説    教    イザヤ書65章1〜2節  ヨハネ福音書7章25〜31節

「イエス・キリストの出自」

2016・09・04(説教16361659)  「出自」とは単純に申しますと「出身地」のことですが、両者には違いがあると思います。「出身地」と は生まれた土地のことだけをさしますが「出自」と申しますとむしろ、その人の人格形成上決定的な影響 のあった風土のことを言います。そこで私たちキリスト者の出自は何でしょうか。それは私たちが主と出 会い、霊において生まれ、育まれた環境、それこそ主の教会が私たちの「出自」なのではないでしょうか。 出身教会という言葉があります。母教会とも申します。英語で言うなら“Mother Church”です。私たち はまさに母教会として自分が連なっている教会生活を大切にしなければなりません。それこそ私たちの魂 の「出自」だからです。  パール・バックというアメリカの女流作家に「父母の思い出」という小さな美しい随筆があります。彼 女の両親は中国に遣わされた宣教師であり、彼女はその両親のもと中国で生まれ育ちました。子供の頃の 遊び友達は中国人ばかり。英語より中国語のほうがずっと得意であったそうです。パール・バックがこの 随筆で何よりも大きな感謝をもって描いているのは、毎日の家庭の中で献げられていた両親の祈りの姿で す。彼女はそこに「自分は人生において最も崇高なもの、最も大切なもの、最も勇気あるもの、最も慰め に満ちたものが何であるか、幼心にはっきりと理解した」と語っています。そして更にこうも書いていま す。「両親にとっては、たとえ故国からどんなに遠く離れていようとも、少しも問題ではなかった。この地 球上のどこにいても、神が共におられ、その地に使命を与えておられるゆえに、そこが彼らの故郷であり、 彼らの『出自』であったと、いまもはっきりと感じている」。そしてさらにこう語っています「自分にとっ て真の出自とは、まさにこの“両親の祈り”であり、私はそこから神の祝福を受けて人生へと旅立った。 その美しい出自の思い出と感謝のゆえに、私はいつも神に栄光と讃美を献げる」。  そこで、主イエス・キリストの「出自」とは、いかなるものであったでしょうか?。それは、主イエス・ キリストの恵みによって教会に連なり、御言葉に生きる僕とされた私たちの「出自」の恵みを知ることで す。この大切な問題について今朝のヨハネ伝7章25節以下は明確な福音の御言葉を告げています。私た ちは地上の出身地は持ちますが、それ以上の、真に持つべき「出自」を失ってしまっているのではないか …。この最も喜びに満ちた幸いから、私たちはいとも簡単に落ちてしまっているのではないだろうか。そ れをはっきり示すのが今朝の御言葉です。  ここには、人間どうしの付合いを大切にし、合理的で賢明なように見えるけれども、しかし実はたいへ ん傲慢な、神を讃美することから最も遠く離れてしまっている人々の(すなわち私たちの)有体な姿が示 されています。まず25節を見ますと「さて、エルサレムのある人たちが言った」とあります。この「あ る人たち」とは、律法学者の中でも穏健派を自認していたサドカイ派の人々のことです。何が真理であり、 何がそうでないか、見極める分別があると自認していた人々です。26節までのところを見ますと、彼らは 主イエスについて「この人は人々が殺そうと思っている者ではないか。見よ、彼は公然と語っているのに、 人々はこれに対して何も言わない。役人たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知っている のではなかろうか」と語ったと記されています。  ここでサドカイ人らが「役人たち」と申しているのは、エルサレムの最高法院(七十人議会)の議員た ちのことです。宗教と政治と裁判、つまり聖権と俗権と審判に関わる最高の権威を持つ人々であり、特に 選ばれた律法学者や神殿の大祭司が任命されました。このような権威ある人たち「役人たち」は「この人 (主イエス)が神から遣わされたキリストであることを、本当に『知っている』のではなかろうか」と彼 らは思ったわけです。なぜなら、公然と神殿の中庭で説教をしている主イエスを、誰も手にかけようとは しなかったからです。本当なら神殿の聖域で勝手に民衆を教えている主イエスを、石打ちの刑に処するこ とができたはずです。