説    教    ホセア書6章4〜5節   マタイ福音書9章9〜13節

「義人を招くにあらず」

2016・11・20(説教16471670)  「マタイによる福音書」の著者と伝えられている十二弟子のマタイは元々「取税人」でした。それは今 朝のマタイ伝9章9節に、彼が「収税所」に「すわって」いたとあることからわかります。そこで、福音 書を見ると「取税人」は「取税人と罪人」または「取税人や罪人たち」というように、かならず「罪人」 という言葉と組みで出てきます。当時のユダヤにおいて「取税人」であることはすなわち「罪人」と同じ でした。そこには次のような事情がありました。主イエスの時代のユダヤ(古代イスラエル)はローマ帝 国の植民地(属国)であり、宗主国であるローマ帝国は植民地ユダヤの人々に対して過酷な納税の義務を 課したのです。ユダヤの国力を疲弊させ、ローマに反抗できなくするのが目的でした。つまり、この場合 の“税金”とはローマ帝国に納められる“上納金”のことだったのです。自分たちの社会のため用いられ る税金ではなく、憎き宗主国ローマに吸い上げられてしまう上納金、それを徴収する役割を負っていたの が「取税人」と呼ばれる人々でした。  ですから民衆の目から見るなら、「取税人」は同じユダヤ人でありながらローマの手先となって貧しい 人々から高額の上納金を巻き上げる不届きな連中であり、文字どおり「罪人の代名詞であったのです。事 実、当時の「取税人」たちはみな既定の上納金よりも余分の金を民衆から徴収し、その余剰分を自分の隠 し財産にするという狡猾なことを平然と行っていました。つまりユダヤ人でありながらローマの権力を傘 に私腹を肥やしていたのが「取税人」でした。そのような“役得”があるものですから「取税人」になる 権利は高額で売買されました。そしてその権利を買った者たちは元を取ろうとしてますます私腹を肥やす という悪循環を繰返していたのです。彼らが民衆から憎み蔑まれ、「罪人」と呼ばれていたのには、そのよ うな背景があったわけです。  とりわけ、信仰に熱心なユダヤの人々から見れば、彼ら「取税人」たちの行いは同胞を裏切る背信行為 であるばかりでなく、神の“選民”(選ばれた契約の民)とされた民族の誇りを踏みにじるものであり、神 に対する重大な「罪」とみなされたのは当然のことでした。そうしたことから「取税人」は「罪人」の代 名詞として扱われたのです。マタイという人は、まさにそうした現役の「取税人」の一人として「収税所」 に「すわって」いたところを、主イエスによって招かれ、主イエスの弟子とされた人でした。  ある日の昼下がりのことです。主イエスは収税所の戸口の前に座っていたマタイを慈しみのまなざしで ご覧になり、彼に「わたしに従ってきなさい」と御声をかけられました。今朝の御言葉の9節には「する と彼(マタイ)は立ちあがって、イエスに従った」と記されています。このように聖書は淡々と記してい ますが、主イエスに招かれて喜び勇んで立ち上がり、直ちに従っていったマタイの喜びの息遣いが聴こえ てくるような場面です。これには、同じ取税人仲間たちはもちろん、町の人々もみな非常に驚いたことで した。マタイの決断の速さと共に、このような「罪人」を弟子としてお招きになる主イエス対する驚きが、 そこにはあったのです。主イエスの弟子になるということは、今までの自分を捨てて、主イエスと常に行 動を共にする者になるという“人生の大転換”です。そんなに大きなことが、どうしてマタイには簡単に できてしまったのでしょうか。ある解釈によれば、マタイは取税人をしながらも、自分の日常生活にいつ も罪の意識を持って悩んでいた。自分は本当にこのままで良いのだろうかと悩んでいた。そこに主イエス からの御招きがあったので、直ちにそれに飛びついたのだ。そのように解釈する人も多いのです。間違っ てはいないでしょう。  しかし聖書は、実はそのような合理的な理由をいっさい物語っていません。つまり聖書はこのことにつ いて、私たちを“納得させよう”としてはいないのです。このマタイ伝の8章と9章には主イエスのなさ った様々な奇跡が記されています。取税人マタイの弟子への招きもその一つであると言うことができます。 そこで聖書は様々な奇跡を語るときに、それを合理的かつ納得できるように“説明しよう”とはしていま せん。聖書が宣べ伝えている事柄は、読者を納得させ「なるほどそれなら私にもわかる」と思わせること ではなく、私たちを救う本当の神の御力、神の恵みの権威を持って私たちのもとに来られた主イエス・キ リストを描くことです。