説    教   レビ記22章31〜33節  ヨハネ福音書14章28〜31節
                

「神われらと共に」

2016・09・25(説教16391662)  以前、新聞でこういう記事を読みました。有名大学を卒業して大手企業に勤める一人の若いサラリー マンが、その新聞のコラムの執筆者であるクリスチャンの婦人に「あなたは勝ち組ですか、それとも負 け組ですか?」と訊ねたというのです。これを聞いてその女性は「何と嫌な下品な言葉だろうか」と嘆 きました。改めて気がつくと、社会の至るところに「勝ち組、負け組」という言葉が横行している。そ のエリート青年も「人生は勝ち組でなきゃ意味がない」と平然と語ったというのです。思わず彼女が「あ なた、それでは挫折したとき大変よ」と言うと「ぼくは挫折なんかしません」と答えが返ってきた。な んと末恐ろしい社会だろうかと、暗澹とした気持ちになったというのです。  ヴァーチャル・リアリティ(仮想現実)という言葉があります。実はこの言葉がさし示す事柄にはあ る種の魔術性があります。コンピューターなどの人工的仮想空間が、さも現実であるかのように一人歩 きする。実体なき架空の現実が人間を支配する。それを扱う人間もいつしか、現実と仮想の区別がつか なくなってしまう。そういう社会問題が実際に起こっています。最近で申しますと「ポケモンGo」と いうスマホ用ゲームソフトが話題になりました。ポケモンを仮想空間に追って、交通事故を起こしたり、 私有地に立入ってトラブルになる。そういうことが実際に起こっているわけです。  そこで、実はこのことは、子供たちや青年たちだけではなく、あらゆる世代に共通する、現代の社会 全体に蔓延した、ある深刻な問題を示しているのではないでしょうか。それは何かと申しますと、いつ のまにか私たちのこの社会は、単なる自然によって成り立ち、支配されていると考える、単層的な(=魔 術的な)社会になってしまったということです。それこそ「勝ち組」という「嫌な言葉」が如実に示すよ うに、自然的・物質的な価値以上の人生の価値を認めることができない社会、それに付随して、人間の 価値も身体的な価値だけが評価される、そのような歪な社会を、私たちは造ってしまっているのではな いでしょうか。その歪さの中で、人間そのものが損なわれ、孤立化し、失われているのです。人生の目 的と生きる意味が、わからなくなっているのです。個人どころか社会全体が仮想現実化してしまってい るのです。人間の精神を麻痺させ、孤立させる、魔術性を持った社会になっているのです。  それでは、私たちの主イエス・キリストがお教えになった本当の社会とは、どのようなものでしょう か。それは、宇宙万物・森羅万象の中に、その全てのものを、限りない愛をもって創造された真の神、 創造主なる神の御業が輝き現れている、そのような世界です。この世界はただ自然によって(つまり偶 然によって)支配されているのではないと、主イエスははっきりお語りになりました。そうではなく、 この世界は自然と超自然、歴史と永遠の交じり合う、かけがえのない現実世界であるということ。神は この歴史と世界を通して、私たちを永遠の目的に適うものとなし、救いへと導いておられる世界である ということ。そのことを何よりも明確に示しているのが、今朝お読みしたヨハネ伝14章28節以下の御 言葉です。  「『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなた がたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。 父がわたしより大きいかたであるからである。今たしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。 それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである」。そして、更に主は30節以下に、このように お教えになりました。「わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。 だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。しかし、わたしが父を愛していることをこの世が知るよ うに、わたしは父がお命じになったとおりのことを行なうのである。立て。さあ、ここから出かけて行 こう」。  