説    教    イザヤ書40章31節   ヨハネ福音書16章29〜33節

「主にある勇気と平安」

2016・11・27(説教16481671)  今朝のヨハネ福音書16章33節において、主イエス・キリストは全ての人に力強い福音の音信を告げ ておられます。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あ なたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。 ここで何よりも主は「これらのことをあなたがたに話したのは…」と言って下さいます。私たちは主の 御身体なる教会において、いつも主ご自身が出会っていて下さり、生命の御言葉に養われています。こ の「生命の御言葉の主」は同時に十字架の福音による「平安と勇気の主」でもあられます。私たちの人 生の揺るぎなき平安と勇気は、いつもただ十字架の主の御言葉にあるのです。  ここで主が「わたしにあって」と言われたのは「わたしに堅く結ばれた者として」という意味です。 という意味です。主はいま私たち一人びとりを、ご自身の御身体なる教会に堅く結んでいて下さる。そ れは十字架と復活の主の御身体なる教会です。その満ち溢れる恵みに生きる私たちに、主はいま「あな たがたはこの世ではなやみがある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と告げ て下さるのです。文語訳の聖書ではこう訳されています。「なんぢら世にありては患難(なやみ)あり、 されど雄々しかれ。我すでに世に勝てり」。なによりも主は、この福音をご自身の十字架によって宣言 して下さいます。あなたの全ての罪を、死の支配さえも、私は十字架において贖い取った。罪と死に永 遠に勝利した。あなたはその私の勝利のもとにいつも堅く結ばれている。だから「勇気を出しなさい」 と主は言われるのです。  ですからこの「勇気」とは、世のいわゆる「勇気」という言葉とは違うものです。古代ギリシヤの哲 学者は「勇気」のことを「恐ろしいことをきちんと恐れ、しかもその恐ろしさに耐えること」であると 教えました。現実を直視しつつなお恐れずに立ち向かうこと、それを古代ギリシヤでは「勇気」と呼ん だのです。この思想はヨーロッパ文化に受け継がれました。たとえばドイツ語で勇気のことを“ランゲ ムート”申しますが、それは直訳すれば「長く忍耐すること」という意味です。そこで、私たちも同じ 価値観を共有しています。本当の「勇気」とは、厳しい現実を直視しつつ、しかも物怖じしない心のこ とだと、私たちもどこかで思っているのです。それは間違ってはいません。私たちは信仰者として、社 会に生きるキリスト者として、「勇気」をもって生きたいと願っています。しかし私たちはそう願う一 方で、ある事実にも気がつくのです。それは私たち自身の中には、自分を支える本当の「勇気」は無い のだという事実です。むしろ私たちは本当の勇気を必要とする場面で、厳しい現実から逃れたいと思っ てしまうのはないか。現実逃避をしてしまうのではないか。勇気が求められているのに、それが自分の 中にはない。まさにドイツ語の“ランゲムート”(長く忍耐すること)とは逆の、安易に生きようと願 う私たちの本心が見え隠れします。私たちの「弱さ」があるのです。繰り返し申します。私たちの存在 の中には、私たちの人生を支え導く本当の「勇気」は無いのです。それは蜃気楼のように消え去ってし まうだけなのです。  だとすれば、ここで主イエスが「勇気を出しなさい」と仰っておられることは、私たちに実現不可能 な高い要求を突き付けておられるのでしょうか。あるいは、ごく一部の強い人間だけを相手にしておら れるのでしょうか。そうではありません。そもそも聖書はここで何を語っているのか、改めて今朝のヨ ハネ伝16章33節を読んでみたいのです。主はこう言われたのです。「これらのことをあなたがたに話 したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、 勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。ここで「勇気を出しなさい」と主が弟子たちに 語られたとき、弟子たちの心は大きな恐れと不安に捕われ、怖気づき、悲しみで閉ざされていたのです。 それは同じ16章6節に主が弟子たちに「あなたがたの心は(いま)憂いで満たされている」と言われ たことからもわかります。「憂い」。つまり、自分では如何ともしがたい悩み、恐れ、不安、悲しみ、 遣り場のない憤りに、弟子たちの心は支配されていたのです。  なによりも弟子たちには、主が自分たちから離れて遠くに行ってしまわれるという「恐れ」と「不安」 がありました。主はイスラエルの王に即位されるだろうと期待していたのに、主の歩みはゴルゴタの十 字架へと向けられている。それが弟子たちの言い知れぬ「憂い」の内容でした。ベテスダの池で病人を 癒し、見えなかった者の目を開き、ラザロを復活させた主イエス。弟子たちの前で力強い御業を行った 主イエスが、弟子たちから離れ、最大の恥辱である十字架へと歩もうとしておられる。そのことに弟子 たちは大きな「憂い」(悲しみ)を感じたのです。この「憂い」をごまかすようなペテロの言葉が同じ ヨハネ伝13章36節以下に記されています。「シモン・ペテロがイエスに言った、『主よ、どこへおい でになるのですか』。イエスは答えられた、『あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることは できない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう』。ペテロはイエスに言った、『主よ、 なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、命も捨てます』。イエスは 答えられた、『わたしのために命を捨てると言うのか。よく、よく、あなたに言っておく。鶏が鳴く前 に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう』」。  ペテロだけではなく、他の弟子たちも主イエスに対して、自分たちの「勇気」を示そうとしました。 主イエスのためなら死ぬことも恐れないと言ったのです。彼らは自分たちに「勇気」があると信じてい ました。