説     教   列王記下4章42〜44節  マルコ福音書8章1〜21節

「主が与えたもう糧」

2016・10・23(説教16431666)  主イエス・キリストが行なわれた奇跡の中で最も印象ぶかいもののひとつは、主が何千人もの人々に 食物を与え養いたもうた、いわゆる「給食の奇跡」の出来事です。今朝お読みしたマルコ伝には6章30 節以下と8章1節以下の2箇所にこの「給食の奇跡」が記されています。その2つの場面に共通するこ とは、それが共にガリラヤ湖畔のデカポリス地方で行われた奇跡であったことです。主イエスの時代、 ガリラヤ湖の東側・デカポリス地方は人の住まない淋しい場所でした。湖の岸の断崖には昔の墓場跡の 洞窟などが点在していました。そのような寂しい場所で、主は救いの御業を現して下さったのです。  主イエスは私たちの魂の大通りだけではなく、淋しく見捨てられた「辺境地帯」をもお訪ね下さるか たなのです。私たちが健康で充実した時だけではなく、様々な病気に苦しみ、挫折や失敗を経験し、疲 れて失望している時にこそ、主は私たちと共にいて下さり、生命の糧を与えて下さるのです。マルコ伝 もマタイ伝も「五千人」と「四千人」という人数の違いこそあれ、内容においてはほぼ同じこの2つの 奇跡を少しの省略もなく丁寧に書き記しています。それは既に初代教会の人々が礼拝のたびごとに、こ の「給食の奇跡」の出来事をいかに深く心にとめていたかを示すものです。何よりも主イエスご自身、 私たちとの食事を大きな「喜び」として下さいました。  「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて救うためである」と主は明確に宣言し て下さいました。あの取税人ザアカイの物語においても、主は食卓において永遠の救いの御業を現わし たまいました。失われていた者が見いだされ、死んでいた者が復活の生命にあずかったのは、主が共に 囲んで下さった食卓においてでした。十字架の後エマオへの道を急ぐ2人の弟子にお姿を現わして下さ ったのも、夕べの食卓での出来事でした。そして主の復活の証人となった弟子たちに、主はしばしばご 自身を現わしたまい、そこでも食卓を共にして下さいました。主イエスと共に食卓を囲むことは、主イ エスに贖われ、主イエスの賜わる糧に共にあずかり、主イエスと共に生きる教会の交わり(聖徒の交わり) の姿を現しているのです。  カール・バルトという神学者は、礼拝堂には一個のテーブルと人数分の椅子があれば十分であると語 っています。いささか極論のようですが、復活の主の証人となった弟子たちが最初に整えた初代教会の 礼拝において、礼拝堂の中心に置かれたのはまさに聖餐の食卓(一個のテーブル)のみ。椅子さえなかっ たのです。そこから聖書(神の言葉) が朗読され、説教(御言葉の解き明かし)がなされ、そしてパンと葡 萄酒(主の御身体と御血潮)にあずかったのです。私たちの礼拝堂は幸いなことに八角形ですが、初代教 会においても全会衆が主の食卓を取り囲んで「生命の御糧」なる神の御言葉にあずかりました。そして 初代教会の人々が「主の食卓」を囲んで喜びと感謝の礼拝を献げたとき、その中にはかつてデカポリス における「給食の奇跡」を経験した人たちが幾人もいたに違いありません。それらの人々はそれこそ何 度でも、主の御手から親しく生命のパンを戴いたあの日のことを生き生きと語ったに違いないのです。 そして主の十二弟子たちは、聖餐の食卓に仕える喜びの中で、かつて主の御手から配るようにと委ねら れたパンや魚の感触を、感謝と共に思い起こしたことでありましょう。  私たちが礼拝で聖餐にあずかるとき、聖餐制定の御言葉として第一コリント書11章23節以下を朗読 します。「主イエス渡されたまふ夜、パンを取り、祝してこれを裂き、しかして言ひたまふ。これは汝ら のためのわが身体なり。わが記念としてこれを行なへ」。今朝のマルコ伝8章6節にもこれとほぼ同じ 御言葉があります。「そして七つのパンを取り、感謝してこれをさき、人々に配るように弟子たちに渡さ れると、弟子たちはそれを群集に配った」。ここに改めて示されている幸いは、私たちが教会において共 にあずかる御言葉の生命の糧は、主イエスご自身が祝福し与えていて下さるものだという事実です。そ してその祝福の基こそ、主が私たちの罪のために担われた十字架にほかならないのです。  主イエスは何よりも、ご自身みずからを十字架において「贖いの犠牲」として献げ尽くされることに よって、ご自身そのものを、私たちの受くべき「生命のパン」としてお与えになったのです。聖餐にお いて配られるパンは、私たちのために裂かれた主の御身体。配られるぶどう酒は、私たちのために流さ れし主の御血潮です。私たちがそこで戴く「生命の糧」は、主の厳かな十字架の贖い(神の傷ましき手続 き)に裏付けられているのです。僅かに7つのパンで大勢の人々の空腹を満たした、というだけの出来事 ではないのです。何よりもそれは、この奇跡の出来事に接する私たち一人びとりへの主イエスからの問 いかけなのです。主は弟子たち一人びとりに問いたまいます。今朝の御言葉を最後の21節まで読むと はっきりわかります。この中で主は繰返し「なぜ悟らないのか」と問うておられる。特に最後の21節 を見ると「まだ悟らないのか」という鋭い問いになっています。弟子たちにとって、まことに厳しい思 い出が結びついている出来事、それがこの「給食の奇跡」なのです。  そこで、改めてマルコ伝を顧みて参りますと、既に4章において主イエスは「神の国の譬」を弟子た ちに説き明かされました。「種まきの譬」と呼ばれる譬です。その11節で主は弟子たちにこう言われま した。「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。 