説    教    哀歌3章22節   ヨハネ福音書3章1〜8節

「新春の祝福」

2017・01・01(説教17011677)  新しい主の年2017年最初の主日礼拝を迎えました。この元旦の礼拝にあたり、私たちに与えられた 御言葉は主イエスとユダヤ人の指導者ニコデモとの対話です。この対話は2つの“キリスト教の福音の 本質”にかかわる大切なメッセージを告げています。それは「人間はいかにして、神の前に新たに生ま れた存在となりうるか」。そして「人間はいかにして、神の国に入ることができるか」という問題です。  もっとも、私たちは日常生活の中でこうした「人間の救いに関わる根本問題」を意識することは殆ど ないかもしれません。しかしそれは例えるなら、私たちが呼吸や血液の循環を意識しないのと同じで、 むしろ意識しない事柄のほうが遥かに大切なのです。サン・テグジュペリの「星の王子さま」という物 語の中に「いちばん大切なものは目には見えない」という言葉が出て参ります。人間にとって最も根本 的な、真の神との関係においてこそ「いちばん大切なものは目には見えない」のではないでしょうか。 逆に言うなら、私たちの意識(物事の本質を見るまなざし)にはいつも限界があるのです。  主イエス・キリストというかたは、まさしくその私たちの限界を打ち破り、私たちのまなざしを開い て下さるために、世に来られた救い主なのです。もとをただすならば、夜ひそかに人目を忍んで主イエ スのもとにやって来たニコデモでした。なぜならニコデモはユダヤ人の指導者(七十人議会の議員)でし たから、昼間主イエスを訪ねることは世間の目が憚られたのです。それで夜陰に乗じて密かに主イエス を訪ねることにしました。ニコデモにしてみれば、主イエスが本物の預言者であるかどうかひとつテス トしてみよう、確認してみようという気持ちでした。つまり自分の側が「主」であったのです。  ところがそのニコデモに対して、逆に主イエスの側から、思いがけない御言葉が返ってきました。「よ く、よく、あなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデ モは絶句しました。それは、自分が意識せずして求めていた本当の救い、本当の幸い、本当の願い、本 当の求めを、主イエスが見事に言い当てられたからです。「新しくされて神の国に入ること」です。私た ち人間は誰でも心の奥底に、このニコデモと同じ願いを、祈りを抱いている存在なのではないでしょう か。「どうにかして新しく生まれ、神の国を見る者になりたい」という願いを、実は全ての人間存在が抱 いているのです。  今日は元旦です。昔から「一年の計は元旦にあり」と申しまして、この元旦をいかに過ごすかという ことが、人生の節目であり非常に大切なことと考えられてきました。ですから今日この元旦礼拝に来ら れた皆さんは最も大きな祝福を真の神から戴く幸いを与えられているのです。いまニコデモもその幸い のもとに招かれています。たとえこの歴史的世界においていかに大きな富や名誉や健康を得ましょうと も「神の国」(神とのあるべき正しい関係)を失った人生は、譬えるなら先頭にマイナス符号のついた掛 算のようなものです。罪というマイナス符号に支配されているかぎり、人生の答えはどこまでもマイナ スにしかすぎません。主イエスはこのマイナスをプラスに変えて下さる唯一の祝福の主として、いま私 たちと共にいて下さるのです。  聖書が全ての人に語る真の神、それは天地の創造主にして歴史の造り主なる神、歴史を救い、完成へ と導きたもう唯一の主です。歴史的世界を超越する創造主なる神が、御子イエス・キリストにおいて、 歴史のただ中に介入され、これを極みまでも愛し、これを贖い救いたもうた。ここに聖書が告げる真の 神のお姿があります。ギリシヤ思想においても仏教や神道においても、歴史は深い意味を持たず、輪廻 変転、もしくは実在の影にすぎません。歴史の主なる真の神との、正しいあるべき関係(神の国)におい てこそ、人類の歴史は負の支配から解放され、永遠の意味を持つものとされます。私たちの人生もまた、 ただ見える事柄だけで終わるのではなく、今はまだ眼には見えない、永遠なる「神の国」に連なる歩み とされているのです。  このことを最もよく現す御言葉がヨハネ伝1章14節です。「そして言は肉体となり、わたしたちのう ちに宿った」。真の神は測り知れぬ私たちの罪の深みのどん底にまで降りて来て下さり、そこで十字架上 に生命を献げて、私たちの恐ろしい罪を贖って下さったかたです。まさに今そのような「肉体となられ た」永遠なる神の御言葉の受肉者なる主イエスの前にニコデモは立っています。