しかし誰もそうしないのは、たぶん七十人議会の議員たちが主イエスを保護してい るからにちがいないと彼らは考えたのでした。  それは、彼らが最も大事にしていたのは政治的な駆引き、つまり力と力との関係(バランス・オヴ・パワ ー)だったからです。もし七十人議会の議員(役人たち)の意志や判断に逆らって主イエスを殺そうとすれ ば、逆に自分たちの立場が危うくなるだろう。ここはひとつ我慢して、自重して、成り行きを傍観するの が得策だと考えたのです。彼らにとって重要なのは自分の立場を守ることだけでした。こうした自己保身 の姿勢からは正しいキリスト告白は生まれません。事実、彼らは続く27節以下で「わたしたちはこの人(主 イエス)がどこからきたのか知っている」と語っています。自分たちは主イエスの出身地を知っている。そ れは“ガリラヤのナザレ”だ。ガリラヤは異邦人の地、穢れた土地である。そのような穢れた土地の出身 者であるイエスが、どうしてキリスト(神の子)でありえようか。「ガリラヤからキリストは出ない」はずだ。 彼らはそのように考えたのです。  もうひとつ、彼らの心を捕らえていた問題は「匿名の救世主」という、古代イスラエルに広く流布して いた思想でした。それは、キリストはかならず超自然的な仕方で、突然「謎の人物」として世に現われる という思想です。預言者ダニエルやマラキがそれを証言していると言うのです。キリストはある日突然「天 から」直接降って来るものであって、言い換えるならキリストには出身地というものはないのだ。という ことは、エルサレムの住民に「ナザレ」という出身地が知られている以上、ナザレのイエスがキリストで ある可能性はありえないと彼らは判断したわけです。だからこそ27節に「しかし、キリストが現れる時 には、どこから来るのか知っている者は、ひとりもいない(はずだ)」と語ったのです。  そこで、イエス・キリストはもちろんですが、私たちにとっても、この地上の出身由来、つまり履歴書 に書かれるような地上の国籍や出身地よりも、遥かに大切な魂の「出自」があるのではないでしょうか。 信仰の世界、神の真理の領域において、私たちの本当の人生において、私たちが本当に大切にすべき「出 自」は世界万物の創造主なる唯一の神にのみあるのです。「私たちはいったい何処から出て何処へと向かう 存在なのか」。この人生の最も大切な問いに対して、私たちが答えるべき地名は、この地上のどこかにある 地名ではありえない。そのようなものが私たちの人生の礎ではない。私たちの人生の本当の唯一の永遠の 礎は、ただ父なる神のみもと「天」にあるのです。そうでなければ、私たちはこの地上での人生を真の勇 気と平安、慰めと希望をもって歩むことはできないのです。  イギリスに最初にキリスト教が伝えられたのは西暦4世紀の半ばごろ、コロンバというエジプトのコプ ト教会出身の宣教師によってでした。いまでもコロンバが上陸したスコットランドのアイオナ島には、そ れを記念した礼拝堂が建てられています。ほとんど同じ時期に聖アンドリュースという人がケルト族に福 音を伝え、この2つの流れがイギリス独自のキリスト教会(ローマ・カトリックの支配を受けない教会) を生み出すことになりました。そこで4世紀半ば頃の話として次の物語が伝えられています。当時イギリ スは7つの小国に分かれていました。その中のノーサンブリアの王がキリスト教を受け容れるべきかどう か悩んでいた。そこで王は国中の哲学者や賢人たちを招いて議論をさせました。議論は延々と続いたけれ ど結論は出なかった。すると、それまで黙って話を聴いていた一人の老賢人が王にこう語りました。「王よ、 私たち人間の一生はまことに儚く、矢のように過ぎゆくものです。それは譬えて言うなら、家族が灯火を 囲んで食事をしているとき、開いている窓から雀が入ってきて、反対側の窓から出てゆくようなものだ。 同じように私たちは、自分がどこから来てどこへと向かう存在なのか誰も知らない。この最も大切な人生 の問題に、キリスト教が確かな答えを与えるものならば、王よ、私たちはこれを信じなければなりません」。 このひと言によってノーサンブリアはブリタニアで最初にキリスト教を信じる地域になったのです。余談 ですが、私が尊敬する長老教会の神学者ジョン・オーマンはノーサンブリアのアニック(Arnwick)という 町の牧師を長年務めた人です。  私たちは、どこから来て、どこへと向かうべき存在なのか。