説     教     詩篇18篇1〜7節    ガラテヤ書3章13節

「救いなき者の救い」

2016・09・18(説教16381661)  私たちの人生には、どうしても解釈できない不条理があります。言葉にならない出来事というものが あるのです。  若い時からとても熱心に主に仕え、隣人を愛し、教会のため多くの良き働きをした人がいました。こ の人が末期ガンで亡くなりました。最後まで信仰に堅く立ち、入院先の病院の看護師さんまで、そのか たに倣って聖書を読み始めたほどでした。しかし、そのかたの遺族たちには問いが残りました。どうし て、なぜ、あんなに信仰に熱心であった母が、人生の最後に、あのような苦しみを経験せねばならなか ったのか。こうした疑問に、私たちはどう答えたらよいのでしょうか。  それは、東日本大震災や熊本の大地震においても同じことが言えます。ある日突然、降りかかった大 災害によって、人生を中断させられたおびただしい人々の苦しみを、死を、私たちはどのように受け止 めたら良いのでしょうか。そのような不条理なことがおこる世界に、私たちは生きているのです。  旧約聖書にヨブ記という書物があります。ヨブは主の前に正しく、信仰の深い人でした。しかしある 日突然、大きな悲劇が彼の身に起こります。男7人と女3人、ヨブの子どもたち10人が集まって食事 をしているとき、砂漠から吹いてきた嵐によって建物の支柱が折れ、全員が下敷きになって死んでしま った。そればかりではなく、羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに大勢のし もべたち、それらをも全て一瞬にして失ってしまったのです。  そのとき、ヨブは「上着を裂き、頭をそり」つつこう申しました。「わたしは、裸で母の胎を出た。ま た裸で、かしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名は、ほむべきかな」。不条理な、大き な苦しみの中で、ヨブはなおそこでこそ、主なる神の御名を崇めたのでした。不条理の中でこそ、主な る神を信じたのです。  私たちの教会で執事として立派な働きを献げられた中村功さんが、帰天される前日に私の祈りに合わ せて語られた言葉を、忘れることができません。「先生、私は世々の聖徒らと共に、来るべき主を待ち望 みます。私は神を待ち望み、決して離れません」と功さんは言われました。その翌日に帰天されたので す。私たちはこうした「神礼拝のゆるぎなき姿勢」を失っていることはないでしょうか。ここには、礼 拝に出席して、暑いだの寒いだの、椅子が堅いだの、座り心地がどうの、そんなことは吹き飛んでしま う厳粛さがあります。ここには「人間がなしうる最高の行為」があります。「人間の語るべき最後の言葉」 があります。永遠に失われることのない生命が、そこにはあるのです。  神をほめたたえるということ。私たちがいまここで献げている礼拝は、ほんらい何であるかを改めて 心に留めましょう。人間が真に人間であることの自由、喜びと平和、復活の生命は、ただ贖い主なるキ リストのもとにあるのです。そのキリストに、身も心も魂も結ばれた者として、贖われた者として生き ること、「キリストの内に自分を見いだす」ようになること、それが、私たちが献げている礼拝にほかな りません。  今朝の詩篇18篇において、詩人は「わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。主はわが岩、わ が城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救いの角、わが高きやぐらです」と告 白し歌いました。この詩篇18篇の詩人は、不条理な苦しみや悲しみから無縁なところで神を讃美した のではありません。その逆でした。それは4節以下を読めば一目瞭然です。「死の綱は、わたしを取り 巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。陰府の綱は、わたしを囲み、死のわなは、わたしに立ちむ かいました。わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました」。  「死の綱」「滅びの大水」「陰府の綱」「死のわな」これらはすべて、不可抗力のどうにもならない苦し みの数々です。自分はそれらのものによって、がんじがらめに縛られ、身動きさえできずにいると、詩 人は自らの状況を主なる神に訴えているのです。恐ろしい数々の不条理が詩人の人生に立ち塞がり、い まや彼を「死のわな」に落としこもうとしているのです。最初の「滅びの大水」という言葉も、直訳す れば「ベリアルの濁流」です。この「ベリアル」とは新約聖書ではサタンのことですが、これは本来「ベ リー」(不可能)と「ヤアル」(這い上がる)の複合名詞でして、「誰もそこから這い上がることが不可能 な場所」という意味です。つまり詩人は自分が置かれている立場を、決して這い上がりえない「深淵」 に喩えているのです。  私たちの人生にも、そのような深淵があるのではないでしょうか。私たちもまた今朝のこの詩人と同 様「死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。陰府の綱は、わたしを囲み、 死のわなは、わたしに立ちむかいました」という経験をするのです。親しい者の突然の死、健康であっ た身体が病に罹ること、人間関係に絶望し追い詰められること、仕事の上での思わぬトラブル、計画し ていたことの無残な失敗など、自分の力ではどうにもならない、数々の「ベリアルの濁流」が私たちを 呑みこもうとするのです。だからこそ私たちは問います。