説    教    詩篇62篇5〜7節  ヨハネ福音書12章42〜43節

「恵みの御手」

 2016・10・30(説教16441667)  ヨハネによる福音書が書かれたおよそ1900年前、これがいったい何に書かれたかと申しますと、現 代のような紙ではなくパピルスという植物の皮に書かれました。一枚一枚はかなり大きいものですが、 それを重ねて束にしたものが元々のヨハネ伝の形であったわけです。そこで、この束をほぐして読んで、 再び束に直したとき、ページの順番が入れ替わってしまうことがありました。実は今朝お読みしたヨハ ネ伝12章42節と43節も、本来は13章の前に来る御言葉であったと考えられています。それが何かの 理由によって、先に来るべき44節から50節が43節の後になってしまった。本当は今朝の御言葉は50 節に続くものであったのです。主イエスがエルサレム神殿の中庭において50節までの御言葉を全て語 り終えられた後に、今朝の42節と43節の出来事が起こったのです。それが本来のヨハネ伝の形であっ たと考えられています。  そういたしますと、今朝の御言葉が現している私たち人間のありのままの姿というものがより明らか になるのではないでしょうか。それは、私たちは主イエスの御口から、懇切丁寧に神の御言葉を戴いた 後にさえも、なお聴くべき御言葉を少しも聴いてはおらず、少しも理解しておらず、ましてや信じて生 きる神の僕にもなってはいない、そういう私たちの姿がここに現されているからです。何よりも今朝の 御言葉を改めて読むとよくわかります。42節43節です。「役人たちの中にもイエスを信じた者が多かっ たが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。 彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである」。  ここで「役人たち」というのはユダヤ人の政治的指導者たち、国の政治を司る人たちのことです。今 日流に言うなら、大臣、閣僚、国会議員のことです。主イエスの時代のイスラエルでは、国の最高決議 機関(つまり国会)を“七十人議会”(サンヒドリン)と呼びました。同じヨハネ伝8章3節に「律法学 者やパリサイ人たち」という言葉が出て参りますが、これが具体的な“七十人議会”の構成人員です。 「律法学者」とはサドカイ人のことをさしています。つまり当時の議会の中にはパリサイ派とサドカイ派 という二大政党があったわけです。ですから「役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かった」とあ るのは、このパリサイ派やサドカイ派の議員らの中にも、主イエスを密かに信ずる者が少なくなかった ということです。そのこと自体なんら問題はありません。むしろ私たちは意外な思いさえ抱きます。特 に「パリサイ人」というと、何かにつけて主イエスに敵意を抱き、主イエスの足を引っ張っていた連中 です。その人々の中にさえ、主イエスを信ずる者が少なくなかったというのです。  問題は、その議員たちでさえも「パリサイ人をはばかって、告白はしなかった」という事実にありま す。彼らは密かに心の中で主イエスを神の子だと信じてはいたけれども、仲間うちの評判を憚り体面を 慮って、決してその信仰を公に口に表そうとはしなかったのです。つまり「仲間はずれ」になることを 恐れたのです。それが「会堂から追い出されるのを恐れていた」と記されていることです。この「会堂」 とは“シナゴーグ”と呼ばれるユダヤ教の会堂のことです。私たちキリスト教会の礼拝堂とは違ってユ ダヤ教の会堂では誰がどこに座るか席が決められています。社会的に地位がある人、いわゆる“偉い人” から順番に座ることができるのです。私は30年ぐらい前に東京の西麻布にあるユダヤ教の会堂を訪ね たことがあります。当時のラビはトケイヤーという世界的なユダヤ教の律法学者で、私はこの人に会っ ていろいろ話を聞くことができました。ラビ・トケイヤーが私を会堂に案内してくれましたが、どの席 にも真鍮の名札が付いていて、イスラエル大使館の大使とか、政府の高官とか、地位の高い人から順番 に席順が決められていました。