説    教    創世記11章1〜9節   ヨハネ福音書11章45〜48節

「如何に為すべきか」

2016・10・02(説教16401663)  21世紀が始まってはや四半世紀、世界には様々な出来事が起こりました。国際テロリズムの問題、世 界各地に頻発する民族紛争、東西冷戦の事後処理の遅れ、危機に直面した経済問題、不良債権処理の問 題、世代間の価値観やライフスタイルの断絶、増大化し国際化する凶悪犯罪など、列挙すればきりがあ りません。ある人がこうした現代社会を「あらゆる価値観の崩壊する社会」であると語りました。「あら ゆる価値観の崩壊」とは、人間らしい生活、人間の存在を支える確かな価値観が、根底から崩れてゆく 時代であるということです。土台のない所に建物を建てるのにも似た、非常に難しい時代に、私たちは 生きているのです。  そこで、そのような困難の時代にあってこそ、私たちが真剣に求めざるをえないものこそ、人間とし ての真に揺るぎない、幸いな生活なのではないでしょうか。人間は常に幸福を追求する存在です。しか しその反面、私たちは複雑化した現代社会において、どうすれば人間として本当に幸福でありうるのか、 わからなくなっているのです。今日の説教題で申しますなら「如何に為すべきか」が見えなくなってい る時代なのです。  今朝、お読みしましたヨハネ伝11章47節を、改めて文語訳で読んでみましょう。「ここに祭司長・ パリサイ人ら議会を開きて言ふ『われら如何に為すべきか、此の人おほくの徴をおこなふなり。もし彼 をこのまま捨ておかば、人々みな彼を信ぜん、而してロマ人きたりて、我らの土地と国人とを奪はん』」。 同じところを口語訳で読み返してみます。「そこで、祭司長たちとパリサイ人たちとは、議会を召集して 言った、『この人が多くのしるしを行っているのに、お互は何をしているのだ。もしこのままにしておけ ば、みんなが彼を信じるようになるだろう。そのうえ、ローマ人がやってきて、わたしたちの土地も人 民も奪ってしまうであろう』」。  ここで「この人」とあるのは、もちろん主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストが、民 衆の間で多くの奇跡や“しるし”を行っておられることに危機感とあせりを抱いた「祭司長たちとパリ サイ人たち」は、急いで臨時議会を召集して協議をするのです。「われら如何に為すべきか」と。この臨 時議会とは今日で言えば臨時国会に相当するものです。国を挙げて「キリスト対策」に乗り出したと言 ってよいのです。  「祭司長」は司法の最高権威であり「パリサイ人」は立法と行政の最高権威でした。彼らはイスラエ ル国家の威信をかけて「われら如何に為すべきか」を議題とする臨時国会を召集したのです。この議会 は70名の議員で成立っていたため通称「七十人議会」と呼ばれていました。実は私たち人間は数の支 配(数の論理)に弱いのです。「何か違うのではないか」と思っても周囲の人間がみな賛成すれば、それ は正しい事のように思えてしまうのです。議会制民主主義が陥りやすい一つの危険です。この時も、議 員たちはみなプロパガンダに踊らされてしまうのです。このイエスなる人物を放置しておくことは宜し くない。第一に「もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう」。第二に、我々の 混乱に乗じて「ローマ人がやってきて、わたしたちの土地も人民も奪ってしまうであろう」。そのように 議員たちは話し合い、それがこの臨時議会の結論になったわけです。  同じ11章の53節を見ると「彼らはこの日からイエスを殺そうと相談」するようになったと記されて います。かねてより計画していたキリスト殺害計画が公然と実行されるようになったのです。主の十字 架への歩みが決定づけられたのです。言い換えるなら、こういうことが言えるのではないでしょうか。 「われら如何に為すべきか」という私たちの問いは、それがたとえどんなに正当性を持つものであって も、私たちはまさにその正当性の名のもとに、神の子イエス・キリストを十字架にかける罪をおかす存 在なのです。そこに人間の罪の本当の恐ろしさと矛盾があるのです。人間の難しさがあるのです。  私はかつて、高知刑務所で教誨師の実地訓練を受けたことがあります。教誨師とは、刑務所に定期的 に通い、受刑者と一対一で、時には広い講堂のような場所で、宗教の講話をする牧師や僧侶のことです。 初めて刑務所というところに入って、改めて驚いたことは、囚人たちはみなごく普通の人たちなのです。 殺人犯もいれば強盗犯もいます。しかし、みんなその辺に歩いている人と何の違いもありません。それ は言い換えるなら、私たちもまたいつでもどこでも、本当に些細なきっかけで、大きな罪を犯しうる存 在だということです。大岡章平という作家が「野火」という小説の冒頭に「わが心の良くて殺さざりし にあらず」という親鸞の「歎異抄」の言葉を引用しています。私が人を殺さずにいられたのは、私の心 が正しかったからではなく、人を殺さないで済む境遇に偶然に置かれただけのことにすぎない。そのよ うに親鸞は言うのです。全くそのとおりだと、大岡氏も述べているのです。  今朝、併せて拝読した旧約聖書・創世記11章1節以下に、有名な「バベルの塔」の物語が記されて います。この地球上に最初の文明国家がメソポタミア(今日のシリア、イラクあたり)に誕生します。 およそ6千年前のことです。人々はそこで高度な技術力にうぬぼれ、シナルの平野に一つの塔を建てる のです。「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のお もてに散るのを免れよう」。その結果、巨大なバベルの塔が建設されます。イラクのウルという場所に残 るジグラット(焼煉瓦とアスファルトで造られた塔の遺跡)がそれだと言われています。  本来「町と塔とを建てよう」という人々の願いそのものは、正しく、良いことであり、何の問題もな いはずです。