説    教   出エジプト記20章8〜11節  マルコ福音書2章23〜28節

「安息日の主」

2016・10・09(説教16411664)  私たちの教会の週報の、礼拝順序のいちばん上に「主日礼拝」と書いてあります。この「主日」とは「主 の日」すなわち「イエス・キリストの日」という意味です。実際に聖書の中には「主の日」「キリストの日」 という言葉がたくさん出て参ります。もうひとつ「安息日」という言葉も出て参ります。モーセの十誡の 第四誡に「安息日を覚えてこれを聖とせよ」とあるように、私たちは一週間の最初の日である日曜日を「主 の日」「安息日」としてこれを聖別し、教会に集まって共に礼拝を献げます。教会とは「主の日」である「安 息日」を聖別し、礼拝に生き続ける群れであります。  教会の生命は、そこで「常に真の礼拝が献げられていること」にあります。少々極端な譬えですが、日 曜日の朝に皆さんがこのピスガ台に登って来る。すると教会の扉に何か書いた紙が貼ってある。「今日は雨 がひどいので礼拝は休みです」。それは想像することさえできない、ありえないことです。私たちの信仰の 先輩たちは「たとえ槍が降ろうとも」と申しました。空から槍が降って来ても礼拝は休まない。そういう 聖日厳守の心をもって礼拝を重んじ、教会生活を大切にしたのです。教会はペンテコステ以来連綿として 一日も欠かさず、安息日にはそれこそ大雪であろうと槍が降ろうと、いかなる困難があろうとも礼拝を献 げ続けて来ました。その歩みは2000年間、旧約時代から数えれば4000年間、一度も途絶えたことはない のです。  いわゆる週休制度、七日をひと巡りとし、そのうちの一日を休日とする習慣は古代バビロニアの太陰暦 に由来すると言われています。太陰暦ではひと月は28日です。それを4等分すれば7日になるので一週 間を7日とする暦が始まったのです。しかしそのバビロニア暦がイスラエルに伝えられますと、形式とし てではなく、週の最初の日(日曜日)を主が私たちにお与えになった特別な日「主の日」(礼拝の日)として定 めました。「安息日を聖とする」という言葉を、ブーバーというユダヤ教の哲学者は「主の勝利を祝う」と 訳しています。これは素晴らしい訳です。イスラエルの民は安息日の誡めに、あらゆる人間存在を真に生 かしめる「主の勝利」の御業、祝福と自由への招きを聴き取ったのです。  この世界万物の創造主なる神は、限りなく全ての者を愛したまい、私たちをご自身の勝利の民(救いにあ ずかる民)としてここに招いて下さいます。私たちの人生は、飲み食いし、働き、死ぬことで終わるもので はない。たとえどんなに人生が不条理に見え、空しく、悲惨に思われるときにも、私たちは既に罪の赦し の恵みにおいて、十字架において死に勝利された主(キリスト)に結ばれて、希望と慰めの人生を生きる者 とされているのです。出エジプト記20章には「あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家 畜、またあなたの門の内にいる他国の人も」と明確に告げられています。この生命の祝福は「安息日」を 守る全ての人々に無条件に恵みとして与えられているのです。ですから「主は六日のうちに、天と地と海 と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれた。それで主は安息日を祝福して聖とされた」とあ ります。この「安息」とは、単に“仕事を休む”という意味ではなく、私たちがそれぞれの人生のただ中 で、今ここにおいて、神の祝福と生命にあずかる者とされていることです。それが「安息」という言葉の 本当の意味です。  そこで、ヘブライ語では「安息日」のことを“シャバース”と申します。「第七日目」という意味です。 しかし「第七日目」と申しますと土曜日のことではないでしょうか。それで現在でもユダヤ教では土曜日 が「安息日」です。かつて私がエルサレムの旧い宿に泊まったとき、部屋に「シャバース」と書かれた赤 いスイッチがありました。宿の人に訊きますと、それは安息日に備えて部屋の電灯を自動式点灯にするた めのスイッチでした。スイッチを押すことさえ「わざ」(労働)にあたると解釈する、それほど厳格に「安 息日には何のわざをもなすべからず」を守ろうとするユダヤ人の姿に感動すら覚えたことでした。  しかし、これが形式主義になると、おかしなことになるのです。ある安息日、主イエスは弟子たちと共 に麦畑の中を歩んでおられました。