だから、主イエスに対する苛立ちを顕わにしています。その弟子たちに、主はただ十字架にお いて起る救いの恵みの確かさをお示しになるのです。  14章27節「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたし が与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。  15章 5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、 またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」。  これらの御言葉を弟子たちに(私たちに)語られた主が、いま今朝の16章33節において「これらの ことをあなたがに話したのは…」と言われるのです。言い換えるなら、主イエスはただ、ご自分が背負 われる十字架の贖いの恵みをさして、ただその恵みの確かさからのみ私たちに(弟子たちに)語り告げ ていて下さるのです。主を三度も裏切ることになった弱きペテロに対しても、主ははっきりと告げて下 さいます。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世 に勝っている」と。  私たちの内には、罪と死の支配に勝利する如何なる力もありません。私たちの内には、私たちの人生 を支える本当の「勇気」は無いのです。そのような私たちに、主はいまはっきりと告げていて下さいま す。「わたしはすでに世に勝っている」(我すでに世に勝てり)と。私があなたのために、この全世界 の罪と死の現実をさえ担い取って、あの呪いの十字架にかかった。あなたは、いついかなる時にも、私 の十字架の贖いの恵みのもとに生きる者とされている。主はそう宣言して下さるのです。私たちを生か す真の「勇気」は私たちの内にではなく、ただ十字架の主イエス・キリストにあるのです。私たちは教 会によって主に堅く結ばれて生きるとき、本当の「勇気」に満たされるのです。キリストの恵みに覆わ れるのです。だからこそ主は「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るた めである」と宣言して下さいました。「あなたがたはいま、わたしに結ばれているではないか」と、主 みずから一方的な恵みをもって宣言して下さるのです。私たちの人生は、そしてこの世界は、この福音 の事実によってのみ、本当の「勇気」に(救いの喜びに)満たされるのです。揺るがぬ平安に生きるこ とができるのです。  この「平安」という言葉は、同じヨハネ伝20章19節にもういちど出てきます。復活された主が、な おも恐れて戸を閉ざしていた弟子たちのもとを訪れて下さった時です。その弟子たちの恐れの中で、復 活の主は「安かれ」と宣言して下さいました。「あなたがたに平安があるように」と、ご自身の十字架 の恵みをもって、そして復活の勝利の恵みをもって、弟子たちに聖霊による新たな生命と平安を与えて 下さったのです。この主のもとに揺るがぬ勝利と平安があります。そして私たちは主の御手から、勝利 に裏付けられた本当の「勇気」を与えられているのです。  最近では「頑張って」という言葉をあまり使わないようになりました。この言葉は時として人を追い こんでしまうことがあるからです。自分はこんなにも頑張ってきたのに、もっと頑張らなければならな いのかと、励ましの言葉が絶望を引き起こしてしまうことがあるのです。主が言われる「勇気を出しな さい」とはそのような言葉ではありません。もうあなたの勝利は確定している。あなたの全存在は私が 贖った。だから心配しないでよい。私があなたのために罪と死に勝利したからだ。だから安心して立ち 上がりなさい。主はそのように告げていて下さる。そこに私たちの本当の「勇気」があるのです。だか らルターはこの「勇気を出しなさい」という言葉を「汝ら慰められてあれ」と訳しました。それは、キ リストがいつも私たちの傍らにおられ、崩おれそうになる私たちの全存在を堅く支えていて下さる事実 です。だから私たちは、失敗を恐れずに愛のわざに励むことができます。最終的に「負けて」しまうこ とはないのです。私たちがあれこれと悩む前に、もう勝負はついているのです。あなたはもう「勝って いる」のだから、大丈夫だというのです。  最近は人生の「勝ち組」「負け組」という嫌な言葉があります。しかし本当に大切なことはただひと つ。私たちが「キリスト組」に連なることです。主の教会に連なって生きることです。私たちはいます でに「キリスト組」の枝とされているのです。本当の意味で、世の終わりまで見越した上での、永遠の 勝利のキリスト組に入れて戴いているのです。だから安心できるのです。勇気を出して主に従う僕とさ れています。だからこそ「慰められてあれ」と主は言われるのです。あの主の弟子たちもまた、あの絶 望的な裏切りの闇夜のただ中から、ただ主のみを見上げて、本当の「勇気]をもって立ち上がることが できました。いかなる迫害の中にあっても、主の平安をもって御言葉を全ての人に宣べ伝え、真の教会 を形成し、主の御業に励む僕とされていったのです。  私たちも同じです。私たちもまた、日々の生活の中でいつも今朝の御言葉に立ち帰り、祈りつつ、キ リストの平安に、勇気に満たされて立ち上がるのです。主が私たちに与えて下さった平安は、安心して 蹲ってしまうような平安ではありません。主の平安は、私たちが安心して立ち上がり、主と共に歩むこ とのできる平安です。だからこそそれは「勇気」です。すでに十字架と復活の勝利の主が、私たちとい つも共にいて下さるのです。今日からアドヴェント(待降節)の歩みが始まります。クリスマスへと向か う信仰の歩みの中で、どうか私たちはいつも、ご降誕の主、十字架の主、復活の主、イエス・キリスト の御手に、堅く支えられ、贖われた僕として、勇気と平安に満たされて歩んでゆく僕となりたいと思い ます。私たちの信仰の歩み、真の勇気をもって生きる生活は、そこから始まってゆくのです。  私たちは、すべてのものに勝利された主から、日々勇気を与えられ続けています。私たちは、私たち の想像をはるかに超えた、力強い、主の勇気と平安が与えられているのです。だからこそ、人生のあら ゆる歩みにおいて、主の勇気と平安とを与えられ、ともに心を熱くして主に従って歩んで参りたいと願 います。祈りましょう。