主イエス・キリストは今や、十字架へと向かう最後の道のりを歩みつつあるのです。愛する弟子たち との決別の時が近づくにあたり、主は「『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』」 との御言葉を「よく思い起こすように」と弟子たちにお諭しになります。それをあなたがたは既に「聞 いている」のだからと言われるのです。そして、それならば「わたしが父のもとに行くのを(父のもと に帰るのを)喜んでくれるであろう」と言われます。それは、この時の弟子たちが大きな不安を感じ、 心を騒がせていたからです。同じように大きな不安を感じ、心を騒がせている現代社会の私たちにも、 主ははっきりとお告げになるのです。「(わたしは)わたしの平安をあなたがたに与える」と。そして、 その平安の確固たる根拠として、主が語られた大切な音信が「父がわたしより大きいかたであるからで ある」という事実です。  聖書は、主イエス・キリストがまことの神の真の独子でありつつ、私たちと寸分たがわぬ人の姿でこ の世界(歴史)のただ中に来られた救い主であることを私たちに告げています。東西ドイツを隔てていた ベルリンの壁のように、私たちと神との間には「罪」という高い隔ての壁がありました。その壁を打ち 壊して、真の神へと私たちを導くために、主イエスは神と人との仲立ち(仲保者)となって下さったかた なのです。私たち人間はこの世界で、いつも父なる神の御心から遠く離れ、神の御心に叛く生きかただ けをしていました。それこそこの現実世界を仮想現実としてしまっていました。その私たちの罪を贖い、 私たちを神に立ち帰らせて下さるために、主イエスは十字架の死によって私たちの罪を贖い、隔ての壁 を打ち砕いて、永遠の生命を与えて下さったのです。だから聖書が語る「永遠の生命」とは、私たちが 主イエス・キリストによって真の神に立ち帰ることです。神の国の民とならせて戴くことです。教会に よって復活のキリストに結ばれることです。  それならば、主イエスはいま「真の神」であられると同時に「真の人」として、永遠の生命の恵みを 弟子たちに語っておられるのです。歴史を救いへと導きたもう唯一の現実の主として、いま私たちに出 会っておられるのです。それは「真の神」にして「真の人」であられる主イエス・キリストによっての み、この世界また私たちの人生は、単なる自然の一部ではないことが明らかになるからです。そうでは なく、この世界また私たちの人生は、この自然を創造された唯一の真の神によって、無から有へと呼び 出され、かけがえのない存在と意味を与えられたものなのです。私たちはこの世界、またこの人生の全 体を通して、真の神との永遠の交わりへと招かれているのです。教会によって、私たち全ての者が、キ リストによって贖われた、永遠の御国の民として歩む幸いと自由を与えられているのです。私たち人間 は、本来の自然の姿においては、神に叛く罪の子でしかありえません。だから私たち人間は、自然(物質 的世界)によって救われることはありえないのです。救いはただ、世界と歴史の創造主にして贖い主なる、 三位一体なる真の神にあるのです。神の御子イエス・キリストを信じ、主の御身体なる教会に連なるこ とによってのみ、私たちの朽つべき身体は永遠の生命に覆われ、あるがままにかけがえのない「神の子」 とされ、キリストの恵みの御支配の内を、愛と祝福と御手に支えられつつ歩む僕とされてゆくのです。 キリストが主であられる、ということは、もはや自然は、罪と死の支配は、私たちの主人ではありえな いという、真の自由の宣言です。罪と死に勝利したもうた十字架と復活の主イエス・キリストのみが、 永遠に変らぬ私たちの唯一の主でありたもうのです。  このことをラインホールト・ニーバーというアメリカの神学者は「キリストは私たちを支配するあら ゆる幻想(イリュージョン)から世界を解放し、真の現実(リアリティ)へと導く唯一のパスポートで ある」と語りました。私たちは神の最愛の独子キリストを賜わったことによって、もはやこの世界が偶 然の支配する頼りない世界ではなく、神が限りなき愛をもって導きたもう神の世界であることを知らさ れているのです。またこの人生の全体が、あらゆる経験と挫折、失敗と病、苦しみと別離、悲しみと困 難にもかかわらず、否、むしろそれらの経験があればこそ、いっそう頼もしい、神の統治したもう世界 であることを、教えられているのです。  私たちの人生は、挫折や失敗がないから幸いなのではありません。