今日の御言葉においても「役人」たちは、自分たちがそのような「会堂 の上席」「権威ある席」から追い出されるのを「恐れた」のです。主イエスを神の子と信ずる信仰があっ ても、それを公に口にして会堂内の社会的地位を失うことを恐れるあまり「告白はしなかった」のです。 それが「パリサイ人をはばかって、告白はしなかった」ということです。「彼らは神のほまれよりも、人 のほまれを好んだからである」。  すると、どういうことになるのでしょうか。彼らはたとえ心の中で主イエスを信じていたとしても「神 のほまれよりも、人のほまれを好ん」でキリスト告白をしなかったのですから、それは「信じていない」 ことと同じなのではないでしょうか。つまり彼らにとっては、救い主イエス・キリストではなく、社会 的な地位や権威こそが「主」であった。地位や権威を捨ててキリストに従うよりも、キリストを捨てて 地位や権威を保つことを選んだのです。「神のほまれ」とは神から来る栄光です。しかし彼らは神から来 る栄光ではなく、人から来る栄光を「好んだ」のです。この「好んだ」とは「愛した」という意味の言 葉です。つまり彼らは神を愛していたのではなく、人から与えられる名誉を愛していた。それを失うこ とよりも、キリストを捨てて、会堂の中に仲間と共に、名誉ある席に留まることを選んだのです。  さて、そこで私たちのことです。私たちは国会議員でもなく、ユダヤ教の会堂に属する者でもないか ら、今朝の御言葉の「役人たち」とは無関係なのでしょうか?。そうではないと思うのです。ここには 紛れもなく私たち自身の姿が描かれているのではないでしょうか。私たちもまた、主イエスを心の中で 「密かに」信ずるのみで、口で告白し信仰を「公にする」ことを憚っていることが少なくないのではな いでしょうか。ためしに今朝の御言葉の「会堂」を、地域社会、隣近所、職場の仲間たち、趣味の仲間、 友人たち、家族や親戚、その他あらゆる人間関係に当てはめればわかるのです。私たちもまた、自分を 取り巻くあらゆる人間関係の中で、主イエスの御名を告白することを「はばかって」いることはないで しょうか。自分がキリスト者であるという事実を、人生において最も大切な事柄を、自分に接する全て の人がみな知っているでしょうか?。そう問われるとき、口ごもらない私たちでいられるでしょうか。  むしろ、私たちこそ今朝の御言葉の「役人たち」と同じなのではないか。彼らの姿こそ私たちの姿な のではないか。私たちこそ「神のほまれよりも、人のほまれを好んで」いるのではないか。それこそ「人 からの誉」を失うことを恐れて、キリストへの信仰を隠していることはないか。“隠れキリシタン”なら ぬ“隠れキリスト者”になっていることはないでしょうか。それは言い換えるなら、信仰が自分の利益 であるうちはキリストから離れないけれど、いったん自分の不利益になるや否や、すぐにキリストから 離れてしまうことに繋がります。クリスチャンであることが「人からの誉」であるうちはキリストに従 うけれども、ひとたび信仰が「人からの誉」を得られないものになるとき、私たちはそれを「恐れて」 キリスト告白を隠すことがないでしょうか。「キリスト者であることを黙っていよう」という思いを心に 抱くのではないでしょうか。それこそ「パリサイ人をはばかって、告白はしなかった」「役人たち」と同 じなのではないでしょうか。  使徒パウロは「わたしは福音を恥としない」と語りました。ローマ書1章16節です。パウロが敢え てこう語った背景は、当時のローマ教会に「福音を恥とする」人々が大勢いたからです。もし私たちが 「あなたは福音を恥としますか?」と問われたなら、たぶん全ての人が「いいえ」と答えるでしょう。 しかし「福音を恥とする」とは「キリストを恥とする」ということではなく「キリストを信じる自分の 信仰を、世間の人たちに隠したいと思う」ことです。それならば、私たちもまた「福音を恥としている」 ことが多々あるのではないか。試みにひとつのことを問うてみたいのです。自分の隣近所に住む人に、 文字通りの「あなたの隣人」に、伝道をしたことがあるでしょうか?。隣人を一度でも教会に誘ったこ とがあるでしょうか?。それよりも私たちは「人からの誉」を重んじるあまり、キリストの福音を「恥 とし」「隠している」ことはないでしょうか。