説     教    創世記22章1〜8節  ヘブル書11章1〜3節

「イサクの奉献」

2016・12・04(説教16491672)  旧約聖書の創世記12章以下に登場するアブラハムは「信仰の父」と呼ばれ、私たちの信仰の模範と されている人です。アブラハムはもとの名をアブラムと言いました。アブラムは主なる神の召命(御言 葉による新たな人生への召しいだし)に従い、故郷メソポタミアのハランを旅立ち、行先を知らぬまま、 ただ神の御言葉に従って約束の地を目指しました。そのときアブラムは75歳でした。そして創世記15 章に至りまして「アブラムは主を信じた。主これを彼の義と認められた」と記されています。自分を省 みることなく、ただ神の御手に身を委ねて生きた信仰が「彼の義」(救い)と認められたのです。主な る神はアブラムが99歳のとき「恵みの契約」(全てのイスラエルの民への救いの契約)を結ばれ、彼 に新しく「アブラハム」(諸国民の父)という名をお与えになりました。そして百歳の時には独子イサ クが祝福の世継ぎとして与えられました。  このように、ただ主なる神の召しに応えて歩んだアブラハムの生涯に、思いもかけない大きな試練が 訪れます。アブラハムと妻サラにとって最愛の独子イサク、そのイサクはただ最愛の独子であるばかり でなく、神の祝福を受け継ぐべき「世界に対する祝福のしるし」でした。しかし、こともあろうにその 独子イサクを、主なる神は燔祭のささげものとして献げるようにお命じになるのです。創世記22章1 節以下です「これらの事ののち、神はアブラハムを試みて彼に言われた、『アブラハムよ』。彼は言っ た、『(はい)ここにおります』。神は言われた、『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連 れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい』」。「燔祭」の「燔」とは「焼 き尽くす」という意味です。神はアブラハムに「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを」焼き 尽くす献げものにせよとお命じになったのです。聴き間違いではありませんでした。確かに主なる神が お命じになったことでした。  たとえ主なる神のご命令とはいえ、親たるものにとって、愛するわが子を献げよという命令にまさる 残酷な要求があるでしょうか。そもそも神が彼に「アブラハム」という名をお与えになった理由は「祝 福の基」としてアブラハムの子孫を祝福し、神の祝福を受け継ぐ者を「星の数ほどに」まし加えて下さ る約束でした。これを「アブラハム契約」と申します。ところが、いま神がアブラハムに命じたもうこ とは、まさにその「アブラハム契約」を根本的に覆すことでした。それゆえにアブラハムの驚きは私た ちの想像を超えたものでした。神は絶対に恵みの契約を曲げることをなさいません。しかしいまアブラ ハムが聴いている神の言葉は、まごうことなきイサクの奉献を求めるものでした。そもそも人身御供の 儀式はイスラエルにはなく、それは異教国アッスリヤやバビロニアの風習でした。イスラエルでは人身 御供は神によって「あなたがたの間ではあってはならぬこと」と禁じられていました。その「あっては ならぬこと」を、主なる真の神がお命じになったのです。  今朝の創世記22章には、この信じがたい残酷なご命令にアブラハムがいかにも淡々と従う姿が描か れています。しかしその心中は張り裂けんばかりでした。森有正という哲学者は「アブラハムはこの悲 しみにおいて文字どおり死んだ者となった」と語っています。独子イサクの奉献は、父アブラハムにと って自らの死より遥かに辛いことでした。このときイサクは少なくとも15歳以上の青年でした。それ は「わらべ」と訳された元々のヘブライ語が示しています。それならば、この神の残酷なご命令に父ア ブラハムと共にイサクも信仰をもって聴き従ったのです。父子2人してただ神のみを信じたのです。ア ブラハムは自由な人間として、神のご命令を無視することもできたはずです。イサクも同様でした。し かし“ここにはなにか、必ず大きな意味がある。意味なくして主なる神がこのような命令をお下しにな るはずがない”と、ただ神のみを信じて従順に聴き従ったのです。  アブラハムとイサクが向かった「モリヤの地」とは今日のエルサレムのことです。アブラハムの家か らはおよそ70km離れていました。普通に歩いて2日の道程をアブラハムとイサクは3日間かけて歩き ました。それはどんなに重い足取りであったことでしょうか。「三日目」に「モリヤの地」のその「場 所」が見えてきました。それは大きな岩山でした。アブラハムがイサクと共にその岩山に登ってゆく様 子を、今朝の22章6節以下はこのように記しています。「アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その 子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。やがてイサクは父アブラハムに言 った、『父よ』。彼は答えた、『子よ、わたしはここにいます』。イサクは言った、『火とたきぎとは ありますが、燔祭の小羊はどこにありますか』。アブラハムは言った、『子よ、神みずから燔祭の小羊 を備えてくださるであろう』。こうしてふたりは一緒に行った」。  「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。ここにはアブラハムとイサクの、主な る神に対する“摂理の信仰”が現れています。摂理とは英語で申しますとプロヴィデンス(providence) で、その意味は「神は先を見たもう」です。私たち日本人は先のことを言う場合「摂理」よりも「運命」 という言葉をよく使います。しかし「運命」とはある種の諦めをあらわす言葉です。自分の人生が暗く 冷たい意思(力)によって支配されていることを「運命」と言います。これに対して「摂理」とは信仰に よって真の目的地(行くべき先)を見きわめることです。神の御心、神の顧みを信じて、神の御手に自分 を投げかけること(委ねること)が「摂理の信仰」です。キリスト教の大きな特徴は「運命」を否定す る点にあります。