むしろ、挫折や失敗を経験したこ とがない人こそ、人間として不幸だと言わねばなりません。イスラエルの歴史がそれを示しています。 モーセによってエジプトを出て、約束の地カナンに入るまで、なんと40年もの歳月を必要としました。 真直に歩いてゆけばひと月で到達できる距離に40年も必要としたのです。それは荒野において人々の 信仰が鍛えられ、本物にされたからです。数々の苦しみの経験を経て、はじめて「約束の地」にふさわ しい信仰者へと鍛え上げられていったからです。人々は最初は不平不満ばかりでした。エジプトに帰り たい。「肉鍋が恋しい」と嘆いたのです。ところが苦難につぐ苦難を乗り越えてゆくうちに、大切なこと に気が付きました。主なる神は、これらの数々の苦難の経験を通して、私たちを永遠の御国にふさわし い神の民に鍛えんと御心を注いでおられるのだ。人生はこの経験あればこそ、いっそう神の与えたもう 価値ある人生であり、またこの世界はこの苦難の旅路によってこそ、永遠へと繋がる神の世界である。 そういう信仰による正しい世界認識、人生の理解へと人々は導かれていったのです。  私がかつて葬儀をした、一人のご婦人がおりました。彼女は18歳の時に原因不明の病で失明しまし た。近所の人々は「親の因果が子に報いたのだ」と陰口を言いました。心身共に疲れ果て、ある寺で眼 病平癒の修行をしました。ところが、どんなにお経を読んでも、滝に打たれても、視力は回復しない。 絶望したこの姉妹は、自らの生命を絶つ決意をするのです。自分は生きる価値のない存在だと思ったの です。すると遠くのほうから讃美歌の歌声が聴こえてきた。それは近くの教会の礼拝の讃美歌でした。 「神は愛なり」と聴こえた。それを聴いてこの姉妹は思ったそうです。「もしかしたら、私はまだ本当の 神様を知らないのかもしれない」。そう思うと涙が止まらなくなった。それで寺から外に飛び出し、讃美 歌の歌声を頼りに歩いて、生まれて初めてキリスト教の礼拝に出席したのです。その日がこの姉妹の新 たな人生の誕生日になりました。絶望に捕らえられ、どこにも救いのなかった孤独な一つの魂が、キリ ストの復活の生命に捕らえられ、新しい生命に甦ったのです。その日からこの姉妹は天に召されるまで、 まことに忠実なキリストの僕として歩みました。彼女の葬儀のとき、彼女によって教会に導かれた人た ちが約30人いることがわかりました。  特別なことをしたのではありません。「あなたはどうして、いつもそんなに喜んでいられるの?」と訊 いてくる人に対して、彼女はいつも答えていた。「神さまの独子イエス様が、十字架にかかって私の罪を 贖って下さったからよ。あなたも今度の日曜日、私と一緒に教会に行きましょう。そうすれば、私がい つも喜んでいる理由がわかるわよ」。そのようにして、この姉妹は大勢の人をキリストのもとに導いたの です。特別なことをしたのではありません。私と一緒に教会に行きましょう、とお誘いしただけなので す。神様はあなたも、あなたも、祝福と恵みのもとに招いておられますと語っただけです。そして多く の人々が、この姉妹の喜びの源を知るに至ったのです。それは十字架の主イエス・キリストであること を。  私たちは、どうか今朝のこの御言葉を心に留めましょう。「父がわたしより大きいかたであるからであ る」。この「わたしより」という言葉に、全てを入れることができるのです。もちろん、私たち自身の名 をも、そこに入れることを許されているのです。「父なる神は、いつも、わたしよりも大いなるかたであ る」。「この世界よりも、この天地万物よりも、宇宙よりも、大きなかたである」。このことが、どんなに 大きな私たちの慰めであり、力であり、救いであることか。それは言い換えるなら、主イエスの御手か ら、真の神の愛から、私たちは決して失われることはないということです。この世界のいかなる力も、 権威も、罪も、死も、キリスト・イエスにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできない。私た ちは主イエスによって、この世界の全体、人生の全体を、限りない祝福として賜わっているのです。そ のとき、私たちの人生全体が、本当の現実世界であることを知る者とされます。それは神が永遠の御手 をもって救いへと導いておられる現実です。その世界に生きる主の僕として、私たちは、心を高く上げ つつ、主なる神に、感謝と讃美を献げつつ、信仰の歩みを続けて参りたいと思います。祈りましょう。 1 1