説    教  出エジプト記14章10〜14節  第一コリント書10章13節

「神は微睡たまわず」

2016・11・06(説教16451668)  今朝、拝読した出エジプト記14章には、旧約聖書の時代を生きたイスラエルの民の“筆舌に尽くし がたい辛さ”と同時に、その民を贖い救いたもう主なる神の恵みの確かさが告げられています。出エジ プトという旧約聖書最大の救いの出来事を前に、イスラエルの人々は圧倒的な不安に打ちひしがれてい ました。それは10節を読むとよくわかりますが、エジプトの王パロ(ファラオ)が大軍を引き連れて、荒 野に逃げようとするイスラエルの民を追撃してくるのです。追いつかれれば皆殺しになるのです。えり 抜きの戦車六百台をしたがえ、重武装に身を固めたエジプト正規軍にとって、女性や子供たちを含めた イスラエルの民を砂漠で皆殺しにすることなど、いとたやすいことでした。  ですから10節に「イスラエルの人々は…非常に恐れた」とあるのは当然なのです。彼らが「主に向 かって叫んだ」のも当然でした。この「叫んだ」とは、絶体絶命の民が喉の奥から搾り出す「呻きのよ うな大声」をあげて祈ったということです。人々の必死の祈りの声が、百雷の如く大地を揺るがしたの です。それは凄まじい光景でした。もの凄い声を上げて人々は祈った。そして11節以下には、そうし た絶体絶命の危機に立たされた人々の、指導者モーセに対する怨嗟の声が記されています。「エジプトに 墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプト から導き出して、こんなにするのですか」。この「なぜ…こんなにするのですか」とは「どうしてこんな に酷い目に遭わせるのか」という意味です。  私たちもまた、さまざまな人生の不条理、苦しいことや悲しい出来事に遭遇したとき、そのような必 死の「叫び」を、呻きのような祈りを、心の中に持つのではないでしょうか。不条理の中での祈りはも はや言葉ではなく「呻き」になります。山室軍平という人がある説教の中で「キリストの馬鹿たれ」と 語った。病気の子供を持つ一人の婦人がそれを聞き違えて「キリストのばかたれ」と祈ることだと理解 しました。その婦人を笑ったある人に山室軍平は言ったそうです。「彼女を笑うなかれ。キリストのばか たれと祈りうることこそ、彼女が本当の神を(真の救いを)求めている証拠ではないか」。私たちの祈りも また、人生の様々な危機の中でこそ、より真の神の御心にかなう本物の祈りになるのではないでしょう か。  出エジプト記12章38節によれば、エジプトを脱出したイスラエルの民は「多くの入り混じった群集」 にすぎなかったと記されています。最近の新しい研究によりますと、民数記11章4節の「多くの寄り 集まりびと」という言葉と併せて、出エジプトを敢行したイスラエルの民は決して単一民族などではな かった。むしろ文字どおり種々様々な民族の寄せ集まりであったと考えられています。それならば、そ ういう“寄合所帯”であったイスラエルの民は、出エジプトという「叫び」で地を揺るがすような経験 を通して、はじめて「祈り」においてひとつの群れとされ、真の神の救いの恵みのもとに集う「イスラ エル」(神の永遠の恵みのご支配)とされたのです。雑多な民がイスラエル(神の家)となった瞬間が、 今日の御言葉には描かれているのです。  さて、今朝の御言葉の14章19節以下を見て参りましょう。それこそ「必死の祈り」に導かれた人々、 最大の危機を経験したイスラエルの民は、神の大いなる救いの御業を経験してゆくのです。真の神の救 いの御業を私たちは見るのです。そこでは2つのことが起こったのです。第一に、同じ出エジプト記12 章40から42節、特に42節後半のところに「これは(出エジプトの出来事は)彼らをエジプトの国か ら導き出すために主が寝ずの番をされた夜であった」とあることです。言い換えるなら「神の徹夜」が そこにあったということです。これは「微睡たまわぬ神の真実」が全ての人々と共にあった出来事です。 それが「救い」なのです。今朝の説教題で言いますならば「神は微睡たまわず」です。それこそが私た ちの救いの出来事なのです。  みなさんは徹夜をなさったことがあると思います。全く眠らず丸一日を過ごした後は、ふらふらの状 態になるのではないでしょうか?。最近はあまりしませんが私は以前はよく徹夜で説教準備をしました。 