説    教   サムエル記上16章13節   ヘブル書9章11〜15節

「預言者・祭司・王なるキリスト」

2016・12・11(説教16501673)  今朝私たちは待降節第3主日礼拝を迎えました。いつもの年でしたら来週の待降節第4主日がクリス マス礼拝になるのですけれども、今年は降誕日そのものの25日が日曜日になりますので、聖夜礼拝を も含めて今年はあと3回の主日礼拝があることになります。さて、そこで「クリスマス」という言葉は “キリストを礼拝する”という意味のラテン語に由来しています。私たちの教会の生命は、まさにキリ スト礼拝、キリスト告白にあるのです。言い換えるなら、私たちが主イエス・キリストをどのようなか たとして告白するか、そこに私たちの信仰の中心があると申しても過言ではないのです。  先週は礼拝のあとで、幼児洗礼志願家庭の試問会が行なわれました。私たちの教会にとって、全てに まさって喜ばしい務めが担われます。そこで長老会において丁寧に洗礼志願家庭に問いかけたことも、 ひと言で申すならば「あなたにとってイエス・キリストとは、いかなるおかたであるか」という唯一の 問いです。言い換えるならこのことは、西暦381年のニカイア・コンスタンティノポリス信条、また私 たちの先達である日本基督教会の1890年(明治23年)「信仰の告白」を、誠実に受け入れ、これを信ず るか否かという問いです。  特に1890年の「日本基督教会信仰の告白」は、その冒頭において「我等が神と崇むる主イエス・キ リストは、神の独り子にして、人類のため、その罪の救いのために、人となりて苦しみを受け、我らが 罪のために、完き犠牲をささげたまへり」と告白しています。これは使徒的公同教会の信仰告白、特に ニカイア信条を、わが国の最初の教会が非常に厳密に解釈したという点でとても大切な告白です。つま りニカイア信条における「(われらは)唯一の主、神の独り子、イエス・キリストを信じます」という信 仰の内容を1890年の「日本基督教会信仰の告白」は、「我等が神と崇むる主イエス・キリスト」という 言葉で、まことに丁寧に言い換えているわけです。  そこで、ここでもわかりますように、私たちが改めて心に留めるべき大切な事柄は、私たちの教会は いつも、イエス・キリストを「神の子」「主」「救い主」と告白してきたことです。否、すでに“イエス・ キリスト”という御名そのものが「イエスはキリスト(油注がれしかた=救い主)である」という信仰告 白です。まさに教会とは、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになったナザレのイエスをキリスト(油注がれ しかた=救い主)すなわち「主」と告白する群れであると言い換えることができるのです。ゆえに「あな たにとってイエス・キリストとは、いかなるかたであるか」この問いに対する答えは「私の主(救い主) であられます」ということ以外にはないのです。そして、このキリストが「主」でありたもうというこ とを、聖書の御言葉によって丁寧に紐解くとき、私たちは「キリストの三職」という教理へと導かれま す。キリストは「預言者・祭司・王」なる「主」であられるということです。これを昔から私たちの教 会は「キリストの三職」(キリストの三つのお働き)を大切な教理(正しい信仰の筋道)として告白してきた のです。キリストが私たちの、また全世界の救いのために担いたもうた3つのお働きを、使徒的な公同 の教会は「まことの預言者・まことの祭司・まことの王」と言い表してきたわけです。このことについ て、私たちの教会の大切な信仰の遺産、1563年の「ハイデルベルク信仰問答」は、その問31でこのよ うに語っています。  「(問い)なぜこのかたは、キリストすなわち『油注がれた者』と呼ばれるのですか。(答え)なぜなら、 この方は父なる神から次のように任職され、聖霊によって油注がれたからです。すなわち、わたしたち の最高の預言者また教師として、わたしたちの贖いに関する、神の隠された熟慮と御意思とを、余すと ころなくわたしたちに啓示し、わたしたちの唯一の大祭司として、御自分の体による唯一の犠牲によっ てわたしたちを贖い、御父の御前でわたしたちのために絶えず執成し、わたしたちの永遠の王として、 御自分の言葉と霊とによってわたしたちを治め、獲得なさった贖いのもとに、わたしたちを守り保って くださるのです」。  まず、イエス・キリストが「(まことの)預言者」であられるとはどういうことでしょうか。ただいま の「ハイデルベルク信仰問答」問31に「わたしたちの贖いに関する、神の隠された熟慮と御意思とを、 余すところなくわたしたちに啓示」したもうゆえにであるとありました。これはとても大切なことです。 まず「わたしたちの贖いに関する」とあることです。私たち人間にとっていちばん大切なことは罪を贖 われること、すなわち、まことの神との関係を修復して戴くことです。「贖い」とは「神との関係修復」 と言い換えることができます。それをなしうるかたは、神の永遠の独子にして真の唯一の「主」なるキ リスト以外にないのです。キリストは、まことの神が私たちをどんなに愛しておられるか。そして私た ちの救いのためにどんなに完全な救いを成し遂げて下さったか、そのご意思(神の言葉)を「余すところ なく」私たちに語りたもうかたであられるゆえに「(まことの)預言者」と呼ばれるのです。私たちは主 イエス・キリストによって、まことの唯一の主なる神を知る者とされているのです。キリストを信ずる 者は真の神を知るのです。そして真の神を知った者のみが本当の自由に生きうるのです。全てにまさっ て、罪と死の支配から解き放たれ、キリストの愛と祝福のもとにある者として、その生涯の全体を、神 の喜びたもうわざに献げる者とならせて戴けるのです。  第二に、キリストが「(まことの)祭司」であられるとはどういうことでしょうか。「祭司」とは神と民 との間に立ち、執成す務めです。橋渡しの務めをなす者のことです。