説    教   イザヤ書40章8節   ヨハネ福音書3章9〜15節

「永遠と歴史」

2017・01・08(説教17021678)  今朝私たちに与えられた主の御言葉は、主イエス・キリストとユダヤ人の指導者ニコデモとの対話の 続きの部分です。ヨハネ福音書3章9節以下です。「ニコデモはイエスに答えて言った、『どうして、そ んなことがあり得ましょうか』」。「それは、あり得ないこと」ではないですか?とニコデモは申します。 それは「新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と主イエスが言われたことに対する、ニ コデモの精一杯の反抗でした。「主よそれは不可能です」とニコデモは言うのです。なぜなら「人は年を とってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょ うか」。  このニコデモに対して主イエスは答えて言われました。10節の御言葉です。「あなたはイスラエルの 教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。よく、よく言っておく。わたしたちは自分の 知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかし を受けいれない。わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを 語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」。ここで「おや?なんだこれは?」と思われたかたはおら れるでしょうか?。主イエスはいまお一人でニコデモに相対しておられるはずです。それなのに、この 10節で主イエスはご自分のことを「わたしたちは」と複数形で語っておられる。よく見ると今朝の御言 葉は全てそうです。これはどういうことなのでしょうか。  同じ疑問をニコデモも抱いたことでした。そもそも「わたしたちは」という複数形はニコデモが最初 に使ったものです。主イエスへの最初の挨拶(いわば名刺交換の場面)で、まずニコデモが「わたしたち は、あなたが神からこられた教師であることを知っています」と申しました。この「わたしたち」とい うのはイスラエルの「七十人議会」(サンヒドリン)のことです。政治と宗教の両面について最高の権威 を持つ古代イスラエルの国会です。いわばニコデモはこのイスラエル国会を後盾にして主イエスの前に 立っているわけです。「あなたの返事如何によっては、国会であなたのことを問題にしますよ」と言って いるのです。言うなればこれがニコデモが主イエスに渡した名刺でした。「私はイスラエルの国会議員ニ コデモである。さように心得て返事せよ」という名刺です。  ところが驚いたことに、そのような後盾や肩書など何ひとつない主イエスが「あなたがたはわたした ちのあかしを受けいれない」と逆にニコデモに問いたもうのです。「あなたはイスラエルの教師でありな がら、これぐらいのことがわからないのか。よく、よく言っておく。わたしたちは自分の知っているこ とを語り、また自分の見たことをあかししている(のに)」と仰せになるのです。これにはニコデモは本 当に驚いたと思います。この主イエスの言われる「わたしたち」とは、ご自分と誰のことを指しておら れるのでしょうか?。  これは、三位一体なる神の永遠の聖なる交わりを指しておいでになるのです。父なる神、御子なるイ エス・キリスト、そして聖霊なる神の永遠の交わり、それは言い換えるならば永遠の救いの御業です。 七十人議会はこの世の議会であり、歴史の会議にすぎません。しかし三位一体は天上の議会であり、永 遠の会議です。キリストは聖霊において、父なる神の御業を世にあらわし給うかたです。神の国の全権 大使であられます。私たちはキリストを主と告白することにおいて、父なる神と聖霊なる神をもあわせ て告白するのです。ですから主イエスは「わが意をなすにあらず、ただ父の命じたもうを行うのみ」と 言われました。だから弟子のピリポに対しても「わたしを見た者は、父を見たのである」と言われたの です。  言い換えるなら、主イエスは、ただ父なる神の御旨を現すために世に来られたかたです。だからこそ 「わたしと父はひとつである」と言われたのです。父なる神の御心は主イエスの御心であり、そこには 少しの齟齬もありません。それだからこそ、私たちは主イエスを信ずることによって確かに「神の国を 見る」者とされるのです。「神の国にはいる」者とされるのであります。ですから同じヨハネ伝12章44 節に、主はこう仰せになりました。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわ されたかたを信じるのであり、また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである」。 同時に主イエスは、散らされた全ての民を父なる神のもとに集めたもう「よき羊飼」です。同じヨハネ 伝10章14節にこうあります。「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、 わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じ である。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである」。  主イエスは、御降誕と十字架の御贖いによって、罪によって散らされていた私たちを訪ね、見出して 下さり、私たちのまことの「羊飼」となって下さったかたです。父なる神の主権のもとに、ひとつの群 れとなして下さったのです。それが教会(エクレシア=神に呼び集められた群れ)です。だからこそ、教 会のかしらは主イエス・キリストのみなのです。そこで、そのキリストの教会において何が宣べ伝えら れるのでしょうか?。この世の処世訓でしょうか。蓄財や利殖の方法でしょうか。不況を乗り切るノウ ハウでしょうか。健康や長寿の秘訣でしょうか。哲学や思想でしょうか。そうではありません。キリス トの教会においては、ただ神の御言葉のみが宣べ伝えられるのです。神の御言葉のみが、私たち人間の 真の生命の糧だからです。「人はみな草なり。その栄華(はえ)はすべて野の花のごとし。草は枯れ花はし ぼむ、されどわれらの神の言葉は永遠にたたん」(イザヤ書40:8)。  主はニコデモに、否、私たちに告げて言われます。