問題は「その(塔の)頂を天に届かせ、かくしてわれわれは名を上げ、全地のおもてに散 るのを免れよう」と言ったことです。これは、?人間がその技術力を駆使して神のような存在になろう としたこと、?みずからの利益と幸福のみを人生の目的としたこと、?民族や文化の多様性を認めない 独裁主権国家を造ろうとしたこと、この3つの罪を現しています。そしてまさにこの3つの罪は、今日 の世界の至るところに、今日もなお起こっていることではないでしょうか。  創世記は、これらの罪ゆえに、人々のわざは神の祝福を離れ、人々は互いに言葉が通じぬようになり、 そこから「全地に散らされていった」と記しています。「如何に為すべきか」を見失い、誤りに陥ったと ころから、民族と文化間の断絶が起こり、深刻な対立と争いが生じ、ついにこのバベルの塔は、分裂と 敵意と離散の象徴となりました。「バベル」という言葉は「混乱」という意味です。私たちは現代におい て、なお至るところに、このバベル(混乱)の塔を造り続けているのではないでしょうか。「如何に為す べきか」という問い自体が罪なのではありません。この問いの向かうところこそが大切なのです。私た ちはどちらに向けて「如何に為すべきか」を問うているでしょうか。自分自身の利益と幸福のためにか、 それとも、主イエス・キリストが生きられたように、他者の利益と幸福のためにか。もし私たちが自分 自身の利益と幸福のみを人生の目的とするなら、そのとき私たちは、人生の至るところに、あの「混乱」 の塔を建て続けてゆく以外にないのです。そのとき私たちは、国土と人民を「わたしたちの国土、わた したちの人民」と称した、あの七十人議会の仲間入りをすることになるでしょう。  私たちは「如何に為すべき」なのでしょうか。今日において「為すべき」事とは何なのでしょうか。 それは、私たちの罪の贖いと、限りない赦しのために、世に来て下さったイエス・キリストを信じ、キ リストの御身体なる教会に連なって歩む、新しい人生を生きることであります。多勢の人が捕らわれて いる牢獄がありました。新約聖書・使徒行伝16章25節以下に記されていることです。もとパリサイ人 であり、イエス・キリストを信じてキリストの使徒となったパウロと、その弟子であるシラスの2人が その牢獄に繋がれる身となりました。古代の牢獄は酷い環境でした。そこで真夜中ごろ、パウロとシラ スは神に祈りをささげ、讃美歌を歌いました。囚人たちはみなその祈りと讃美歌に「耳を澄まして聞き 入っていた」のです。  突如、大地震が起こり、牢獄の扉が壊れて開きました。パレスチナでは地震は珍しくありません。囚 人たちを繋いでいた鎖も解けてしまった。獄吏は慌てて目を覚まし、牢獄の戸が開いているのを見て「つ るぎを抜いて自殺しかけた」のです。囚人が一人でも逃亡すれば、獄吏である兵士は死んで償わねばな らない定めでした。そこにパウロが声をかけます。「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、 ここにいる」。獄吏がよく見ますと、驚くべきことに、本当にそこには囚人たちが皆逃げずに残っていた のです。なぜでしょうか。それは、その牢獄は、パウロとシラスによって、キリストの福音と祝福の溢 れる教会に変えられたからです。だから囚人たちは、逃げる必要がなかった。キリストの救いのもとに 留まっていたかったのです。  信じられない光景を見て、獄吏はパウロとシラスの前にひれ伏し、そして申しました。「先生がた、わ たしは救われるために、何をなすべきでしょうか」。ここにも今朝の重要な問いが響き渡るのです。「如 何に為すべきか」。パウロとシラスは答えて申します。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたも あなたの家族も救われます」。そのようにして、この牢獄に繋がれていた多くの囚人たちはもちろん、獄 吏たちも、その家族までもが、主イエスをキリスト(救い主)と信じ、洗礼を受けて教会に連なる者と なり、キリストの愛と祝福の内を歩む、新しい人生を生きる者となったのです。使徒行伝16章33節以 下にはこう記されています。「彼は真夜中にもかかわらず、ふたりを引き取って、その打ち傷を洗ってや った。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け、さらに、ふたりを自分の家に 案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ」。    ここに、今朝の御言葉における、人生の最も重要な問いに対する聖書の答えがあるのです。「如何に為 すべきか」。私たちはこの獄吏とその家族たちが為したように、主イエスを信ずる者になること。主イエ スの愛と限りない赦し、そして恵みの主権のもとを歩む者になること。それこそが人間にとって真に幸 いな、そして自由な、人生の歩みを造る力であり、慰めであることを、今朝の聖書の御言葉ははっきり と告げています。まさにキリストの救いの御力によってこそ、世界は真に変えられてゆくのです。おの れの利益と幸福のみを追求する社会ではなく、キリストに従う新しい平和の道・祝福の人生が、キリス トの恵みの主権において始まってゆくのです。  果てしなくバベルの塔を積み上げて、人間としての幸いも喜びも、自由も平和も失ってゆく、そのよ うな私たちのために、主はご自分の全てを、献げ尽くして下さったのです。寄る辺なき者、貧しき者、 孤独な者、病める人々、罪人と罵られ、排斥された人々をお訪ねになり、その友となられ、御手を伸べ て、立ち上がりえない者を立ち上がらせ、歩みえない者を、神と共に歩む者として下さり、見えない者 を、見える者にして下さった、その恵みの主が、いま、私たちと共におられ、一人びとりを招いておら れます。どうか私たちは、イエス・キリストを主と仰ぎ、この方の限りない愛を知り、慈しみを知る者 となって、心を高く上げて、この世の旅路を歩んで参りたいと思います。