説    教    出エジプト記3章1〜6節   エペソ書2章1〜10節

「神の賜物」

2016・08・21(説教16341657)  エペソ人への手紙を書いた使徒パウロには、片時も心を離れない祈りがありました。それは生涯をた だキリストの証人として献げ、主の御身体なる真の教会を建て、委ねられた福音宣教と牧会の使命を果 たすことです。使徒行伝20章に、エーゲ海に面した港町ミレトにおけるパウロの「決別の説教」が記 されています。エルサレムに向かう最後の伝道旅行への船出にあたり、パウロはミレトから50キロほ ど離れたエペソ教会の長老たちを呼び寄せ、そこで最後の説教を語ったのです。この説教の中でパウロ は「わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神の恵みの福音をあかしする任務を果た し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない」と語っています。  同時に、愛するエペソ教会の長老たちに対して「どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべて の群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるた めに、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである」と教えています。この「すべての群 れに気をくばる」という言葉は、大牧者なるキリストのもとに、委ねられた群れ全体を“正しく導く” という意味です。エペソに限らず初代教会の時代は、ひとつの街に幾つもの小さな「群れ」があり、そ の全体を「教会」と呼んでいました。今日で言う中会(プレスビテリー)の起源と言えるでしょう。そ の「すべての群れに気をくばる」ことを主は求めておられるのです。中会形成の課題を担うことです。 「気をくばる」とは牧会のことですから、牧会とは本来、中会の形成とひとつのものなのです。  牧会とは、全ての人にイエス・キリストによる真の救いと慰めと祝福を宣べ伝えることです。そして 同時に、キリストの御身体なる真の教会を形成することです。言い換えるなら、教会に連なる一人びと りが教会の唯一の「かしら」なるキリストに結ばれたキリスト者の生活を喜び勇んで生き切ることがで きるように、御言葉をいつも正しく宣べ伝えることです。一人びとりが御言葉に養われ、キリストに結 ばれた生活を送るとき、そこにおのずから伝道のわざ、福音宣教のわざが前進してゆくのです。そして キリストの福音のみが鮮やかに輝き現れる教会が建てられてゆくのです。  さて、パウロにとって教会とは何よりも「神が御子の血であがない取られた神の教会」でした。ここ にパウロがエペソで語り続けた福音の核心があります。私たちはただ恵みによって招かれ、御子イエス の血によって「あがない取られた神の教会」に連なる幸いを与えられた群れです。そこで私たちに何が 起こっるのでしょうか。それをパウロは今朝のエペソ書2章1節以下にこう語っているのです。「(私た ちは)かつては自分の罪過と罪とによって(神の前に)死んでいた者」であった。そのような私たちを神は 4節にあるように「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもっ て、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵 みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さっ たのである」。  ここでパウロが明らかに告げていることは、私たちの教会は「神が御子の血によりてあがない取られ た神の教会」であるゆえに、そこに連なる私たち一人びとりに“罪の全き赦し”と“永遠の生命”が与 えられているという恵みの事実です。主イエスみずから教会と私たちとの関係を“ぶどうの樹の喩え” でお語りになったように、私たちが主の教会に連なることは、キリストがご自身の血によって「あがな い取って」下さった復活の共同体の枝とされること、すなわち「永遠の生命」を与えられることです。 教会に結ばれることはキリストに結ばれることであり、教会から離れることはキリストの賜わる生命か ら離れることなのです。  ところが、この最も大切なことが、なかなかエペソの人々には理解されませんでした。本当の信仰が、 教理的な教会が、思うように育たなかったのです。たしかに文化的・経済的には、非常に豊かなものを 持っていたエペソでした。それだけに教会もまた、エペソにおいては文化的施設、社会活動の一環とし て理解された面がありました。いわゆる“福音の世俗化”の問題にエペソ教会は直面していたわけです。 教会に集まる人の数は非常に多かったのです。しかし信仰の内実が伴わず、教会は人間のわがままが支 配する群れに傾きつつありました。キリストの恵みの主権が確立せず、教会に仕える奉仕者も自分のこ とばかりを考え、キリストの御業より自分が中心になっていたのです。  このことは、今日の私たちの教会に対しても言えるのではないでしょうか。理屈抜きに教会のために おのれを捨てて喜んで奉仕する、そういう奉仕者が輩出する群れへと私たちは成長しているでしょうか。 むしろ今日の社会で幅を利かせている「功利的価値判断」とまり、自分にとって都合が良いか悪いかと いう価値基準で、私たちは教会を見ていることはないでしょうか。キリストの愛と祝福を知る以前に、 実生活の上で、キリスト教が自分にとって役に立つか否かという視点で、教会に関わっていることはな いでしょうか。エペソの教会はたしかに教勢はふえてゆきました。それはエペソの人々にキリスト教が 「役に立つ宗教」と見做されたからです。ですからパウロはそのことを“教勢の増加”とは考えません でした。逆に言うならエペソの人々は、キリスト教が実生活に「役に立たない宗教」と判断すれば、い つでも教会から去ってゆくことは明らかだったからです。  事実西暦2世紀以後、ローマ帝国による組織的なキリスト教迫害が起こり、キリスト者であることが 実生活の不利益となったとき、エペソ教会は数の上では崩壊寸前かと思われるところまで教勢が落ちた のです。しかしエペソ教会の本当の歴史はそこから始まりました。