説     教    箴言22章11節   ルカ福音書22章39〜46節

「破れ口に立たれる神」

2016・10・16(説教16421665)  旧約聖書・箴言22章11節に「心の潔白を愛する者、その言葉の上品な者は、王がその友となる」と ありました。ここで言われている「心の潔白さ」とは、主なる神の御言葉(イエス・キリストの福音) に対する忠実さ、すなわち、御言葉を正しく聴く姿勢(信仰)のことです。「潔白」の「潔」とは「いさ ぎよい」という字です。主なる神は私たちにいつも、福音の御言葉に聴き従う「いさぎよさ」を求めて おられるのです。すなわちそれは、救い主イエス・キリストを信ずることです。主イエスの弟子になる ことです。信仰生活の全てがそこに凝縮しているのです。  それならば「王」という言葉もキリストのことです。信仰をもって「いさぎよく」御言葉に従う私た ちを、真の王なるキリストは「友」と呼んで下さるのです。それは、私たちがいつも神の御言葉を正し く聴き、真の礼拝者として生きることです。そのことこそ、聖書が語る「心の潔白さ」であり、それが 私たちの「唇に品位」を与えるのです。つまり、私たちの言葉が互いに、キリストの恵みの麗しさを語 り合う器とされてゆく。主の証し人とされてゆくのです。まさにそのような恵みを私たちは主から賜っ ている者として「王がその友となる」と言われているのです。  さて、今朝の説教の題は「破れ口に立たれる神」です。この「破れ口」とは何のことでしょうか。昔、 オランダで、堤防の決壊を自分の身体で食い止め、町を洪水の危機から救った少年がいました。少年の 名はヨハネス・ブリンカー。当時8歳だったそうです。これは実話ではなくフィクション(架空の物語) だと指摘する人もいます。しかし元々の話はオランダ系アメリカ人のメアリー・ダッジが1865年に書 いたものです。その頃のオランダにはまだ堅固な堤防はなく、しばしば堤防決壊による大きな被害があ りました。そうした水との闘いの歴史の中で、人々に忘れられてしまった一人の少年の勇敢な自己犠牲 の行為を、ダッジは記録したのです。多くの人々に勇気と愛を与えた物語として、日本でも小学校の道 徳の教科書で広く紹介されました。私も小学生時代にその物語を読んで感動した者の一人です。  今朝、私たちに与えられた聖書の御言葉、ルカ伝22章39節以下には、主イエス・キリストの「ゲツ セマネの祈り」が記されています。主は十字架を目前になさって、私たちの救いのために「父よ、みこ ころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこ ころが成るようにしてください」と祈られたのです。まさにここには、私たち人間の、またこの現実世 界の、罪と死という大きな「破れ口」にお立ちになって、その「破れ口」から私たちを救うためにご自身 の全てを献げ尽くして下さった、真の神のお姿があります。主イエスはヨハネ伝15章13節において「人 がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」とお教えになりました。いった い私たちのうち誰が、主に「友」と呼んで戴けるに相応しい人間でしょうか。誰一人として神に「友よ」 と呼んで戴くに値しない私たちです。いつも自分が中心であり、自分の我儘ばかりを振り回している私 たちです。御言葉よりも自分を上位に置き、あわよくば神を自分に従わせようとしている私たちです。 キリストの招きの御声に叛いている私たちです。しかしそのような私たちのために、主イエスは私たち の罪のどん底にまでお降りになり、ご自分の身を挺して私たちの「罪」という破れ口にお立ちになり、 その恵みをもって私たちを「友よ」と呼んで下さるのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。私たちが持つべき「心の潔白さ」とはまさしく、私たち の罪という「破れ口」に立って下さった(いまお立ちになっておられる)主イエス・キリストに対する 全き従順にほかならないのです。それこそ主の弟子たちがガリラヤ湖畔において、「われに従え」と招か れた時にただちに主に従ったように、私たちもまた礼拝者として、礼拝から始まる日々の生活において、 「われに従え」と招きたもう主の御声に、ひたすら従順に従い行く者たちでありたいのです。  旧約聖書。詩篇106篇23節に、神の僕モーセが「破れ口に立った」と記された御言葉があります。 イスラエルの民が神に叛いて大きな罪をおかした時「それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた」モー セに御心を告げられたのです。「しかし主のお選びになったモーセは、破れ口で主のみ前に立ち、み怒り を引きかえして、滅びを免れさせた」。モーセは自ら民の罪という「破れ口」に立ち、そこで罪の執成し をなしたのです。ここでモーセがさし示しているものこそ、まさにゲツセマネでの主イエスの祈りにほ かなりません。古代イスラエルの街は城壁によって囲まれていました。その一角に「破れ口」が生じる ということは街全体の滅びを意味しました。同じ旧約聖書・列王記下25章4節に「町の一角が破れた」 とあるのがそれです。ですから「破れ口に立つ」とは、自分が身代わりになって死ぬことにより、多く の人々を救うことを意味するのです。  