私たちがその主イエスと出会い、その御業によって救われることです。ですから 今朝の御言葉においても、ただ主イエスの救いの御力の大きさのみが語られているのであって、マタイの 決断や動機を語ろうとはしていないのです。  そこで改めて今朝のマタイ伝9章9節を読んでみましょう。まず「イエスはそこから進んで行かれ」と あります。「そこ」とは何処のことでしょうか?。それは直前の8節までに語られていた御業が行われた 場所です。つまり主イエスは「中風」で寝たきりであった人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は 赦されたのだ」と告げて下さり、それが言葉だけでなく、権威ある救いの宣言であることをお示しになる ために「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言って彼を癒されたのです。まさにこの癒しの御業、否、 正確に言えば“罪の赦しの奇跡”がなされた場が9節の告げる「そこ」なのです。まさに「そこから」出 発して進んでいかれる中で、今朝の出来事が起りました。「(主は)マタイという人が収税所にすわってい るのを見て」という出来事です。この「見て」とは「凝視された」ということです。主イエスは慈しみの まなざしを、優しい愛のまなざしをマタイに注いで下さった。私たち一人びとりを、主は慈しみのまなざ しで見つめて下さる。そこから救いの出来事は始まるのです。  さて、主イエスの目にマタイは、どのような人に映ったのでしょうか。主イエスがまなざしを注いで下 さったのは、まさしく収税所に座っているマタイ、取税人としての仕マタイ、人々から上納金を取り立て ているマタイでした。もしかしたら、その日の取立ての中から、自分の懐に入れるぶんを取り分けていた 最中だったかもしれません。「収税所にすわっていた」というのは、まさに彼がそのような「罪」のただ中 におり、その中にどっぷりと浸りこみ、あぐらをかいていた、その姿を主イエスがご覧になった(凝視さ れた)ということです。罪の意識に苛まれ、「自分はこれで良いのだろうか」と悩んでいるマタイではなく、 あるいは、他の福音書に出てくる取税人のように、神殿から遠く離れて立ち「神よ、罪人のわたしをお赦 しください」と祈っている姿でもない。「収税所にすわっていた」マタイとは、罪の生活に全身が浸りきり、 あの「中風の人」のように起き上がることもできずにいる、そのようなマタイを主イエスは慈しみのまな ざしで見つめられたのです。そして「わたしに従ってきなさい」と御声をかけて下さったのです。  そして、最も大切なことは、主イエスに御声をかけられたマタイはすぐに「立ちあがって、イエスに従 った」とあることです。この「立ちあがって(イエスに従う)」という言葉は「(収税所に)すわっている」 という言葉の正反対です。彼は座っていたのを立ち上がったのです。罪の中に座りこみ、浸りきっていた ところから「立ちあがった」のです。それは、あの寝たきりであった「中風の人」が起き上がって床を担 ぎ、家に帰って行ったのと同じ行動です。そしてこの「立ち上がる」も「起き上がる」も、実は死者の復 活を意味する言葉なのです。あの「中風の人」も、このマタイも、罪の中に横たわり、座りこみ、起き上 がることのできない、死んだような状態から、主によってよみがえらせて頂いたのです。新しい生命を与 えられたのです。マタイが弟子になったという出来事は、まさに十字架と復活の主イエスの救いの御業で あり、恵みの奇跡なのです。  今日の御言葉にはもうひとつ、翻訳には現されにくい大切なポイントがあります。「マタイという人が収 税所にすわっているのを見て」というところですが、そこを直訳するとこうなるのです。「収税所に座って いる人間を見た。彼はマタイといった」。つまり主イエスが見つめられたのは「人間」であった。いわば、 私たちがそこに自分の名を当てはめことのできる人間が「収税所」に座っているのをご覧になったのです。 そして最後に、その名は「マタイ」だったと語られています。主イエスが慈しみのまなざしで見つめたも うものは『収税所に座っている人間』なのです。つまり、罪のまっただ中に座りこみ、そこから立ち上が りえないでいる無力な人間を(私たちを)主は見つめて下さるのです。だから、マタイに与えられたこの 救いは、私たち一人びとりに与えられる救いなのです。マタイも含めて、主イエスが見つめられる人間た ちの中に、この私たちがいるからです。  どうか覚えようではありませんか。