書いていますが、あそこでも悪霊の正体は、人間を 神の恵みの支配から引き離し、永遠の滅びに至らせる“罪の力”です。それに対しては私たちは 全く無力なのです。  「悪霊」の主人公としてドストエフスキーが描くスタヴローギンの姿は、いわゆる悪魔的(デ モーニッシュ)な力を振るう人間ではなく、むしろ虚無と不信に陥った無力な人間の姿であり、 その無力さのゆえにこそ悪霊の支配に身を委ねてしまう人間の姿です。だから、ドストエフスキ ーは見抜いています。特別に邪悪な人間ではなく、誰でもが、ごく普通の人が、悪霊の支配を受 けてしまうのです。そこでこそ本当に大切な唯一のことは、その「悪霊」(罪)の力に対して、神 の御子・主イエス・キリストのみが永遠に勝利しておられるという事実です。しかもこのかたは、 ただ力において勝利されたのみではない。私たちのために呪いの十字架を身代わりになって担わ れることにおいて、その御苦しみと死の深みのゆえに、罪に対して永遠に勝利したもうた救い主 なのです。  そこで、聖書が私たちにいつも明確に告げていることは、私たちが十字架の主イエス・キリス トを贖い主と信じ告白し、主の御身体である聖なる公同の教会に連なって生きるとき、私たちは 常に変ることなく、キリストの愛と恵みのご支配のもとにあるのであり、もはや「悪霊」(罪)は キリストの所有とされた私たちに対して何の力も持ちえないという決定的な勝利の福音なのです。 これを使徒パウロは「キリスト・イエスによる絶大な勝利」と語っています。言い換えるなら、 ここでパリサイ人たちは、主イエスを「悪霊」と罵っていますけれども、実は彼らこそその「悪 霊」すなわち「罪」の支配から解放されるべく、キリストによって「絶大な勝利」のもとに招か れている者たちなのです。ところが、彼らはその大切な事実を知ろうともせず、むしろ真理の御 言葉に対して耳を塞ぎ、主イエスこそ「悪霊に取りつかれている」と口をきわめて非難するので す。  それならば、私たち人間は何と、神の前にさかしまな存在なのでしょうか。自分たちこそ「悪 霊」の支配を受けつつ、神の子・救い主を「悪霊」と呼んで憚らない、そこに人間の罪の姿があ るのではないでしょうか。実は私たちは、今朝の御言葉によって厳粛な二者択一の前に立たされ ています。信仰の決断を迫られているのです。キリストのご支配を拒み、罪の支配にとどまり続 けるのか。それとも、キリストの恵みのご支配のもとに立ち、「キリスト・イエスによる絶大な勝 利」によって、罪の支配から解放された「新しい人」になるのか。その二者択一です。この選択 の前に中立(傍観者)でありうる人間は存在しません。なぜなら「罪」は私たちの外側にではなく 内側にあるからです。それはまさに私たちの問題なのです。  ここで最も大切なことは、この私たちの隠れえぬ「罪」の現実に対して、主イエスが与えてい て下さる解決(福音)の揺るがぬ確かさです。それが今朝の49節以下に示されています。「イエス は答えられた、『わたしは、悪霊に取りつかれているのではなくて、わたしの父を重んじているの だが、あなたがたはわたしを軽んじている。わたしは自分の栄光を求めてはいない。それを求め るかたが別にある。そのかたは、またさばくかたである。よく、よく言っておく。もし人がわた しの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう』」。  まず、ここに主イエスは、罪の本質は神を「軽んじる」ことにあると看破されます。この「軽 んじる」という字は「嘲り、従わない」という意味の言葉です。1812年、ナポレオンによるロシ ア遠征が、百年に一度という大寒波の到来によって55万人にも及ぶ犠牲者を出して敗退しまし た。そこに前兆がありました。ガンの群れが例年よりも早く南に向かう“しるし”に、異常に厳 しい冬の到来を予知した一人の兵士がいたのです。しかし一兵士の意見にすぎぬということで無 視されたため、57万人のフランス兵のうち生きて故国に帰れた兵士は2万人だけでした。神の御 言葉の「しるし」に聴き従うことにおいて「嘲り、従わない」私たちであってはならないのです。  