この最も大きな問いに対する答えは、この 地上の出身地からは与えられません。それはただ主イエス・キリストが与えて下さる、最も確かな「出自」 だけが唯一の答えとなるのです。このことについて使徒パウロは、ローマ書11章36節に「万物は、神か らいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン」と讃美し ました。私たちは「真の神」であられるキリストが「真の人」となられたことを忘れてはなりません。キ リストの神性だけの信仰告白は、倫理と歴史を欠いた観念的信仰に陥ります。逆にキリストの人性だけの 信仰告白は、道徳的律法的社会的信仰となり、歴史の中に吸収されてゆくほかありません。私たちは、主 なるキリストは「真の神にして真の人」であられると告白するニカイア信条の正しい信仰を「出自」とす る伝統ある教会に連なっている僕たちなのです。キリストは真の神として天から遣わされ、ベツレヘムに 人としてお生まれになり、十字架の道を歩まれ、最後は十字架上に御自分の生命の全てを献げ尽くして下 さったのです。  この十字架のキリストによる罪の贖いによって、私たちは罪と死の支配から解放され、キリストの復活 の生命の支配のもとに生きる者とされ、教会に連なる幸いを与えられました。信仰の道を勇気と平安をも って歩む者とされているのです。そのような十字架の主によってのみ、使徒パウロは「万物は神からいで、 神によって成り、神に帰するのである」と語るのです。だからこの言葉は「キリスト告白」なのです。キ リストの主権の内に新しく生れる、キリスト者の幸いを告げているのです。主はあのニコデモに「だれで も新しく生れなければ、神の国にはいることはできない」と語られました。しかし、この世の出身地のこ とだけを考えていたニコデモは「(主よそれは無理です)人は年をとってから、もういちど母の胎内に入っ て、生れ直すことができるでしょうか?」と問うたのです。それに対して、主ははっきりと言われました 「よく、よく、あなたに言っておく。だれでも水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできな い。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である」。何よりも今朝の7章28節以下において、 主ははっきりと語っておられます。「あなたがたは、わたしを知っており、また、わたしがどこからきたか も知っている。しかし、わたしは自分からきたのではない。わたしをつかわされたかたは真実であるが、 あなたがたは、そのかたを知らない。わたしは、そのかたを知っている。わたしはそのかたのもとからき た者で、そのかたがわたしをつかわされたのである」。  主は言われるのです。あなたがたは(私たちのことです)私の出身地だけを問題にするのか?。しかし、 あなたがたが本当に知るべき、また持つべき出自は、真実なる神のみである。その神によって新しく生れ た者とならなければ、人間は誰も決して生きた者とはなりえない。だからあなたがたは神を信じる者にな りなさい。神の愛と真実の内に教会に結ばれ、新しく生れた者となりなさい。そうすれば、私の出自があ なたの出自となる。天に国籍を持つ者、神の国の民とされるのだと、主は明確に私たちに告げておられる のです。主は「あなたがたは、そのかたを知らない。わたしは、そのかたを知っている」と言われました。 私たちは本来、神を知りえず、知るすべさえ持たない者です。しかしキリストは真に神を知っておられま す。キリストのみが私たちに真の神を示して下さいます。キリストのみが十字架によって私たちの罪を贖 い、私たちを神のもとに立ち帰らせて下さるのです。神との交わりを持ちえず、義とされえなかった私た ちが、イエス・キリストの十字架によって、真の神の民とされ、キリストと共に生きる者とされてゆくの です。  これこそ、新しく生れる幸いであり、私たちの持つべき本当の「出自」なのです。まさにこの出自、パ ウロの言う「天の国籍」という真の出自に立ち帰った者とされて、私たちはいかなる時にも、どのような 経験や境遇においても、慰めと平安に満たされた者として、自分の生涯、また隣人に対しても、慰めと祝 福を携えてゆく者として、キリストの僕として、生きてゆく者とされているのです。