私たちもそれぞれ、自分の「収税所」に座っている人間なのです。 自分の「罪」の中に座りこみ、立ち上がりえずにいる人間なのです。主イエスはそうした私たちのありの ままの姿にまなざしを留めて下さる。そして私たちに「わたしに従ってきなさい」と御声をかけ、私たち を立ち上がらせて下さるのです。あの寝たきりの「中風の人」を起き上がらせたもうた主の御力が、今こ こに集う私たち一人びとりにも働いています。私たちもまた、主イエスによって癒され、立ち上がり、主 と共に歩む者とされてゆくのです。主の弟子とならせて戴くのです。それこそ「汝の罪ゆるされたり」と 宣言して下さった主イエスの救いの権威です。マタイにも私たちにも、同じことが起るのです。「わたしに 従ってきなさい」との御言葉は「子よ、汝の罪ゆるされたり」という宣言と等しい主の招きの言葉だから です。  ですから、この招きを受けたのはマタイだけではなかったことが、10節以下に語られています。主イエ スを囲む喜びの食事(天国の祝宴)の席に、その他大勢の「取税人や罪人たち」が招かれたのです。それ を見たパリサイ人らが、主イエスの弟子たちに「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を 共にするのか」と言いました。共に食事の席につくことは最も深い交わりの徴であり、この人たちと自分 は仲間であると表明することでした。主イエスは「取税人や罪人たち」をご自分の仲間として招き、受け 入れ、生命を与え、交わりを持って下さるのです。パリサイ人らはそのことで主イエスを非難しました。 主イエスが理解できなかったのです。  パリサイ人は決して悪人ではありません。むしろ一所懸命努力精進して正しい良い人間になろうとして いた人たちです。だからこそ、その自分の正しさにおいて他者を審きました。私たちもあんがい、キリス トではなく自分の正しさに拠り頼み、パリサイ人らに似てくることはないでしょうか。私たちこそ「子よ、 汝の罪ゆるされたり」と宣言して下さる主イエスの御声を、他人事のように聞いて、罪人を招きたもう主 を自分とは無関係に思っていることはないでしょうか。信仰ではなく、自分の正しさ、清さ、努力や経験 が、結局は自分を支えていることはないでしょうか。私たちは、一方では主イエスに招かれた取税人、罪 人と同じでありつつ、他方では実は、このパリサイ人らと同じ人間なのではないでしょうか。それなら今 朝の御言葉は、実は全体で私たちの姿を描き出しています。このようなパリサイ人らの、私たちの思いに 対して、主イエスがお答えになったのが12節以下の御言葉です。「丈夫な人には医者はいらない。いるの は病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んで きなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。  そうです、丈夫な人には医者は必要なく、病人こそ医者を必要とするのです。そして使徒パウロが語る ように、私たちは神の御前には誰ひとりとして「義人」ではありえません。それにもかかわらず、私たち は自分を「義人」とし、神の前に「収税所にすわっている」者であり続けようとするのです。主イエスは 言われます。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。これはマタイの ことです。収税所に座っている人間のことです。私たちのことです。罪の中に座りこんで立ち上がりえな くなっている私たちのことです。そのような私たちのもとにこそ、主イエスは訪ねて来て下さいました。 そして、慈しみのまなざしを注いで下さり、御声をかけて下さり、私たちを招いて、罪の赦しと復活の生 命を与え、そのために、ご自身は十字架への道を歩んで下さったのです。  主は旧約のホセア書6章4節以下を「学びなさい」と言われました。この「学ぶ」とは十字架の主を信 じることです。キリストを告白し、教会に連なって礼拝者として歩む、新しい祝福の人生です。そこに主 イエスの、私たちに対する「招き」があります。「わたしに従ってきなさい」という語りかけがあります。 この招きによって私たちは、それぞれの座っている収税所から立ち上がり、主イエスの弟子とされるので す。あるがままに立ち上がり、主の贖いの恵みに自分を投げかければよいのです。主に従ってゆけばよい のです。あなたはただ、招きを受けて立ち上がればよい、それだけでよいと主は言われるのです。あとは 主が御業を現して下さるのです。祈りましょう。