空腹を覚えた弟子たちは麦の穂を摘み、掌で揉んで食べ始めたのです。 するとそれを見たパリサイ人らが「安息日の食物規定に違反する」と言って騒ぎ始めた。麦の穂を摘むこ とは収穫の労働になるという解釈でした。それに対して主イエスは「安息日は人のためにあるもので、人 が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」とお答えにな ったのです。主が言われたことは、安息日は掟のためにあるのではなく、喜びの祝日、全ての人のための 「礼拝の日」であるということです。私たちが天の祝福にあずかる日なのです。  私たちは「安息日の主」がどなたであるかを、いつも明確にせねばならないのです。主イエス・キリス トのみが「安息日の主」であられる事実を忘れるとき、私たちの「安息日」もパリサイ人と同じ形式主義 に陥り、招きたもう神の恵みが不鮮明になるからです。私たちが「主の日」ごとに礼拝を献げるのは、そ れが規則(律法)だからではありません。何よりも十字架の主みずから、ご自分の生命をかけて、値なき私 たちをあるがままに救いと生命と祝福のもとに招いていて下さるからです。主の招きの恵みを私たちは「安 息日」において祝うのです。だから主イエスは会堂の中で病気の人をお癒しになりました。それを「安息 日の規定に違反する」と非難したパリサイ人らに対して「安息日に善を行なうのと悪を行なうのと、命を 救うのと殺すのと、どちらがよいか」と厳しく問いたまい、癒しの御業を断行されたのでした。ベテスダ の池で38年間も病気に苦しんだ人を癒されたのも安息日でした。そのときも主は「わたしの父は今に至 るまで働いておられる。わたしも働くのである」と言われました。私たちが罪の支配から解放され、聖霊 なる神の御臨在のもと、新しい生命に生かされることが安息日であることを明らかになさったのです。  このように、主イエスは「安息日」本来の正しい守りかたをお示しになったのです。福音書を見ますと、 主は安息日にはかならず会堂で礼拝を献げておられたことがわかります。主イエスご自身が最も敬虔な礼 拝者であられたのです。この礼拝の精神を主から受け継いだ弟子たち、そして初代教会の人々は、日曜日 を「主の日」(安息日)として礼拝を献げるようになります。初代教会は西暦50年ごろまではユダヤ教と同 じように土曜日に礼拝を献げていました。西暦50年の「エルサレム使徒会議」以降、日曜日を「安息日」 として礼拝を献げるようになったのです。それの理由は何でしょうか?。答えは、日曜日は主イエスの復 活の日だからです。キリスト教で「三大節」と言いますと、クリスマス、イースター、ペンテコステです が、そのうち最も早く祝われるようになったのはイースター(キリスト復活の記念日)です。こう考えます と、そもそも「主の日」(日曜日)の礼拝は主イエスの復活の恵みの上に成り立っている。その意味で毎週 の主日礼拝がイースター礼拝の延長なのです。復活の主は聖霊により、活ける御言葉によって親しくここ に現臨しておられ、救いの御業をなさっておられるのです。だから礼拝説教もまた、キリストの過去の出 来事を語ることではなく、今ここにおける生きた救いの御業を宣べ伝えることです。来年は宗教改革500 年の記念の年ですが、宗教改革の本質は「安息日の回復」でした。それは「いまここにおけるキリストの 生きた救いの御業を宣べ伝える主の教会」の回復でした。  このような「主の日」の喜びを本当に知るとき、私たちの生活は根底から変わってゆくのです。キリス トに結ばれた者の生活は、死を超えた生命に支えられた生活です。私たち一人びとりが、いまこの「主の 日」において、そのような者として招かれているのです。  「主の日」はまず第一に、私たちにとって「聖なる喜びの日」です。古代イスラエルの民はバビロン捕 囚という歴史最大の悲劇の渦中にも、礼拝を休むことはありませんでした。預言者ネヘミヤはネヘミヤ記 8章10節において「この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたが たの力です」と語りました。私たちの人生にはさまざまな憂いや悩みや悲しみがあります。しかし私たち が「主の日」の礼拝に真実に生き続けるとき、たとえ私たちの人生を荒波が襲うときにも、私たちは揺る ぎなきキリストという岩の上に立つ者とされているのです。  マタイ伝28章にキリスト復活の記事があります。