さらに、主イエスは仰せになります。「わたしは自分の栄光を求めてはいない。それを求めるか たが別にある。そのかたは、またさばくかたである」と。この「さばき」とは「悪霊」すなわち 「罪」に対する審きのことです。私たちは罪を正しく審きえない者です。そもそも罪の中に存在 する者、罪を離れては存在しえない者が、どうして罪を正しく審くことができるでしょうか。そ して罪を審きえないということは、自分自身を救うためのいかなる力も持ちえないということで す。自分の中に救いの可能性を持たないということです。しかし、主イエスは父なる神の「栄光」 のみをお求めになり、父なる神の御救いのみを世に現されるかたです。  これをレンズに譬えて申すなら、レンズの役目は光を通すことです。ですからレンズに求めら れることは、できるだけ透明であることです。本当に透明で不純物のないレンズは、少しも自分 を輝かせず、ただ光だけを通します。不純物が多いレンズほど自分が輝くのです。それと同じよ うに、主イエス・キリストは「自分の栄光を求めない」かたとして、不純物の全くないレンズの ように、神から遠く離れて暗黒の中にある私たちのもとにまで、福音の真理の光をまっすぐに届 かせて下さるのです。ご自分が輝かず、私たちを神の民として輝かしめるために、あの十字架を 担われたのです。罪に対して無力でしかありえない私たちを、主は御言葉の光によって父なる神 のもとに立ち帰らせて下さり、私たちの罪を全て贖い、尊き救いへと入らしめて下さるのです。  そして、主イエスは最後にこう言われます。51節です「よく、よく言っておく。もし人がわた しの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」。これは何と驚くべき 御言葉でしょうか。何よりもパリサイ人らが驚いたに違いありません。あのアブラハムも、モー セも、洗礼者ヨハネも、みな死んだではないか。それなのにこの人(ナザレのイエス)は自分が神 に等しい者だと言うのか?。そのように彼らは訝しんだのです。実際にこの主イエスの51節の 御言葉によって、来るべき十字架の刑が確定したと言ってもよいのです。ほどなくあの大祭司カ ヤパの中庭において、パリサイ人らは口々に証言をすることになるのです。「このナザレのイエス は、自分を神に等しい者とした。これは十字架の死にあたる罪である」と。  しかし、まさに主の御言葉が私たちに「真の生命」を与える唯一の福音の御言葉であるからこ そ、私たちはイエス・キリストによって、罪と死から贖われ、救われるのです。たしかに人間の 言葉には、死に打ち勝つ生命はありえません。パリサイ人らの言うとおりです。しかし、主イエ スは永遠なる神の真の御子(独子)です。神と等しいかた、ニカイア信条による「神と同質なる かた」です。神と同質であるとは、このかたによって、私たちは神の限りない愛と恵みを受ける 者とされているということです。それゆえ教会においては、特に私たちプレスビテリアンの教会 においては「神の御言葉の三様態」が重んじられました。神の御言葉は、?啓示された神の御言 葉であるイエス・キリスト、?書かれた神の御言葉である聖書、そして?宣べ伝えられた神の御 言葉である教会の説教、この三つの形で私たちに与えられるものです。イエス・キリストと聖書 と説教が「神の言葉」の生きた形です。その連続性は聖霊によるキリストの現臨です。十字架と 復活の主が、私たちと共に生きてここに現臨しておられることです。御言葉が正しく宣べ伝えら れ、聖礼典が正しく行われ、キリストのみをかしらとする真の教会が形成されてゆくところ、そ こにキリストご自身が現臨しておられるのです。そこに、罪と死の支配は打ち砕かれ、キリスト の愛と恵みのご支配が現れ、私たちが本当に人間として生きるべき、真の自由と平安と喜びに満 ちた、新しい生命があるのです。そこに、私たちはもちろんのこと、全ての人々が招かれている のです。「もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろ う」。この主の御言葉こそ、私たちがそのまま信じ、受け入れるべき福音の真理なのです。