残った信徒たちは長老会のもと堅く 結束し、どんなに少数になっても真の礼拝を献げ続け、キリストによる真の救いの喜びを世の人々に恐 れず証し続けたのです。やがて西暦4世紀を迎えますと、エペソ教会は“カパドキアの三神学者”と呼 ばれる卓越した神学者を輩出し、ニカイア信条に続くカルケドン信条の制定に大きく寄与するようにな ります。世界の教会をリードする神学的拠点になったのです。そのような成長がどうして起こったかと 申しますと、それはこの教会の礎を据えたパウロが、福音のみに堅く立つ教会を建て、一歩も妥協しな かったからです。  パウロには確信がありました。教会は十字架の主イエス・キリストという唯一の土台以外の土台を持 ちえないのであって、その土台の上にふさわしく建てられてゆかねばならないことを。この世の成長と 共に成長し、この世の衰退と共に衰退するものであってはならない。だからミレトでの決別の説教にお いても、長老たちに対して「今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、 あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある」と語りました。「教 会に集まる人の数が多くて結構だ、この勢いで大いに頑張りなさい」と説教をしたのではないのです。 そうではなく「今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる」と言いきっているのです。 ただ活ける神の御言葉のみ、大牧者なるキリストのみに、私たちに「徳をたて(まことの教会を建て)、 聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある」からです。  それゆえに、パウロは第一コリント書2章でこのように語っています。「兄弟たちよ、わたしもまた、 あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。な ぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの 間では何も知るまいと、決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、 ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と 力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるもの となるためであった」。  私たちもまた、私たちこそ、「神の力」すなわち十字架と復活の主イエス・キリストによってのみ、真 の救いと祝福を与えられたのではないでしょうか。それはすなわち、今朝の2章4節以下にこうあるこ とです。「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過に よって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるの である――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである」。 ですから8節にはこう告げられています「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰による のである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるもので はない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いを するように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが良い行いをして日を過 ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」。  私たちは、主イエス・キリストが私たちの救いのために十字架に死んで下さった恵みの事実を「アー メン」とあるがままに受け入れ、告白し、教会に連なることによって、キリストによる「神の賜物」で ある永遠の生命、新しい復活の生命に生きる僕とされたのです。その眼に見える“しるし”こそが洗礼 です。洗礼を受け、キリストと共に、その十字架の死にあずかる者として、私たちは、キリストの復活 の生命に結び合わされた僕たちなのです。だからこそパウロは6節に「共に天上で座につかせて下さっ た」とまで語っているのです。主が私たちのために、天に永遠の住処を備えて下さったのです。礼拝者 として生きることは、この地上の旅路を、すでにキリストの絶大な勝利の御手に支えられ、贖われた者 として、天に国籍を持つ者として生きることです。  たとえどのような、激しい世の戦いや悩みの中にあっても、キリストは私たち一人びとりを、既にご 自身の永遠の勝利にあずかる僕として、主の弟子として、祝福と平安の内に世の旅路へと遣わして下さ います。だから6節の言う「座につく」とは安心だと言って座りこむことではない。自分の穴に蹲まる ことではない。その逆です。教会によってキリストに永遠に結ばれた者として、私たちはどのような時 にも、悩みや悲しみの中にも、慰められつつ、力を受けつつ、安心して主と共に立ち上がり、勇気をも って主と共に歩む者とされているのです。そのような“キリストの平安”を私たちはいま「神の賜物」 として戴いているのです。  パウロは今朝の最後のエペソ書2章10節に「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするよう に、キリスト・イエスにあって造られたのである」と語っています。私たちは不思議に思います。戸惑 います。私たちの内にどうして「良い行い」がありうるのかと。しかしこの「良い」とは「キリストの 恵みに生かされる」という意味です。私たちの功績などではない。キリストが私たちを通して、私たち の内に、ご自身の確かな愛と祝福を現して下さるのです。それが「新しい生活」を造ります。そこでこ そパウロが語る「わたしたちは神の作品」という言葉が明確になります。私たちはキリストの愛と祝福 を世に現す「新しい生活」を「神の賜物」として与えられているのです。そこに、私たちがキリスト者 として、真に健やかに、勇気と平安をもって生きうる、決して変わることのない祝福があるのです。