ローマの教会にそういう思いが蔓延したゆえに、パウロは 「わたしは福音を恥としない」と語らざるをえませんでした。「わたしは福音を恥としない。それは、ユ ダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」。私たちが「福音を 恥としている」のは、言い換えるなら、福音が「すべて信じる者に、救を得させる神の力である」と本 気で信じてはいないからではないでしょうか。  キリスト無しでも人間は賢く立派に生きてゆける。神を信じなくても良い正しい人間はたくさんいる。 私たちは心のどこかでそう思っているのではないか。たしかに、キリスト無しでも人間は賢く良く生き ることは可能です。しかし、いかに人間の賢さや正しさを積み上げても、それで罪と死の支配から救わ れて御国の民となることはできません。人の前にいかに正しく生きうる人も、真の神の御前に、永遠に 朽ちず汚れぬキリストの義を身に纏うことはできません。キリストの御身体なる教会に連なることなく して、生にも死にも変わることなき唯一の慰め。贖われ、赦され、救われた聖徒らの幸いに生きること はできません。何よりも私たちは「福音を恥とする」とき、実は私たちのために十字架にかかって下さ ったキリストの贖いの恵みを「恥としている」のです。そのとき私たちは「十字架につけよ」と罵り叫 んだ群衆の一人として生きています。十字架のかたわらで「まことにこの人は神の子であった」と告白 したあの百卒長と共にいるのではないのです。  私たちはヘブル書11章16節に「神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった」とある ことをしっかりと心に留めましょう。主なる神は、罪人のかしらなる私たちに、はっきりと宣言して下 さいます。「わたしはあなたを恥としない」と!。それは、神は私たちを、その罪も咎もあるがままに、 御子イエスにおいて、極みまでも愛して下さったからです。何の値もなき罪人なる私たちを、御子イエ スを賜わったほどに限りなく愛して下さったからです。私たちの罪の救いのために、ご自身の全てを献 げて下さったからです。だからこそ「神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった」ので す。それどころか、私たちが「アバ、父よ」と祈ることを、何にもまして大きな喜びとして下さるので す。私たちをあるがままに「わが子よ」と呼んで下さるのです。だからこそ、もはや私たちは、世を、 人の目を、人からの誉を「恐れる」必要はないのです。それを「はばかって」「福音を恥とする」者であ る必要はないのです。私たちの喜びと幸いはガラテヤ書1章10節に明確に記されています。「今わたし は、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心 を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリスト の僕ではあるまい」。  いま私たちは、誰の僕としてこの教会に連なり、世に遣わされようとしているのでしょうか。それは 「イエス・キリストの僕」です。私たちの測り知れない罪は、キリストが全て贖い取って下さったので す。それならば、私たちはいつもただ十字架の主のみを仰ぎ、健やかに立つ者とされているのです。「福 音を恥とする」心を十字架の主の恵みの御手に委ねてしまいましょう。十字架の主の福音こそ、私たち の永遠の誇りであり、喜びであり、幸いです。キリストの恵みを誇る私たちは、誰に対しても憚ること なく、恐れることなく、キリストにある幸いと祝福を言い表すことができるのです。「人からの誉れ」は もはや私たちの人生の目的ではありえない。「神からの誉れ」すなわち「イエス・キリストにおける神か らの義」こそが私たちの代わらぬ喜びであり誇りなのです。この「神の誉」の「誉れ」という字はギリ シヤ語で「ドクサ」です。これはヨハネ伝ではキリストの十字架のことをあらわしています。それなら ば「神からの誉れ」に生きる生活とは、十字架の主イエス・キリストの恵みの御手に自分を委ねる新し い生活です。礼拝者たる生活です。そこに、私たちの変わらぬ生命があり、慰めがあり、平安があり、 勇気と希望があることを覚えます。祈りましょう。