説    教     箴言27章23節   ヨハネ福音書21章15〜17節

「ペテロの召命」

2016・12・18(説教16511674)  旧約聖書の箴言27章23節に「汝の羊の状況(さま)を良く知り、汝の群れに心を留めよ」とありま す。昔から「木を見て森を見ず」あるいは「鹿を追う者山を観ず」という諺がありますが、牧者(羊飼 い)にはそういうことがあってはならない。汝の羊の状況を良く知ることは同時に、その群れの全体に 心を留めることである。御言葉を宣べ伝える者が一人の魂に責任を持つことは、同時に群れ全体として の主の教会を建ててゆくことである。そのように旧約の預言者は語るのです。これは預言者を通して私 たちに宣べ伝えられた主なる神の御言葉であり、主の御業への招きであります。  まさにこの主の御招き(召命)を、ペテロは主イエスから戴いたのです。今朝お読みしたヨハネ福音 書21章15節以下は、主イエスによるペテロへの厳かな召命の場面です。「彼らが食事をすませると、 イエスはシモン・ペテロに言われた、『ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わた しを愛するか』。ペテロは言った、『主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じ です』。イエスは彼に、『わたしの小羊を養いなさい』と言われた。またもう一度彼に言われた、『ヨハネ の子シモンよ、わたしを愛するか』。彼はイエスに言った、『主よ、そうです。わたしがあなたを愛する ことは、あなたがご存じです』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を飼いなさい』。イエスは三度目に 言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。ペテロは『わたしを愛するか』とイエスが三度 も言われたので、心をいためてイエスに言った、『主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなた を愛していることは、おわかりになっています』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を養いなさい』」。  ペテロが一度ならず三度も主イエスの御名を拒んだのはつい10日ほど前の出来事でした。もし人生 に“取り返しのつかぬこと”があるとすれば、ペテロの否認こそまさにそれでした。ペテロは主イエス に対して「たとえあなたと一緒に死ぬことになっても、あなたを知らぬなどとは決して申しません」と 堅く誓っていたにもかかわらず、大祭司カヤパの邸で焚火を囲んでいたとき、下働きの女性が「あなた の顔を覚えている、あなたはイエスの弟子のはずだ」と誰何しただけで、ペテロは恐ろしさのあまり「神 に誓って主イエスなど知らない」と3度も口にしてしまったのでした。主を裏切ってしまったのです。 ペテロは自分の腑甲斐なさに絶望し、取り返しのつかぬおのれの罪におののき、外の暗闇に飛び出して、 激しく泣き続けたのでした。  まさにそのペテロの前に、復活の主イエスはお立ちになられるのです。ペテロに生命の糧をお与えに なった主は、ペテロを新たな主の御業へとお召しになるのです。それが今朝の御言葉の場面です。すな わち主イエスはペテロに対して「ヨハネの子シモンよ」と彼の本名をお呼びになり、そして「われを愛 するか」と3たびお問いになります。そのつどペテロは主イエスに対して「主よ、そうです、わたしが あなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えました。そのペテロに主は「わたしの羊を養いな さい」(わが羊を牧せよ)と3度お命じになりました。この3度という数字がペテロの3度の否認と深 く関わっていたことは明らかです。事実ペテロは3度目に主が問われた時には「心をいため」たと記さ れています。この「心をいため」たと訳された元々の言葉は「深い悲しみをもって悔い改めた」という 意味のギリシヤ語です。つまりペテロは主イエスに対して不快な気分になったというのではなく、自分 が3度も主イエスを否認したことを思い出し、大きな悲しみと共に、改めて主イエスを信じ、主に従い、 主に固着する者として生まれ変わったのです。主イエスに贖われた者として、新しい人生を主と共に歩 み始めたのです。それが「心をいため」たということです。  そもそも、なぜ主イエスは3度も同じ問いをペテロに向けたもうたのでしょうか。それはまさしく、 取り返しのつかぬ大きな罪をおかしたペテロの魂の傷口に3度も手を置いて下さり、ペテロを完全に癒 して下さるためでした。3度も大きな罪をおかしたペテロを、主は3度の召命によって完全に癒され、 ペテロをして立ち上がって主と共に歩む者(使徒)へと生まれ変わらせて下さったのです。この主の極 みなき愛にふれて、この愛に生かされて、ペテロは真に生涯主イエスに固着する使徒となり、その生命 の限り主に仕える真の使徒とされたのでした。思えば、かつては「たとえ他の者たちがあなたを見捨て て逃げても、わたしはあなたを捨てたりしません」と豪語していたペテロでした。しかし今やペテロは、 「あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と問われる主イエスに対して「主よ、そう です。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えています。  私たちにとって大切なことは、自分がどんなに神の前に強く確かな存在かということではないのです。 そうではなく、大切なことはただ一つ。主がどんなに大きな愛をもってこの罪人のかしらなる私を愛し て下さっていることか。それを知る者になることです。「わたしがあなたを愛することは、あなたがご存 じです」と答えることこそ私たちの真の幸いなのです。パウロの言う「もはやわれ生くるにあらず、キ リストわがうちにありて生くるなり」とは、実にこのキリストの愛に打たれ、生かされた僕の喜びと幸 いであります。  さて、実は今朝の御言葉で「愛する」と訳された言葉は(ギリシヤ語は)2つあるのです。ひとつは「永 遠なる神の愛」をあらわす“アガパオー”という言葉(これはアガペーの動詞形ですね)。もうひとつは、 人間的な友情や家族・兄弟の信頼を意味する“フィレオー”という言葉です。