ニカイア公会議で2日2晩の弁論をしたアタナシウスのことを思い、アタナシウスは本当に凄いと思い ました。徹夜して説教壇に立ちますと足元がふらつくのです。もちろん主なる神は永遠なる全能者であ られますから、私たちのように疲れたから睡眠を必要とするなどということはありません。では「神の 徹夜」とは何を意味するかと申しますと、取るに足らぬ烏合の衆であったイスラエルの民を、主なる神 が極みまでも愛してこれを救いたもうた恵みの事実。その恵みの事実こそが「神は微睡たまわず」とい う出来事に現れているのです。  私の友人、いま四国は高松の教会におりますが、彼の子供がまだ幼かった頃、小児喘息のために友人 夫妻はしばしば「寝ずの番」でその子に寄り添いました。私の友人が普通の人と違いますのは、牧師で あるせいもありますが、あるとき私にこう語ったのです。「親というのは実に無力な情けないものだ。わ が子が病気で苦しんでいるというのに、気がつくと微睡んでしまっている。眠りかけてはハッと目が覚 める。聖書が語る『微睡たまわぬ神』というのは、実に驚くべき救い主だよ」。親でさえ、たとえ一瞬で あっても、微睡んでいる間はわが子から意識が離れている。しかしイスラエルの主なる真の神は、その 一瞬の微睡さえもなく私たちを愛しお守り下さる神なのです。そういうことを考えますとき、私たちは イスラエルの民が絶体絶命の砂漠の危機の中で「神の徹夜」を自らの「救い」として告白したというこ と、そのような神のお姿を「われらの救い」として“信じた”ことがどんなに凄いことかわかるのでは ないでしょうか。実に聖書が私たちに語る真の神(イエス・キリストの父なる神)は「微睡たまわぬ神」 なのです。  新約聖書においても、主イエス・キリストが“徹夜して祈られた”という場面が2度出て参ります1 度目は十二弟子をお選びになる前の晩のことです。主はひとり山に入られて夜を徹して祈られ、その祈 りによって12人を弟子としてお選びになったのでした。それはルカ伝6章12節以下に「このころ、イ エスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中か ら十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった」とあるとおりです。第2の場面は、あの 有名なゲツセマネの祈りです。十字架のご苦難を目前にせられ、主は全世界の救いのためにゲツセマネ において血の汗を流して祈りたまい、ご自身の全てを御父にお委ねになり、全世界の罪の贖いのためご 自身を献げたまいました。弟子たちはみな疲れて眠っていましたが、主は最後まで「世にあるすべての 者を愛され、彼らを最後まで愛し通された」のです。聖書の神はまことに「微睡たまわぬ神」です。詩 篇121篇3節にもこうあります。「主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者は まどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない」。私たちはそ こに、イスラエルをエジプト人から救われた歴史の主なる神の御業と同時に、十二弟子を選びたもうた主イ エスのお姿、そして、ゲツセマネにおいて全てを献げぬいて下さった主イエスのお姿を見るのです。  そこで、今朝の御言葉が私たちに宣べ伝えている神の御業の第2の側面は、今朝の御言葉の13節後半から 14節に告げられていることです。「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがた のためになされる救いを見なさい」。14節は「主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙してい なさい」とあります。これは言い換えるなら、人生においていつも危機的状況にある私たちの「救い」のため に、まず主なる神ご自身が「わたしたちのために戦って下さる」という事実です。私たちの救いは私たちの中 にあるのではない。むしろ「主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」と言われ ているのです。この「黙していなさい」とは「傍観していなさい」という意味ではなく「ただ神のみを信頼し て立ちなさい」ということです。