説    教    イザヤ書7章14節  ルカ福音書2章1〜7節

「クリスマスの喜び」

2016・12・25(説教16521676)  クリスマスという言葉はラテン語で「キリストを礼拝する日」という意味です。今から2016年前、 最初のクリスマスの夜、ユダヤのベツレヘムの村外れの吹き曝しの馬小屋に、世界で最も低く、貧し く、暗く、寒い場所に、主イエスはお生まれ下さったのです。私たちはこのクリスマスに、互いに「ク リスマスおめでとう」と祝福の挨拶を交わします。この葉山の地に住む全ての人々に、そしてこの国 の全ての人々に、そして全世界の全ての人々に、御降誕の主イエス・キリストの祝福と平和を祈りま す。クリスマスは世界を覆う祝福と平和そのものとして、神の御子キリストがご降誕下さった日です。  もし私たちの目を、最初のクリスマスの夜に向けるならば、そこには何ひとつ飾りもなく、あるの は果てしなく続く夜の暗闇と、寒さと、馬小屋の中の一個の飼葉桶だけでした。ドイツのプロテスタ ント教会には「クリッペ」(飼葉桶の意)と申しまして、木製の人形でキリスト御降誕の様子を造り、 教会の入口に飾る習慣があります。そのクリッペが現すものも、壊れそうな馬小屋、飼葉桶に眠りた もう幼子キリスト、それを優しく見守るマリアとヨセフ、そして、牛や羊やロバやニワトリなどの動 物たちだけです。最初のクリスマスは、そのようなものであったのです。  先ほど拝読したルカ福音書2章7節に「客間には、彼らのいる余地がなかったからである」と告げ られていました。これは私たち人間の歴史と世界の現実を現しているのです。神が最愛の独子イエス・ キリストを世にお与えになったとき、私たちのこの歴史と世界は、神の御子をお迎えするに相応しい 場所を(余地を)どこにも持たなかった。それは私たち人間の罪を現しています。「罪」の本質は暗黒の 支配です。罪は暗黒を生み出し、暗黒は人間の心を憎しみと裁きの連鎖へといざないます。この現代 においてこそ暗黒は猛威をふるい、歴史と世界はいよいよ祝福の「余地」なき状態にあるのではない でしょうか。  しかし、どうか気をつけて下さい。ここにはっきりと「(その)余地なきところに、キリストはお生 まれになった」と告げられているのです。私たちの歴史と世界には「余地」がなかったから、キリス トはお生まれにならなかったとは書いてないのです。むしろその「余地なき」歴史と世界の現実のた だ中に、私たちの罪のただ中に、キリストはお生まれ下さったのです。この世界で最も低く、貧しく、 暗く、寒い場所に、全ての人の救いのために、主はお生まれ下さったのです。このことをヨハネ福音 書1章9節は「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」と告げているのです。この「光」 (ベツレヘムの馬小屋に生まれたもうたキリスト)こそ、全ての人を照らしたもう「まことの光」であ ります。  さらに驚くべきことがあります。クリスマスの晩に神の御子イエス・キリストがお生まれになった ということは、神が人となられた、神が私たちと同じ肉体を取られたという出来事です。ほんらい神 は、死なないからこそ神なのではないでしょうか。肉体があるということは、病気をしたり、傷つい たり、最後には死ぬということです。事実、キリストは十字架におかかりになって、私たちの罪を担 われ、そして死んで、墓に葬られたのです。このかたは、私たち全ての者のために、死んで下さるた めにベツレヘムの馬小屋にお生まれになったのです。  このことは、言い換えるなら、キリストは私たちの救いのために、まさに「余地」なき歴史と世界 のただ中に、文字どおり肉体をもって、身を投じて下さったかたなのです。単に処方箋を書いて下さ ったのではないのです。こうしなさい、ああしなさい、そうすればあなたは救われると言ったのでは ないのです。そうではなくて、まことの神は、私たちのただ中に、歴史と世界のあらゆる混乱と破れ の現実の中に、黙って身を投じて下さった。譬えて言うなら、溺れている私たちを救うために、岸に 立って指示したのではなく、黙って飛びこんで来て私たちを救い、ご自分は犠牲として死んで下さっ たのです。それがキリスト受肉の出来事です。  作家の太宰治は「肉体さえなければ、人間はいかに幸いであろうか」と申しました。私たち人間に とってあらゆる問題は、常に肉体を通してやって来ます。苦しさ、惨めさ、悲しみ、弱さ、切なさ、 怒り、妬み、孤独、憂い、全ては肉体を媒介としています。その意味で肉体は、言葉の発出源であり、 精神の表現の場です。それならば、永遠の真の神が人となられたという事実は、神ご自身が、私たち のあらゆる弱さと破れを担い取って下さった出来事なのです。まことの神は天の高みから私たちを睥 睨しているようなかたではない。私たちの測り知れぬ弱さと破れのどん底に降りてきて下さり、この 歴史と世界をどん底において支え、生命と祝福と救いを与えて下さるかたなのです。  それこそ使徒信条に「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」とある、クリスマスの出 来事の本質です。私は東京の下町の生まれですが、子供のころ昭和20年3月10日の東京大空襲の翌 日の一つの出来事を聞かされました。空襲で焼け死んだ母親の身体の下から、赤ちゃんの泣き声がし た。それは小さなわが子の生命を母親が自分の肉体をもって守ったのでした。クリスマスの出来事も それになぞらえることができます。キリストは私たちのために肉体をお取りになり、その肉体を十字 架に投げ出されて、全世界の人々の罪を覆って、贖い取って下さったからです。まさに神ご自身が肉 体を投げ出して、私たちの救いとなって下さった出来事、そこにクリスマスの本質があるのです。  だからこそ、私たちはこの日を全世界の人々と共に喜び祝います。そして「クリスマスおめでとう」 と、互いに心からなる挨拶を交します。クリスマスのメリーネス(喜び)は、まさに私たちを極みまで も愛して、十字架への道を歩んで下さった、ご自分の生命を献げ尽くして下さった、御降誕の主イエ ス・キリストの御業に根拠を持っているのです。ドイツ語では「クリスマスおめでとう」のことを「ク リスマスの喜び」と申します。クリスマスの喜びが、全ての人と共にありますように!。主はまこと に、あなたのためにお生まれになったのです。クリスマスおめでとう!。