説     教    詩篇86篇9〜12節   マタイ福音書12章28節

「主よ御国を」

2016・11・13(説教16461669)  私たちはいつも「主の祈り」を献げています。「主の祈り」は我らの主イエス・キリストが「汝らかく祈 れ」と教えて下さった祈りの手本であり、福音の神髄が現された祈りの中の祈りです。この「主の祈り」 は私たちに「御国を来たらせたまえ」と祈る幸いを教えています。この「み国」とは「神の御国」のこと です。「神の御国」(神の永遠の愛と恵みのご支配)が歴史の中に現れるとき、現在の様々な苦しみや悲し み、不幸や争いや分裂や戦争などは全て払拭され、平和な、楽しい、悩みのない、幸いな世界が実現する。 そのような神の「御国」を来たらせたまえ。そのような思いで、私たちはこの祈りを祈るのではないでし ょうか。特に、自分自身が悩みや苦しみや悲しみを抱えている場合は、なおさら切実にそう願わずにおれ ないのです。「み国を来たらせたまえ」という祈りは「私のこの苦しみを取り除いて下さい」という祈りと 重なるのです。地震や津波や台風などの自然災害もあります。多くの人が家を失ったり、生命を落とした り、避難生活を余儀なくされています。「なぜ?」「どうして?」と問わずにおれない状況があるのです。 なおさら私たちは「み国を来たらせたまえ」と真剣に祈るほかないのではないでしょうか。  そこでこそ、なおひとつの問題があります。それは「主よ御国を来たらせたまえ」という祈りはたしか に、今のこの矛盾や不条理を主よ変えて下さい。苦しみ悲しみを取り除いて下さい。理想の世界を実現し て下さい。そういう「祈り」になるのですけれども、それを逆に申しますなら、現在のこの世界、この国 は「神の御国」ではない(神とは無関係な現実である)ということにもなるのではないでしょうか。ある いはこうも言えるでしょう。実は私たちは「み国を来たらせたまえ」と祈る時にさえ、どこかでまだ自分 に頼っているのです。本当にキリストを信じて祈っているのではなく、現実と都合よく折合いをつけ、自 分を納得させようとしているのです。「神の御国」の実現は所詮かなわぬ夢だ、実現するとしても遠い将来 のことだ。そうした思いをどこかで抱いている私たちは、いつのまにか「神の御国」を現実離れしたユー トピアのようなものにしているのではないか。そもそも「ユートピア」という言葉はギリシヤ語で「あり えない場所」という意味です。私たちの日々の祈りは「ありえない場所」に向かう祈りになってはいない でしょうか。  いま端的に申しましょう。「神の御国」は断じて「ユートピア」などではありません。それは人間が追い 求める理想を語った言葉ではないのです。そのことを確かに示すのがマタイ福音書4章17節です。「この 時からイエスは教を宣べはじめて言われた、『悔い改めよ、天国は近づいた』」。ここに主イエスみずから「天 国は近づいた」(神の永遠の恵みのご支配が到来した)と宣言しておられるのです。「神の御国」はいま既 にあなたのもとに来ている。神の永遠の恵みのご支配が、いまここに、あなたと共にあるという福音の告 知です。何によってか?。それは主イエス・キリストが私たちの救いのためにこの世に来られた出来事に よってです。そこで今朝のマタイ伝12章28節を改めて見てみましょう。そこに主イエスは「しかし、わ たしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」 と明確に告げておられます。主イエスは「神の御国」をいまここに、私たちのもとに来たらすために来ら れた神の御子なのです。主イエスの救いの御業によって「神の御国」はいま既に私たちのもとに来ている のです。神の永遠の恵みのご支配が、今も、のちも、永遠までも、私たちと共にあるのです。それが「天 国は近づいた」ということです。それならば「悔い改めよ」という主イエスの御言葉に素直に聴き従う私 たちとならねばなりません。この「悔い改めよ」とは、主イエスの御手に自分を委ねて生きる新しい生活 です。人生の主人が自分ではなく主イエスであることを認めることです。世界の真の「主」が罪と死では なく神の永遠の愛と祝福であることを認めて、真の神を信じて生きることです。だから「悔い改め」と訳 されるギリシヤ語は「立ち帰る」という意味の言葉です。主イエスが私たちと共にいて下さる恵みのゆえ に、私たちは既に「神の御国」に立ち帰る幸いを与えられているのです。  いま申したこととの関連で、現代社会において最も深刻な人間の問題は、実は偶像崇拝の問題です。意 外に思われたでしょうか?。ずいぶん古臭いことを言っているなと思ったかたは、ぜひ次の現実に心を留 めて戴きたいのです。