ですからこの2つの言葉 は日本語では同じように「愛する」と訳されますが、元々の意味はかなり違うものなのです。そこで、 私たちはこういうことを知らされているのではないでしょうか。主イエスが「わたしを愛するか」(アガ パオー)と問われたのに対して、ペテロは「わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」(フ ィレオー)と答えています。2度目も同じで、主イエスがアガパオーで問いかけられ、ペテロがフィレ オーで答えています。しかし問題は3度目の遣り取りなのです。今朝の御言葉で申しますなら17節の 「わたしを愛するか」と問われた3度目の主イエスの問いはアガパオーではなくフィレオーになってい るのです。もちろんペテロの答えは一貫してフィレオーです。  これは、何を意味するのでしょうか。ペテロはこの3度の遣り取りにおいて、主イエスが彼に対して 抱いておられるのと同じ愛(アガペー)をもって、主を愛しているか…と問われたと理解したのです。 だからこそペテロは、自分はとても主イエスがわたしを愛して下さるその同じ愛(神の聖なる永遠の愛 =アガペー)をもって主を愛することのできる人間などではない、自分は主を心から愛しているけれど も、その愛は主が私を愛したもう愛に及ぶべくもなく較べるべくもない、そういう意味であえて“フィ レオー”を用いているのです。私たちは自分の不完全な愛を主イエスの極みなき愛になぞらえるなどと うていなしえないのです。それをペテロは明らかにしているのです。それゆえに主イエスが“アガパン・ メ”(われを愛するか)と問われるのに対して“フィロー・セ”(あなたが大好きです)と答えているのです。  ペテロはきっと、こう申したかったに違いありません。「私は3度もあなたを裏切った、それほど弱 く脆く不確かな人間です。私の愛もまた不完全な、欠けだらけの愛に過ぎません。しかしいま私は、そ のような自分の不完全さに目を注ぐことを止めます。なぜなら、あなたは私を限りなく愛したまい、私 のために十字架におかかり下さった、私の唯一の救い主であられるからです。そのあなたの愛に既に生 かされていること、そのあなたの愛が私に注がれていること、あなたの愛の確かさのみが永遠に変わら ないこと、それだけが私にとって、全ての人にとって大切なただ一つのことなのです。それゆえ、いま 私の愛は不完全な欠けだらけのものにすぎませんが、あなたがそれをさえ喜び用いて下さるのならば、 私は心から真実にあなたを愛していると申し上げることができます」。それでペテロは、アガペーとは言 えないけれどもフィレオーとは言える。そのフィレオーという不完全な愛の姿をも主は喜んで用いて下 さる。御国の御業のために、欠けだらけの、弱く脆いこの私をも、召して下さる。ペテロにとって大切 なのは、その主の御招きの事実だけであったのです。  それこそまさに、ペテロの信仰告白でした。そしてなんと感謝すべきことでしょうか。主はそのペテ ロの信仰に3度目には“フィレオー”を用いてお答え下さったのです。ペテロの、否、私たち全ての者 の罪を贖うために、私たちの罪のどん底にまでお降り下さった主は、ペテロと同じ立場にまで下って、 彼の精一杯の愛をも、ご自身の永遠の愛において満たしめ、祝福して下さったのです。そこでこそペテ ロははっきりと知りました。主イエスを愛し、主イエスのために生命を捨てる愛は、自分の内側にある のではないということを。主イエスを愛する愛も、主イエスに対する従順も、ペテロの業ではないとい うことを。それは主イエスによって私たちに与えられる、神の恵みの賜物以外の何ものでもないのです。 ペテロはフィレオーの愛をもってしか主イエスを愛することはできない。それ以上の愛は分の内にはな いのです。十字架において示された神の聖なる愛は、人間である私たちの内にはないのです。  大切なことは、それで良いのだと主イエスが仰っていて下さることです。「わたしの力は弱きところに こそ完全に現れる」と私たち一人びとりに語っていて下さることです。私たちにできることは、主イエ スの愛を受けて、主イエスの聖なる愛に生かされて、自分もまたたとえ不完全であっても、欠けばかり であっても、そのあるがままに真実に主イエスを愛する僕になることです。主の教会に連なり、主の教 会に仕える僕になることです。そのとき、私たちの生涯が、主の愛を物語るものへと変えられてゆくの です。例えるなら、月が自分では輝かず、太陽の光を受けてはじめて輝くように、私たちもまた、自分 の内には真実な愛の輝きなどは無いのですけれども、キリストの極みなき十字架の愛を受けて、それに 生かされて、私たちもまたキリストの愛に輝く者とされてゆく。この事実こそ大切な唯一のことなので す。  最後に、主はペテロに対して「わたしの羊を養いなさい」と命じておられます。この「羊」とは世に ある全ての人をさしています。また「群れ」とはキリストの全教会をさしています。ここに「わたしの 羊」とあることに注意しましょう。羊はペテロのものではない。主イエス・キリストのものなのです。 主イエスのみが羊のために生命を捨てて下さった唯一の救い主であり「羊の門」でありたもうのです。 「わたしは道であり、真理であり、生命である。だれでも、わたしによらないでは、父のみもとに行く ことはできない」と主は言われました。教会に連なる私たちは、このことを、いつも明確にしておらね ばなりません。私たちはここに、真の教会、真にキリストのみを宣べ伝える教会を建てるために召され ています。  そして、召されている私たち自身が、すでにキリストの愛において満たされ、生かされ、主の御業へ と派遣されているのです。少しも私たちの力ではありません。ただ主の限りない愛と救いの恵みのみが、 私たちの永遠に変わらぬ慰めであり、癒しであり、召された務めを行なう力なのです。最後に第一コリ ント書15章9節以下を拝読します。「実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中 でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。しかし、神の恵みによって、わ たしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わ たしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあっ た神の恵みである」。祈りましょう。