私たちキリスト者は運命ではなく「神の摂理」を信じます。今朝あわせてお読みした ヘブル書11章1節にこうありました。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実 を確認することである」。ここに示されているように「望んでいる事がら」の先を見、見えている事実 の先にある「見えない事実(真の目的地)」」を知ること、見ること、それが「摂理の信仰」です。  神が「燔祭の小羊」(焼き尽くす献げもの)を用意していて下さるということを、アブラハムは「見 て」いた(信じた)のです。この過酷なご命令には必ず、主なる神の大いなる備えと御計画があること を「見て」(信じて)いたのです。それゆえに信仰とはバルトが言うように“目に見えるものの先は、神 が備えて下さっている”ことを信じて見ること、確認して神を讃美することです。9節以下を見ましょ う「彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサ クを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そ うとした時、主の使いが天から彼を呼んで言った、『アブラハムよ、アブラハムよ』。彼は答えた、『は い、ここにおります』。み使いが言った『わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならな い。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を畏れる者で あることをわたしは今知った』。この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けて いる一頭の牡羊がいた。アブラハムは行ってその牡羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささ げた。それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお『主 の山に備えあり』と言う」。  主なる神に呼びかけられたとき、アブラハムは「はい」と答えています。この創世記22章の物語(イ サクの奉献)は「はい」で始まり「はい」で終わっています。この「はい」は「アーメン」と言い換え ることができます。信仰とは、私たちを限りなく愛し、私たちに語りかけたもう神の真実に対して「ア ーメン」と応えつつ歩むことです。この「アーメン」とは「神の真実」です。私たち全ての者を救い祝 福する神の真実です。アブラハムはただその「神の真実」にまなざしを注ぎ、みずからも「アーメン」 と応えます。喜びの時も悲しみの時も、ひたすらに神を見上げ、神の御手に自分を委ねたのです。行く 先の見えない試練の中にも、必ず神が祝福へと導いて下さることを信じたのです。それは、独子イエス・ キリストを十字架に献げて下さった贖い主なる神を「見る」ことです。この物語の主人公は、実はアブ ラハムでもイサクでもなく、主イエス・キリストの父なる神です。神が私たちを、その最愛の独り子を お与え下さったほどに限りなく愛し、御子キリストを献げて、私たちの罪を赦し、贖い取って下さった 「神の真実」が、ここに現れているのです。  今日は待降節の第二主日です。御子イエス・キリストの御降誕の喜びを迎える備えをなすこの季節、 私たちは今朝の御言葉により、全てにまさる「神の真実」を与えられています。それは、アブラハムに は天から(神から)声がありました。「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない」 と。しかし、どうか心に留めて下さい。主イエス・キリストの十字架においては、その御声はかからな かったのです。「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない」。アブラハムに響い たこの御声は、主イエスの十字架の場面では響かなかったのです。そこでこそアブラハムは悟りました。 イサクの奉献を要求したもうた神は、イサクを、アブラハムを、そして全世界を救うために、ご自身の 最愛の独子イエス・キリストを奉献したもう神であることを…。それはヨハネ伝3章16節の「神の真 実」を示しています。「神はその独り子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信 じる者が一人も滅びないで、永遠の生命をえるためである」。  さきほどのヘブル書は12章8節以下にこう告げています。「アブラハムは、受け継ぐべき地に出て 行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にい るようにして約束の地に宿り、同じ信仰を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼は、ゆるがぬ 土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである」。この「幕屋」とは、主が生命を献げてお建て 下さった「教会」のことです。そして「都」とは永遠の御国です。私たちはアブラハムと共に、主の教 会に連なる幸いを与えられ、この教会によって永遠の御国(神の都)の民とされているのです。私たち 全ての者のために、神の独子イエス・キリストは、ご自身の全てを献げぬいて下さったからです。  今朝のこの「イサクの奉献」の出来事を通して、私たちはイエス・キリストにおける永遠の「神の真 実」を見ます。神は私たちのために、この世界の救いと永遠の祝福のために、その愛する独り子イエス・ キリストをお与え下さったのです。アブラハムはその信仰の歩みを通して「主の山に備えあり」(アド ナイ・エレ)ということを、すなわち、私たちの罪のただ中に神は限りない救いの御業を顕して下さっ たこと、独子イエス・キリストを与えたもうたことを知る者とされ、それを証しているのです。  どのような時も「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエス」に向かって目を上げ、神の愛 である十字架を見つめて歩む、まことの信仰に生きる私たちであり続けたいと思います。祈りましょう。