このことは、以下の3つの事実を私たちに教えます。第一に、「破れ口に立つ」とは“贖いの死”を 意味することです。エゼキエル書22章30節に「わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあ って、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなか った」とあります。主なる神はこの世界に対して、この世界が「罪」によって滅びてしまわぬように「破 れ口に立つ」者を尋ね求めたけれども、一人も「得られなかった」というのです。私たち人間には、罪 という「破れ口」を修復する力も、またこれを防ぐ力もないのです。私たちは罪に対しては完全に無力 な者でしかないのです。  第二に、「破れ口に立つ」とは、その者が世界のために“執成しの祈り”を献げることを意味します。 この「執成し」とは「贖い」であり「犠牲」を意味します。そうすると、これもまた私たちには“なし えないこと”なのです。私たちは自分一人の罪を贖うことさえできない存在です。死すべき自分の罪を さえ如何ともなしがたい存在の私たちが、ましてや世界のため、全ての人の罪を「執成す」ことなど、 どうしてできるでしょうか。  第三に、これは私たちに対する神からの大きな答えですが、「破れ口に立つ」とは、この世界を救いた もう神の御業を私たちに告げるものです。ヘーゲルという哲学者は「およそ世界の歴史は人間の情熱 (Leidenschaft)なしには動きえない」と語りました。ヘーゲルがそこで語る「人間の情熱」とは単数 形であり、神の御子イエス・キリストの十字架を指しています。そもそもドイツ語の“ライデンシャフ ト”とはキリストの御受難の出来事のことです。つまり旧約聖書はここではっきりと、神の僕モーセの 「破れ口に立つ」「民の罪のための贖いをなす」姿を通して、そこに私たち人間の限界と同時に、主イエ ス・キリストの十字架の出来事(ライデンシャフト)を物語っているのです。すなわち、先ほどのヨハ ネ伝15章13節の御言葉「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と は、十字架の主イエス・キリストにおいてのみ成就した救い(贖い・執成し)の出来事なのです。  ルカ伝22章39節以下に戻りましょう。主イエスのゲツセマネの祈りのお姿です。この祈りそのもの がすでに、私たちの致命的な「破れ口」にお立ちになる唯一の救い主を告げています。何人も立ちえぬ 人間の罪の「破れ口」に、ただ神の永遠の御子キリストのみが、毅然としてお立ち下さったのです。既 にこのゲツセマネの祈りは、私たちの「罪」の2つの破壊的状況のただ中で献げられました。第一に、 十二弟子の一人であるイスカリオテのユダの裏切りが47節以下に出てきます。第二に、十二弟子の一 人であるペテロが主イエスを3度までも裏切ったことが54節以下に出てきます。主イエスは私たちに 対する測り知れぬ愛のゆえに、あの呪いの十字架をお一人で担われ、ゴルゴタにおいて釘付けられ、唯 一の贖いの死をもって、私たちの罪を執成して下さり、御国の民として下さったのです。  あたかも「破れ口」から噴き出す濁流のように渦巻く私たち人間の不信と裏切りの嵐の中で、主イエ スは黙って決然として十字架を担われます。福音の中心である主イエスの十字架の死そのものが、すで に私たちの底知れぬ「破れ口」のただ中にあったのです。「王がその友となる」と冒頭の箴言の御言葉は、 軽々しく読まれてはならないのです。私たちのどこにも、主イエスに「友よ」と呼んで戴けるに値する ものはないのです。しかし、まさにその、救いの余地の全く無い「破れ口」にこそ、主は十字架を担い つつお立ち下さった。両手両足を釘付けられつつ、全ての人々のために罪の許しと祝福を祈られたので あります。  フランスの思想家パスカルは「パンセ」という本の中で、この場面について次のように語っています。 「イエスは少なくとも、その三人の最愛の友に多少の慰安を求めたもう。しかし彼らは眠っている。… イエスはただ独り、地上にいたもう。彼の苦痛を感じ、それにあずかる者がいないのみではなく、それ を知る者さえない現実の中で…。それを知るものはただ、天の父と彼のみである」。ただひとり主イエス のみが、底知れぬ私たちの「破れ口」に、修復不可能な罪の現実の中に、十字架をもってお立ち下さった のです。だからこそ、私たちはそこに永遠の確かな救いを見いだします。その救いがいま、聖霊と御言 葉において現臨したもう受難と復活の主イエスのもと、この礼拝において豊かに与えられていることを 知るのです。だからパスカルは続けて申します。「主イエスは世の終わりに至るまで御苦しみの内にあり たもう。その間、われわれは眠ってはならない」。  この「眠ってはならない」とは、堅く信仰に立つ歩みをしようではないか、ということです。最初の 箴言22章11節で言うなら、そこにこそ私たちは「潔い心」を持つ者となりたいのです。主の招きの御 声にただちに従う私たちでありたいのです。この主の御もとで、いつも御言葉に私たちの生活と存在の 全体を明け渡す者でありたいのです。そのような信仰の「いさぎよさ」において一つとせられ、ともに 新しい一週間の日々を十字架の主を見上げつつ、主の真の弟子たる歩みをなしてゆく私たちでありたい と思います。祈りましょう。