空虚な墓の前で恐れる女性たちに、天使は「恐れる な」と主の復活の喜びを告げます。「イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガ リラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう」。ガリラヤは「異邦人の地」と言われるように、暗黒の 象徴、私たちの罪の象徴です。そこに復活の主は「先立って」行かれる。そこで私たちは復活の主にお会 いするのです。教会はまさにその喜びの証人です。十字架による罪の贖いと、全ての人への救いと祝福を 宣べ伝える復活の証人なのです。だからこそ私たちは、古代イスラエルの民以上の喜びをもって「主の日」 を祝います。さまざまな苦労や心配や悲しみの中で一週間を過ごした人も、その重く沈んだ心のあるがま まに、ここに福音の御言葉を聴きに参ります。「あなたのために主は世に来られ、十字架におかかりになり、 復活され、そして再び来たりたもう」。この御言葉を、私たち全ての者の救いの出来事として聴くのです。  第二に「主の日」は、私たちが「神の栄光を現わす者とされていることを感謝する日」です。「主の日」 は新しい一週間の始めです。私たちはこの大切な日に、まず神の限りない救いの恵みにあずかり、主の御 名を讃美し、神の栄光を現わす者とされていることを共に喜びをもって言い表すのです。「神の栄光を現わ す」ことは、人の目を引き付ける奇抜なことをするのではありません。大切なただ一つのことは、私たち 一人びとりがいかなる時にも主が贖い取られた教会にしっかりと連なり、礼拝者として歩み続けることで す。病気入院や治療のため、あるいは高齢のため、礼拝に出席できない人も少なくありません。しかしそ れらの人たちは、たとえここに共に集えなくても、霊においては常に教会のかけがえのない枝とされ礼拝 者とされています。人の眼には無力と思えるところにこそ神の栄光は輝くのです。私たちは、私たちが普 段は忘れがちな、病院や老人ホーム、また病気との戦いの中で、教会のため、牧会者のため、また信徒一 人びとりを覚えて、不断の祈りが献げられていることを忘れてはなりません。そうした祈りがどんなに私 たちの教会を祝福し、伝道のわざを力づけていることでしょうか。病院のベッドの上で「先生、私は祈る ことしかできません。しかし祈れることこそ、全てにまさる主の賜物であり幸いです」と言われた婦人が いました。そのとおりではないでしょうか。その祈りの連鎖こそ教会の宝・御国の宝です。そして、祈り を執成して下さる主の御手にあって、その姉妹もたしかに「主の日」の祝福に共に預かっているのです。 教会の生きた枝とされているのです。  第三に「主の日」は私たちにとって「キリスト告白の日」です。私たちが教会に連なって生きるのは、 私たち自身の資格や能力によるのではありません。ただキリストの限りない恵みによってのみ、私たちは 「イエスは主なり」と告白する者として、礼拝の民とならせて頂いているのです。何の値もなきままに、 主の復活の生命に連なる者とされているのです。私たちは、全人類を測り知れない罪の深みから贖い取っ て下さった唯一の贖い主、イエス・キリストの御名のみを宣べ伝えます。世の諸々の力の中で、ただキリ ストのみが全ての人を救う唯一の救い主でありたもう事実を宣べ伝えるのが私たちの教会です。十字架と 復活の主なるキリストにのみ、人間のあらゆる問題の根本的かつ完全な解決があることを知る群れとして、 私たちはキリストの御名のみを告白し、世に宣べ伝えてゆく群れであり続けたいと思います。  終わりに、詩篇27篇4節をお読みしましょう。「わたしは一つのことを主に願った。わたしはそれを求 める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを」。こ れは人生の戦いとは無縁なところ、安全地帯に逃げた者のつぶやきではありません。まさに人生と社会の あらゆる戦いや試練の中で、私はただこのひとつの事に生き続ける、このひとつの事を主に願い続けると 言うのです。わが生きるかぎり主の家に住まい、そこで「主のうるわしきを見」主の御業の素晴らしさ、 尊さ、豊かさを尋ねきわめること…。そして、まさに「安息日の主」の御手に堅く結ばれ支えられた者と して生き続けること。そこに、私たちの永遠に変らぬ喜びと慰め、平安と幸いがあることを共に覚えるも のです。祈りましょう。