「神の支配しておられるこの世界に、どうして このような不条理が存在するのか」と。「どうして私たちの人生に起こる、こんなに惨いことを、神は許 しておられるのか」と。私たちは問わずにはおれないのです。  聖書は、詩篇は、まさにその「問い」の中からこそ、主なる神を見上げています。そればかりではあ りません。実は驚くべきことに、主なる神は、私たちが問うよりも遥かに先に、私たちと共にいて下さ るかたであることが示されています。それが6節の御言葉です。「主はその宮からわたしの声を聞かれ、 主に叫ぶわたしの叫びがその耳に達しました」。そして、主は答えたもうのです。どのようにでしょうか。 続く7節です。「そのとき地は揺れ動き、山々の基は震い動きました。主がお怒りになったからです」。 主なる神は、私たちが苦しみの中にあるとき、地を揺り動かすほどの御力をもって、最も小さな者の祈 りにさえ答えて下さるかたなのです。私たちに対する主のお答えによって「山々の基」さえ震い動くと いうのです。それは具体的に、どのようなことを示しているのでしょうか。  その答えは今日の詩篇18篇9節にあるのです。「主は天をたれて下られ、暗闇がその足の下にありま した」とあることです。私たちはこの「主は天をたれて下られ」とある御言葉を心に留めたいのです。 元々のヘブライ語を直訳するなら「天を押し曲げて」ということです。ほんらい「天」は神聖不可視な 存在です。「押し曲げ」られることなどありえないものです。それを神は私たちの救いのために「押し曲 げ」てまで、この歴史の中に、私たちの人生のただ中に、御手を差し伸べて下さる。介入して来て下さ る。連帯して下さる。神が私たちの現実に連帯して下さったのです。それこそ、詩人が見抜いた真の神 の御姿でした。  聖書が語る福音の本質は、まことの神が、私たち全ての者を限りなく愛したもうがゆえに、私たちの 救いのために、私たちのありとあらゆる不条理(罪と死の現実)に「天を押し曲げて」までも介入され た(連帯なさった)という事実にあります。この主なる神の行為を、今朝の詩篇は19節に「主は高い 所からみ手を伸べて、わたしを捕え、大水からわたしを引き上げ」て下さったと語ります。この「大水 から」というのは、先ほどの「ベリアル」(誰もそこから這い上がることが不可能な場所)です。そこか ら、私たちを救い出して下さるかたこそ、歴史の主なる神であられると告白しているのです。  新約聖書・ガラテヤ書3章13節に驚くべきことが記されています。それは「キリストは、わたした ちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった」という福音の音 信です。実は今日の詩篇18篇の御言葉も、十字架の主イエス・キリストの御姿を鮮やかに私たちに示 すものです。神は私たちを罪と死から贖い、永遠の生命に甦らしめ、父と御子と聖霊なる永遠の三位一 体なる神との交わりの内に入れて下さるために(すなわち永遠の愛において私たちと徹底的に連帯して 下さるために)堅い鋼のような天をも引き裂いて、私たちのもとに降られ、私たちの罪のどん底にまで 降りて来て下さったのです。それが十字架の主イエス・キリストのお姿です。  神は並びなく聖にして高きおかたであるからこそ「神」なのではないでしょうか。その神が私たちの 救いのために、私たちの「のろい」をご自分のものとして下さった。パウロはその事実を「キリストは、 わたしたちのためにのろいとなって」と記しています。花山信勝という仏教学者は「キリストの十字架 は応病にあらずして実病なり」と語っています。キリストみずから、神に呪われる者となって下さった。 「のろいの木」である十字架にかかって下さった。そのようにして私たちを「律法ののろい」すなわち 罪と死の支配から贖い救って下さったのです。これは言い換えるなら、永遠に聖なる神が神の外に出て 下さったということです。神が神ではない者になって下さったということです。「救い無き者には救いは ない」というのがこの世の常識です。しかし聖書ははっきりと語ります。「救い無き者にこそ救いがある」 と。「神は、救い無き者の神である」と!  キリストは神の外に出て、罪人なる私たちが担うべき究極の「のろい」である永遠の死を死なれ、そ のようにして、私たちにご自分の復活の生命を与えて下さったのです。この主なる神の御業のゆえに、 私たちはいかなる時にも神を崇め、礼拝を献げてやまないのです。礼拝を、人間のなしうる最後の究極 の行為として献げるのです。それは毎回、信じられないほど厳粛な行為なのです。十字架と復活の生命 の主、贖い主なるキリストが、聖霊と御言葉においてここに現臨しておられるからです。この主が私た ち全ての者のために、天を引き裂いてまで降って来て下さったからです。ここに、私たちの「生きるに も、死ぬにも、永遠に変わることのない慰め(生命の生命)」があるのです。  実に、この生命に支えられ、この主が共にいて下さる恵みの限りない豊かさのゆえに、私たちは今も、 のちも、臨終のきわにおいても、もはや何も恐れる必要はないのです。病気で苦しんで召されることに なろうとも、そのあるがままで良いのです。中村功さんが語ったとおりに、主は私たちに限りない祝福 と平和を与えて下さるからです。この世界にも、限りない祝福と平和を与えて下さるのです。私たちは それを信じる群れです。  主はあなたの全存在を、すでに御手の内に永遠に受け止めていて下さる。ゆえに私たちもまた告白し ようではありませんか。「私は贖い主なるキリストを信じます。私は主を待ち望み、決して離れません」 と。私たちもまた十字架の主に贖われた者として、神を信じ、神の御名を崇めつつ、心を高く上げて生 きてゆく僕であり続けたいと思います。