ですから先ほどの「ハイデルベル ク信仰問答」でも、キリストは「(まことの)祭司」として「御自分の体による唯一の犠牲によってわた したちを贖い、御父の御前でわたしたちのために絶えず執成し」たもうかたであると告白されていまし た。譬えて申すならば、誰も超えることのできなかった「罪」という深い断絶を、キリストはご自分の 十字架による唯一絶対の贖いによって克服して下さった。そして、私たちを御父なる神に導く橋となっ て下さったかたなのです。  祭司はまさに、その「橋」の務めを全うするために犠牲を献げます。ではキリストが献げて下さった 犠牲とは何であるかと申しますと、今朝ご一緒にお読みしたヘブル書9章11節以下にこう記されてい ました。「しかしキリストがすでに現われた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界 に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との池にらず、ご自分の血によっ て、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」。キリストはご自分 を十字架に犠牲となしたもうて、私たちの底知れぬ罪を贖って下さったのです。キリストを「世の罪を 贖う神の小羊」と呼ぶのはそのためです。まさにこのかたのみが、私たち人間の底知れぬ罪の暗黒のど ん底にお生まれ下さった、それがクリスマス(降誕節)の喜びなのです。私たちのために「永遠の大祭司」 がお生まれになったのです。  第三に、キリストが「(まことの)王」であられるとはどういうことでしょうか。私たちは「王」と聞 くと、君臨し、支配し、自分の主権を拡げようとする者を想像します。しかしキリストが「(まことの) 王」であられるとはそういう意味ではありません。キリストの弟子たちは、キリストがエルサレムに入 場なさっても、この世の王として旗揚げなさろうとしないことに苛立ち、自分たちの中で誰がいちばん 偉いかを論じ合いました。そのとき主は弟子たちにお教えになって言われたのです。ルカ福音書22章 24節以下。「それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起 った。そこでイエスが言われた。『異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者た ちは恩人と呼ばれる。しかし、あなたがたは、そうであってはならない。』」  またマルコ伝9章33節以下には、同じ場面で主イエスは一人の幼子を弟子たちの真中に立たせ、そ の幼子を抱いて祝福され、そして言われたことが記されています。「だれでも、このような幼な子のひと りを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれ る者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。  同様にマタイ伝20章24節以下にはこうあります「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、『あ なたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に 権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない』」。そして、主はこうお教えになっ たのであります。「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多く の人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。  なによりも心したいのは、この最後の御言葉です。主はご自分が世に来られたのは「多くの人のあが ないとして、自分の命を与えるため」であるとはっきりと言われました。この「多くの人のため」とは ヘブライ語で「全ての人のため」という意味です。キリストは世を睥睨し君臨するこの世の王としてで はなく、全ての人の罪を担われて十字架におかかりになり、その贖いによって全ての人を罪から救う、 まことの唯一の永遠の「王」であられるのです。  だからこそニカイア信条では「その御国(王権)は終わることがありません」と告白されています。こ の世の王権は時代と共に衰勢を繰返しますが、キリストの恵みの主権、キリストが私たちに与えて下さ る神の国の限りなき祝福は、永遠に変わることはないのです。かつてボンヘッファーというドイツの神 学者が、ナチズムに反対して殉教の死をとげました。このボンヘッファー牧師が、獄中の礼拝で語られ たエペソ書の連続講解説教で次のように語っています。自分はもう明日にでも、この世を去るであろう。 しかし、私の生命がいつこの世の王の暴虐のために断たれようとも、私は唯一の真の預言者にのみ仕え、 唯一の真の祭司のみを証しし、唯一の永遠の王のみを讃美する。まさにそのおかた、主イエス・キリス トの永遠の勝利のみを宣べ伝える。ただキリストの十字架のみが、全ての罪に対する永遠の勝利である。 ここで証しされる福音は一つである。すなわち「キリストは真の預言者・祭司・王として我らのもとに 来られた」。  「キリストは真の預言者・祭司・王として我らのもとに来られた」この恵みの事実に永遠に生きる者 と、この待降節最後の礼拝において、私たちはならせて戴いているのです。キリストは十字架の死によ って、罪の極みなる私たちを完全に贖い、なんの勲もなきままに私たちを御国の民、神の子とならせて 下さいました。御言葉と御霊によって、世々に変わらず統治されるまことの「王」として、今日も明日 も、私たちの全生涯、否、死を超えてまでも、その限りない祝福の御手の内に保ち、守り、支え、導い て下さるのであります。どうかこの、待降節第3主日の礼拝において、私たちは心を高く上げて共に救 いの御言葉を、罪の赦しと生命と祝福の福音を心に留めましょう。キリストは私たちのため、全世界の 人々のために、まことの「預言者・祭司・王」となられた。そのかたの御降誕の喜びを、私たちは新た に迎えるのであります。