それは、彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない ためである」。ここにも「聞くには聞くが、悟らない」という言葉が出てきます。これが今朝の8章17 節に繋がるのです「…まだわからないのか。悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか」。キ リストを信じ、従っているはずの私たちもまた、いつの間にかパリサイ人やヘロデの仲間と同じように、 御言葉を「悟らない」者になってはいないでしょうか。18節にはこう続きます「目があっても見えない のか。耳があっても聞こえないのか。また思い出さないのか」。  いったい弟子たちは、何を見損ねていたのでしょうか。何を聴き損ねていたのでしょうか。先ほどこ のマルコ伝の6章と8章の「給食の奇跡」はほとんど同じ御言葉だと申しました。しかし丁寧に読んで みますと、実は今朝の8章においては主イエスの側からの恵みの行動が強調されています。主は弟子た ちを「みもと」に呼び寄せて語りかけたまい、食物が無いままに荒野の中で弱り果てた群集を限りなく 憐れみたまい、弟子たちに「この群集がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何 も食べるものがない。もし、彼らを空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱りきってしまうであろう」 と言われました。主はここではっきりと、飢えた群集を「かわいそうである」と言われました。文語訳 の聖書では「我この群集を憐れむ」となっています。ギリシヤ語ではスプランクニゾマイという動詞で す。これは十字架の御苦難と死と葬りに結びついている言葉です。まことに主イエスは「大勢の群集を ご覧になって、飼う者のない羊の群れのような、その有様を深く憐れまれ」たもうた。それゆえに、あ の十字架の御苦難と死と葬りとをもって、私たちを罪と死から贖い、御国の民となして下さったのです。 既に主イエスの宣教の御業そのものが「大いなる憐れみの現われ」でした。  旧約のイザヤ書やエレミヤ書でも「憐れみ」とは、愛する者の滅びをわが身に引き受けることを意味 します。失われた者を見いだすために、死せる者を甦らせるために、自分の存在の全てを注ぎ尽くすこ と、それを聖書では「憐れみ」と呼ぶのです。あのルカ伝10章25節以下の「よきサマリヤ人の譬」の 中でも、傷つき、倒れ、死に瀕したユダヤ人(敵でしかなかった罪者)を救うために、一人のサマリヤ人 が「憐れに思って近づき」その人に救いの手を差し伸べたのです。このサマリヤ人の姿こそ、主イエス・ キリストの十字架の愛と憐れみを語るものです。その主の「憐れみ」が歴史の中に受肉と十字架を通し て現わされたとき、そこに私たちの「救い」という奇跡が起こるのです。神から離れ、失われていた私 たちが見いだされ、復活の主の生命を戴いた者として、新しい慰めと希望と平安の人生がそこに始まる のです。主は私たちを空腹のまま帰らせたまわない。ご自身の生命そのものを私たちの「生命の糧」と して与え尽くして下さるのです。そのためにこそ、弟子たちを(私たちの教会を)御業のためにお遣わし になるのです。主の大いなる「憐れみ」に仕える僕として。  弟子たちから見れば、自分たちが持っているものは「七つのパン」にすぎませんでした。飢えた大群 衆を前にそれが何の役に立つかと思ったことでした。言い換えるなら、弟子たちは、主イエスの約束、 主イエスの憐れみ、主イエスの御言葉よりも、自分たちの価値判断と経験を優先させたのでした。彼ら は自分たちの乏しさと周囲の不利な状況のみに囚われ、諦め、絶望し、不平不満をつぶやくのです。十 字架の贖いの主が、復活の勝利の主が、共にいて下さる恵みを見失ってしまうのです。自分たちの力だ けに頼り、主の御力に頼もうとはしないのです。「まだ悟らないのか」と主が厳しく問われるのはそのた めです。そこでこそ、この弟子たちの姿は私たち自身の姿でもあるのではないでしょうか。私たちもま た、御言葉を聴き続ける礼拝者の生活の中で、いつの間にか主の御力を侮り、自分の現実はこれこれこ うで、こんなに乏しいと、不平不満のみを語りはじめることがないでしょうか。キリストが主であられ ることを忘れてしまう私たちではないでしょうか。  まさにそこにこそ、まさにその現実のただ中でこそ、キリストの溢れる「憐れみ」がいま、私たちを 覆い包んでいて下さることを改めて知りましょう。まさに私たちの現実のただ中で「まだ悟らないのか」 と語りたもう主イエスのみが、私たちの一切の罪を背負うて十字架への道を歩んで下さったのです。痛 ましき手続きを経て、私たちを御国の民、主の御身体なる教会の枝として下さったのです。主は私たち 一人びとりにはっきりと語って下さいます。「あなたのためにこそ、私は永遠の生命の食卓を、いまここ に備えている」と。まさに主はこの「生命の食卓」を備えるために十字架におかかり下さったのです。 この食卓の主は十字架の主イエス・キリストご自身です。そこで大切なのは、問題なのは、もはや私た ちの弱さなどではない。欠乏などではない。弱いならばその弱さのままに、私のもとに来ればよいと、 主は語っていて下さるのです。そこでこそ、主は私たちに御言葉の糧を豊かに与えて下さる。私たちと 片時も離れず、ご自身をもとつ私たちを永遠の生命へと養って下さるのです。それゆえ、私たちの一切 の鈍さ、悟りなき心、弱さを、主の御手に委ねて、健やかに信仰に生きる僕となろうではありませんか。 主が生命を献げ尽くして備えて下さった、まことの「生命の糧」のもとに、私たちは生命ある限り、否、 死を超えてまでも、連なり続けて参りたいと思います。