私たち人間は必ず例外なく、何者かに全面的に頼って生きようとしています。自分 を根本的に支えてくれるものを必要とし、それを生命がけで求め、寄り頼もうとして全力を尽くして励ん でいる存在、それが人間です。そのこと自体は間違いではありません。問題は、私たちがそれでは、何に 寄り頼んでいるのかということです。先日アメリカで大統領選挙がありました。「史上最も醜い大統領選 挙」と揶揄されたあの選挙戦において、リパブリカンのトランプ氏が勝利しました。前途多難だという人 もいれば、楽観視している人もいます。とにかく日本中のメディアが「意外だった」と書き立てました。 しかしどのメディアも見落としていることがあります。それはアメリカの大統領選挙を決定づける最大の 要素はキリスト教の保守派、いわゆるコンサバティヴと言われる人たちだということです。このコンサバ ティヴの人たちは、進化論は認めない、妊娠中絶絶対反対、同性愛結婚絶対反対、アメリカは清教徒の国、 いわゆるWASPの基本的価値観を代表するような人たちです。  この人たちにトランプ氏は支持されたのです。これは不思議な現象です。トランプ氏は敬虔なキリスト 者ではなく、むしろ発言からもわかるようにとても世俗的な人です。それなのにコンサバティヴに支持さ れた。逆に言うなら、民主党の人間主義・自由主義的政策に対してキリスト教保守派の人たちが「否=NO」 を投げつけたのです。それで、このたびのアメリカの歴史的選択について、ひとつ大きな懸念があります のは、今回の民主党にしても共和党にしても、ともに民衆に対して大きな偶像を立て上げて、その偶像を 人々に拝ませるような方向性を持っていたのではないか。どういうことかと申しますと、民主党は絶対的 権力を持った人間という偶像。共和党は絶対的権力を持った宗教という偶像を祭り上げ、それを民衆に拝 ませようとしたのではないかということです。いずれにしても、そこには真の神もなければ真の人間も存 在しません。偶像のもとには囚われた人間しか存在しえないからです。私の同級生に森本あんりというICU の教授がおりますが、彼によればアメリカの基本理念は「神の御国の実現」である。それが偶像の支配か ら離れて、全世界を平和と一致に導くグローバル・スタンダードになるためには「主よ御国を来たらせた まえ」という祈りが今まで以上に真実なものにならなければならないのです。  改めて申しますが「神の御国」という言葉の本来の意味は「神の永遠の愛と恵みのご支配」です。神が 永遠の愛と恵みをもって支配しておられる、それが「神の御国」です。それなら(これは大切ですが)悩み や苦しみや矛盾が無いところに「神の御国」があるのではありません。むしろ、私たちが「どうして」「な ぜ」と問わずにはおれない悩みや苦しみや矛盾や不条理のただ中にこそ「神の御国」(神の永遠の愛と恵み のご支配)は私たちと共にあるのではないでしょうか。真の神は矛盾や不条理の現実の中でこそ、私たち を堅く支え、祝福と生命へと、救いへと導いて下さるかたなのです。それだからこそ「神の永遠の愛と恵 みのご支配」なのです。すると、どうなるのでしょうか。私たちが「主よ御国を来たらせたまえ」と祈る ことは、実は私たちが「主よ、人生の(そして世界の)あらゆる矛盾や不条理の中でこそ、あなたの永遠の 愛と恵みが、いつも私を(私たちを)堅く支えて下さいますように」という祈りになるのではないか。その ような祈りにおいてこそ、私たちははじめて偶像崇拝から自由になり、本当の神の僕とされてゆくのでは ないでしょうか。それは「人間が作った神」「人間に奉仕する神」「人間を道具とする神」から「神に造ら れた私たち」「神の僕なる私たち」「かけがえのない唯一のあなた」への転換です。  繰り返し申します。「神の永遠の愛と恵みのご支配」は神の独子イエス・キリストによって、私たちのた だ中に(この歴史と世界の全体に)いま「来ている」のです。主はご自身の来臨と十字架の死と復活と高 挙によってこそ「神の国は近づけり」「神の国は汝らのただ中に在り」と宣言して下さいました。神はキリ ストの十字架の贖いと復活を通してこそ「恵みの永遠のご支配」を確立して下さったのです。主イエスが 私たちのために、私たちの罪を全て引き受けて十字架にかかって死んで下さった、そこに、神の私たちへ の永遠のご支配があるのです。今朝あわせて詩篇86篇9節以下をお読みしました。その12節にこうござ います「わが神、主よ、わたしは心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえに、み名をあがめるでしょう」。 なぜ、ここにイスラエルの詩人は「永遠に御名を崇める」と言うのでしょうか。それは、私たちの救いの ために十字架にかかって下さった主イエス・キリストにこそ、真の神のお姿が(御業が)示されているから です。