神に信頼していないとき、私たちは途端にバベルの塔を築き始めるのです。 人の言葉のみが空回りするのです。目標のない戦いをめいめい勝手に始めるのです。そうではなく、主があな たがたのために戦われるゆえに「ただ神の御を信頼して立ちなさい」と聖書は私たちに告げるのです。  神が私たちのために「戦われる」とは、十字架の主イエス・キリストにおいて現された唯一永遠の救いの御 業をさしています。御父と「同質」なるイエス・キリストが、私たち罪人のかしらなる者の救いのために十字 架におかかりになり、罪と死に永遠に勝利され、この全世界を神の愛と祝福の支配のもとに回復して下さった ことです。それこそ私たちはパウロの言う「勝ち得て余りある」キリストの「絶大な勝利」を賜わっている群 れなのです。このことを忘れるとき、十字架の主を信ずる信仰告白から離れるとき、私たちはすぐに「黙して いなさい」との恵みを忘れ、虚しいバベルの塔の建設者になります。現代社会を支配している言葉(価値観) の殆どが、実はこうした虚しいわざになっているのではないでしょうか。  このことは同時に、実は私たちが歴史を(時を)どう捉えているかという、人生そのものに関わる大きな問 題に繋がっています。ある国語学者によれば、日本語の「とき」とは本来「とけ」つまり「氷が溶けて春が来 る」という自然現象をあらわす言葉です。つまり日本人にとって「とき」は自然の一部分であり、聖書の元の ギリシヤ語で言いますなら、単なるクロノスであってカイロスではないのです。自然的な時間の流れはあって も、永遠に繋がる「神の時」はないのです。歴史形成の原動力にはなりえないのです。歴史の救済者なる神を 見失うとき、私たちは歴史そのものの意味を見失うのです。そのような私たちに聖書は「神は微睡たまわず」 という救いの出来事を告げます。歴史を救いの完成へと導く神の御業を告げています。そしてその主なる神は 歴史において「私たちのために戦われる神」です。神が切り開いてゆかれる「救いの時」(カイロス)に私たち は生きる僕とされている。その意味でこそ真の神は歴史の唯一の主であられ、私たちの歴史を導き、私たちの ために歴史のただ中に救いの御業をなされ、新しい「救いの時」を与えて下さるかたなのです。たとえ私たち がどんなに自分に絶望しようとも、またこの歴史がどんなに暗い力に支配されているように見えましょうとも、 神は私たちのためにいま活きて働きたまい、歴史と私たちの人生の全体を通して、私たちに救いと祝福を与え たまい、永遠の御国へと力強く導いておられるのです。  生まれながらに目が不自由であった人について、弟子たちが「誰が罪をおかしたために、この人はこんなに なったのですか」と問うたとき、主イエスは答えて言われました。「この人が罪をおかしたためでも、またこ の人の両親がおかしたためでもない。ただ彼の上に神の御業があらわれるためである」と。そして彼のまなざ しとともに、弟子たちのまなざしをも開いて下さったのです。これが私たちに与えられている「救いの告知」 でもあります。「ただあなたの上に神の御業があらわれるため」ただそのために、主は私たちの罪を、全存在 を、十字架において贖い救って下さったのです。そこに「神は微睡たまわず」という旧約全体を貫く福音のメ ッセージが重なります。私たちの真の神は「眠ることも微睡たもうこともなく」私たちを極みまでも愛し、祝 福し、贖い、救って下さる神なのです。  だからこそ、私たちは、どんなに苦しい時にも、辛い時にも、呻きのような祈りを献げる時にも、否、その ような経験の中でこそ、そこで私たちを根底から支え、祝福と生命を与えて下さる「微睡たまわぬ神」の真実 を見いだすのです。私たちの死すべき存在を、十字架において贖って下さった御子イエス・キリストを信じ、 主と共に歩む僕とされているのです。主イエスがすでに復活の生命をもって、私たちに新たな生命を与えて下 さった。教会によって全ての人々を、その祝福の生命へと招いておられる。その生命に結ばれて、いまここに 活きる私たちは「微睡たまわぬ神」に守り支えられている。キリストみずから私たちのために、十字架の死を 通して「勝利して下さった」恵みに信頼して、私たちは「黙している」ことができる。「ただ神のみを信頼し て立ち続ける」者とされている。私たちの人生の全体を、そしてこの世界の全体を、神の祝福として受け、隣 人にも祝福を告げる僕とされているのです。祈りましょう。