そこでニコデモは改め て主にお訊ねしました。今朝のヨハネ伝3章4節です。「人は年をとってから生れることが、どうして できますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。先生がおっしゃることの大切 さはよくわかります。自分も心から「神の国」を求めています。しかしいま私がもう一度お母さんのお 腹の中に入って「生まれ変わる」ことができるでしょうか?。まことに常識的な疑問です。たしかに、 人間は肉において生まれ変わることなどとうてい不可能です。  だからこそ、ここでも主イエスのお答えは、ニコデモの常識を(閉ざされた心を)打ち破って、聖霊な る神の清新な息吹をもたらされるものでした。それが5節以下の御言葉です。「よく、よく、あなたに 言っておく。だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない。肉から生まれ る者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わた しが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、 それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。  この元旦にあたって、私たち全ての者に、主イエスはこの福音を語り告げていて下さいます。ここに 私たちの新たな年、そして人生全体を祝福する聖霊の息吹があります。なによりも主は、ここで「だれ でも」と仰せになります。私たちの救いと祝福は私たちの中にあるのではない。この歴史の中にあるの でもない。それは創造主にして贖い主なる真の神にあるのです。その真の神の救いと祝福に「だれでも」 がいま招かれているのです。「だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない」 と主は言われます。この「水」とは洗礼の水であり「霊」とは礼拝者としての生活のことです。すなわ ち「水と霊とから生まれる」とは、キリストを信じて洗礼を受け、主の御身体なる教会の枝となり、礼 拝者として生きることです。それゆえこの2つの事柄は教会生活の全体をさしています。  言い換えるなら、私たちの側の資格や条件は何ひとつ必要ないのです。主が私たちに求めておられる ことは、幹なるキリストに枝として連なることであり「キリストを着る」ことです。キリストを信じ、 教会に連なることです。そのとき、私たちの人生に本当の革命(レボリューション)が起こります。私た ちはもはや、古き罪に支配された者ではなく、キリストを着て、キリストの義に生かされて、キリスト と共に歩む者とされているのです。たとえ私たちが、なお様々な弱さ、破れ、脆さを抱えていましょう とも、教会に連なりキリストの義に生かされて、私たちは今ここに、終末における祝福と完成を先取り しつつ、主が与えて下さる平安の内に生きる者とされているのです。  だからこそ主ははっきりと言われます。「あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言っ たからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがど こからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。救いの権威を持っ ておられるのは、主なる神であって私たちではありません。問題とされているのは、私たちの弱さや汚 れではなく、キリストの完全なる義のみです。ここで「あなた」という表現が「あなたがた」と、複数 形になっていることに気をつけましょう。ニコデモ一人に相対しておられたはずの主が、いま私たちの ほうをお向きになっておられる。そして私たちに語りかけておられるのです。「あなたがたは、不思議に 思うには及ばない」と。聖霊なる神の御業は風に譬えられます。聖霊のことをギリシヤ語でプネウマ・ ハギオイと申しますが、プネウマには「風」という意味もあるからです。  風が何物にも妨げられず自由に吹くように、聖霊なる神の救いの御業も救いの権威の自由において私 たちを救い祝福するものだ。いまあなたはその祝福の内を歩む僕とされているではないか。そのことを 主イエスははっきりとニコデモに、否、私たち全ての者に語り告げて下さるのです。この2017年の元 旦にあたりまして、この祝福の内に新しい一年を歩む者とされていることを感謝し、ともに信仰のよき 歩みをなして参りたいと思います。祈りましょう。