主なる神は、私たちを高みから睥睨し、私たちを支配しようとしているようなかたではない。真の 神は、私たちの罪と死のどん底にまで降って来て下さったかたなのです。私たちが窺い知ることさえでき なかった私たちの罪のどん底にまで、主は降って来て下さり、そこで私たちの全存在を下から、根底から 支え、救いへと引き上げて下さったかたなのです。それが十字架の主イエス・キリストにおける神の義で す。ルターが発見した「救いの賜物としての神の義」です。その「神の義」(神の永遠の愛と恵みのご支配 =神の御国)は、私たちの日々の生活のただ中に、いまあなたのもとに、来ているではないか。あなたの全 存在を根底から支え、御国の祝福と生命へと導く「神の義」そのものではないか。それが十字架と復活の 主イエス・キリストによって、永遠に変わることなくあなたと共にあるではないか。その恵みをはっきり と、主イエスご自身が告げていて下さるのです。だからこそ主は言われました。ルカ福音書17章21節で す。「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。  神の永遠の愛と恵みのご支配は、いま、あなたのために、主イエス・キリストによって無償で差し出さ れています。私たちは、手を伸ばしてそれを戴けばよいのです。それを戴くのに何の資格も条件もいりま せん。ルカ福音書19章1節以下に取税人ザアカイの救いの出来事が記されています。取税人ザアカイには エリコの町で誰ひとり友はいませんでした。しかし主イエスだけが孤独なザアカイを見つめて「ザアカイ よ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と言われたのです。主イ エスのほうから彼に語りかけ、彼の家の客、彼の友となって下さった。ザアカイはこの主イエスによって 生まれ変わりました。主イエスの弟子になったのです。主イエスは「今日、救いがこの家にきた」と言わ れました。それはザアカイのもとに「神の御国」が来たということです。神の恵みのご支配の中に新たに 生きる僕とされたことです。このように「神の御国」とは、相応しくない私たちのもとに、ただキリスト のご訪問によって来るものなのです。だから、自分の悩みや苦しみが解決されなければ「神の御国」はな いということではないのです。神の独子が私たちのために苦しみと死を引き受けて下さった、そこに「神 の御国」は確かに現れているのです。  その「神の御国」に生きる私たちは、悩みや苦しみや悲しみの中でこそ、主イエス・キリストが確かに 共にいて下さり、その悲しみ苦しむ自分を、永遠の愛の御手の内に支えていて下さることを信じることが できるのです。主イエスご自身が、十字架の上でそのことをお示し下さったのです。まさに神のご支配は、 十字架の主イエス・キリストにおいて実現しているのです。私たちは様々な問題を抱え、無力さを嘆くこ の世の生活においてこそ「神の御国」の民とされているのです。この世の悩みや苦しみから抜け出したか ら「御国の民」なのではなく、そのただ中でこそいま「御国の民」とされ、神の恵みに支えられて歩むの です。そればかりではありません。主イエス・キリストによって「神の御国」をもたらして下さる神の御 業は完成の日を約束されています。主イエスの十字架の死と復活によって決定的なものになった「神の御 国」の到来は、復活して天に昇られた主イエスがもういちど来られ、それによって救いの御業が全世界に 完成する「終わりの時」にまで至るのです。  「神の御国」は今はまだ目に見えない、信仰によって受け入れる事柄ですが、主イエスの再臨の時には、 私たちは「顔と顔とを相合わせて見るごとく」神の恵みのご支配が完全に現された世界を見る喜びを約束 されています。そして「神の御国」の死に対する勝利も完成するのです。恵みにより、教会によって、キ リストに結ばれた者は、死の力から解放されて復活の生命と身体を与えられ、私たちに先立って「初穂」 として復活されたキリストの似姿にあやかり、もはや死に支配されることのない永遠の生命を生きる者と されるのです。主イエスの復活はその約束の保証です。それゆえ「御国を来たらせたまえ」という祈りは、 この主イエスの再臨による神の国の完成を待ち望み、それを一日も早く来たらせて下さるようにと願う「祈 り」でもあります。そういう意味でこの「祈り」は、将来に向かう“希望の祈り”でもあるのです。その 希望は「決して失望に終る事はない」真の希望です。「汝らかく祈れ」と「主の祈り」を教えて下さった主 イエスは、ご自分の生命を献げて、この祈りが必ず実現されることの、確固たる保証となって下さったの です。