説    教   イザヤ書9章6節  ルカ福音書2章8〜20節

「暗闇に輝く光」

 聖夜礼拝説教 2016・12・24(説教1651b1675)  クリスマスの飾りの代表は何と申しましてもクリスマス・ツリーでしょう。意外に思われる かもしれませんが、教会ではクリスマス・ツリー飾ることをあまりしません。どちらかと言う とクリスマス・ツリーはめいめいの家庭で飾るものという理解があります。それが本来の在り かたです。それは、クリスマスの本質は飾りにではなく、全人類の救いのためにお生まれ下さ った神の御子イエス・キリストの御降誕の出来事にあるからです。「クリスマス」という言葉そ のものがラテン語で「キリスト礼拝」という意味なのです。  それはともあれ、あるとき一人のかたから「クリスマス・ツリーはいつまで飾っても良いの でしょうか」という質問を受けました。答えは1月6日までです。教会暦で1月6日を“公現 日”と申します。「公に現われた日」と書きます。主イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋で お生まれになったとき、星の光に導かれて東方の三人の博士が「黄金、乳香、没薬などの贈り 物」をささげにやって来ました。その日が1月6日であると言われているのです。ちなみにス ペイン、イタリア、ギリシヤなどでは、子供たちにプレゼントを届けるのはサンタクロースで はなく東方の三博士です。またこの“公現日”にクリスマス礼拝を献げる教会もあります。ギ リシヤ正教やロシア正教、エジプトのコプト教会やアルメニア教会など、いわゆる東方教会で は今日でも1月6日がクリスマス礼拝の日です。  さて、クリスマス・ツリーの起源について、次のような言い伝えがあります。今から1500 年前のドイツ(ゲルマニア)でのこと。ゲルマニアにはじめてキリスト教を伝えたのは“ドイ ツの使徒”と呼ばれるボニファティウスという人でした。このボニファティウスがアルプスを 越えてゲルマニアにやって来たとき、そこに恐ろしい風習があることを知りました。それは毎 年モミの木に幼い子供を縛りつけ、ゲルマンの神々への生贄にするというものでした。ボニフ ァティウスは、この恐ろしい風習に心を痛め、人々に真の神を宣べ伝えました。真の神は生贄 などを要求したまわない。そうではなく、真の神は主イエス・キリストによって全ての人を限 りなく愛し祝福して下さるかただ。この福音を聴いてゲルマニアの人々は改心し、皆がこぞっ てキリスト教を信ずるようになるのです。今日のライン川中流ケルンでの出来事だと言われて います。  ボニファティウスはそこで、人々に一つの提案をします。どうだろうか。呪いの象徴であっ たモミの木を、これからは真の神が独子イエス様を与えて下さった恵みを讃えるための記念の 木にしませんか?。「神はその独り子を賜わったほどにこの世を愛して下さった」。これはヨハ ネによる福音書3章16節の言葉です。その神の愛に心から感謝し、感謝の献げものでモミの 木を飾ろうではないか。人々はこの提案を心から喜び、様々な宝物、宝石や金、ガラスや木の 実、リンゴやお菓子などをモミの木に飾り、主イエス・キリストの御降誕を祝いました。そし て献げられたそれらの献げものは貧しい人たちへのプレゼントにしました。それが、クリスマ ス・ツリーのほんらいの始まりなのです。  さて、モミの木は美しい三角形ですが、そこにも大切な意味があります。それはそれぞれ「信 仰」と「希望」と「愛」を現しているのです。それは新約聖書コリント人への第一の手紙13 章13節に由来しています。「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、こ の三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」。ここに「このうちで最も大いなる ものは、愛である」とあります。だから、いちばん上に飾られる星はキリストの永遠の愛を現 しています。それは“ダビデの星”とも呼ばれます。永遠なる神の御子キリストが人となられ て、私たちの歴史のただ中にお生まれ下さった恵みをあらわすものです。  ところで、私たちはこのクリスマス・ツリーにまつわるゲルマンの伝説を、単なる昔話とし て聴くことはできません。実は、現代の私たちこそ、自分だけの幸福と富と快楽を追及して、 心の中の呪いの木に生贄を要求している存在なのではないでしょうか。自分の幸福のために他 者を犠牲にすることが、現代社会の共通の根本原理になっています。国際社会においてもエゴ イズムが支配しています。弱肉強食、適者生存の法則という生贄を、私たちは当然のごとくに 受け容れてしまっています。だからこそ、いま私たちに必要なものは本当のクリスマス・ツリ ーを飾ることです。エゴイズムの行き着く先には、決して人間の本当の幸福はありえません。 私たちの真の幸いは「信仰」と「希望」と「愛」にあるのです。それが聖書の福音です。  「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いな るものは、愛である」。これこそ主イエス・キリストの御降誕の恵み、クリスマスの出来事によ って、全世界に与えられている限りない恵みです。キリストは私たちのためにご自分の全てを 献げて下さいました。それがあの十字架の出来事です。クリスマスとは、私たちの全ての罪を 負い、全ての苦難を担われ、十字架へと歩んで下さった、神の御子イエス・キリストが降誕さ れた日です。だからこそクリスマスの出来事は「暗闇に輝く光」なのです。光のない所に「す べての人を照らすまことの光」が輝いたのです。キリストは、私たちのこの世界の、罪の現実 のただ中に、お生まれになったのです。  昔から、私たち人間は、人間の生活の最高の理想として、天と地が一つになる境地、永遠と 歴史の接点、神と人との交わり、そのような「救いの地点」を求め続けてきました。この教会 からは海がよく見えます。海を見ていると不思議なことに気がつきます。それは、水平線にお いて天と地が交わっているという事実です。ボニファティウスもこの「救いの地点」である水 平線を目指してゲルマニアにキリスト教を伝えたのです。しかし現実には水平線というものは 存在しません。あるのは天と地の平行線だけです。ところがクリスマスの出来事は、この2つ の平行線を「救いの地点」として私たちの歴史の中にもたらしたのです。それは、他のどこで もない。まさにこの私たちが日々生活している人生のただ中に、神の御子イエス・キリストは お生まれになったという事実です。「救いの地点」は水平線の彼方にあるのではなく、実に私た ちの生活のただ中にあるのです。それは、キリストは暗黒の中にお生まれ下さった救い主だか らです。  この世界の最も低く、最も寒く、最も貧しく、最も暗い所に、あのベツレヘムの馬小屋の飼 葉桶の中に、主はお生まれ下さったのです。そこを「救いの地点」として下さったのです。ま ことに、このかたの御降誕の出来事こそクリスマスです。それゆえに私たちは、いま全世界の 人々と共に、限りなく主を讃美します。「キリスト礼拝」を献げます。互いに「クリスマスおめ でとう」と祝福の挨拶を交わしあいます。飼葉桶の御子イエス・キリストの中にこそ、全世界 の真の平和と自由、喜びと幸い、勇気と平安があります。いまその御降誕の主が、私たちのた だ中にお生まれになったのです。クリスマスおめでとうございます。御降誕の主イエス・キリ ストの祝福と平和が全ての人と共にありますように。