「わたしが地上のことを語っているのに、あなたが たが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」と。この「地上のこ と」とは直訳するなら「地上の事柄に即して」という意味の言葉です。主イエスが「地上の事柄に即し て」神の国の福音を宣べ伝えようとしておられるのに、それを私たちが信じないなら「天の事柄に即し て」宣べ伝えた場合「どうしてそれを信じられるだろうか」と主は言われるのです。そしてこの「地上 の事柄に即して」福音を宣べ伝えることこそ、まさに教会における宣教の内容(説教)をさしています。 説教は、天に属する事柄を天の事柄として語ることではありません。それは異言にはなっても預言とは なりません。説教は、天に属する事柄を「地上の事柄に即して」宣べ伝えることです。言い換えるなら、 真の神にして真の人であられるキリストの福音を宣べ伝えることです。これはとても大切なことです。 それこそニカイア信条に告白された信仰です。キリストは「真の人」にして「真の神」にいましたもう のです。「真の人にして真の神なるキリスト」のみが教会の説教の唯一の主題なのです。  「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」とヨハネ伝1章14節にあるとおりです。真 の神は私たちの底知れぬ罪の現実のどん底にまで、イエス・キリストという歴史的人格によって降りて 来て下さったかたなのです。まさに、天に属するかたが地上の事柄に即して人となられたのです。まさ にその地上において、私たちの身代わりになって、罪と滅びと死を担い取って下さったのです。信ずる 全ての者を罪の支配から解放し、ご自身の溢れる恵みのご支配のもとに新たになして下さったのです。 その出来事を聖書では「あがない」と言うのです。  それゆえにこそ、主イエスはニコデモに、否、私たちに告げて言われます。あなたのために人となり、 十字架への道を歩む私を信ぜずして、どうしてあなたは天上の事柄を信じえようか。今あなたのために 宣べ伝えられている説教においてキリストを告白せずして、どうして神の国の民とされるだろうか。歴 史は永遠に支えられてこそ初めて歴史たりうるのです。永遠に基礎を持たない歴史はもはや歴史ではな く漂流船にすぎません。地上の事柄は天上の事柄に基礎を持ってはじめて意味と方向性を持つ歴史とな るのです。この2つを分けて考えることはできないのです。天上の事柄(福音)を語らずして、地上の 事柄を正しく語ることはできないのです。  それはドストエフスキーの小説にもよく表れています。人間の事柄(歴史)を正しく語るためには、神 の事柄(永遠)を語る以外にないのです。人間の問題は地上の事柄(歴史)だけでは語ることはできないので す。ですからカール・バルトは「まことの神学は同時にまことの人間学である」と言いました。人間学 が神学になることはありえませんが、真の神学はかならず真の人間学を生み出すのです。それと同じこ とが教会についても言えるのです。福音のみを宣べ伝える教会こそ、実は最も深いところで人間の問題 (歴史の問題)を正しく担いうるのです。  私たちはいつも、この大切なことを忘れてはなりません。ニコデモは、自分はもう既に「七十人議会」 という地上の最高権威のもとにいる人間である。そのことを頼みとして、自分は救われると考えていま した。私たちもまた心のどこかで、教会がなくても、説教を聴かなくても、自分は神の国に入れるのだ と、心のどこかで思い始めることはないでしょうか。御言葉より自分が中心になるとき、歴史が永遠を 見失うとき、私たちは漂流船となって時間の海をしばし漂うだけの存在になってしまいます。主はニコ デモに「あなたはそれではいけない!」と恵みの鉄槌を下したもうのです。私たち全ての者に、主はい ま招きの御言葉をかけておれるのです。「我に来たれ」と!。私たちはいま、主イエスのもとに身を投げ かけようではありませんか。御降誕と十字架の主を信じ告白する者として、主の御身体なる教会の枝と して、新たな2017年の歩みを踏み出して参りたいと思います。  主は今朝の3章13節以下にこう言われました。「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、 だれも天に上った者はいない。そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上 げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。主はご自分の十 字架をさしてこのことを語りたもうのです。「人の子もまた上げられる」とは、十字架による全ての人の 贖いのため、救いのために、主は人となりて歴史のただ中に来て下さったのです。永遠が歴史に突入し たのは十字架においてなのです。この十字架の主を信ずる者は「すべて永遠の命を得る」のです。  終わりに、ニコデモのその後の人生を見て参りましょう。私たちはヨハネ伝の2つの箇所、7章50 節以下と19章39節を通して、ニコデモがどのような人生を歩んだかを知ることができます。まず7章 50節において、ニコデモは仲間であるパリサイ人たちに対して、主イエスが神の言葉を語りたもう真の 預言者であることを証しています。もうこの時点でニコデモは「七十人議会」から追放されたはずです。 つまりニコデモは全てを献げて主イエスに従う弟子の一人となったのです。また19章39節では、さら に彼の明確な信仰告白を見ることができます。それは、主イエスが十字架上に死なれたときのことです。 ニコデモは主の葬りの備えとして「没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた」と記されていま す。ニコデモはその献げものによって、主イエスの十字架の死が全人類の救いのためであることを言い 表しているのです。ニコデモはキリストを信じる者として生き、やがて他の弟子たちと共に復活とペン テコステの喜びに与る者とされました。初代教会の一員となり、福音に生きる僕とされていったのです。  私たちもまた、彼と同じ救いに、幸いに、喜びに、今ここにおいてあずかるものとされています。歴 史が、私たちが、この世界が、永遠によって、歴史の主なる神によって、御子イエス・キリストによっ て、唯一まことの救いを与えられたからです。ただ主の御名のみが崇められ、神の栄光のみが現されま すように。祈りましょう。