説    教   イザヤ書46章3〜4節  ピリピ書4章4〜7節

「主は近し」

2016・08・14(説教16331656)  「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容 を、みんなの人に示しなさい。主は近い」。使徒パウロは今朝のピリピ書4章4節以下を「主は近し」 という喜びの音信をもって始めます。この「主は近し」という福音はピリピ書だけのものではありませ ん。すでに聖書は創世記1章1節において「はじめに神は天と地とを創造された」と宣言し、この世界 万物が神の御業であることを明確に示しています。そして最後のヨハネ黙示録22章20節においては 「『しかり、わたしはすぐに来る』。アァメン、主イエスよ、きたりませ」との祈りで締め括られていま す。  神はこの世界万物を、聖なる目的をもってお造りになり、そしてその創造の御業とひとつである「救 い」を成就されるために、主イエス・キリストが再び世に来たりたもうという音信、これを“キリスト の再臨”と申しますが、聖書は「天地創造」と「キリストの再臨」という大切な2つの音信をもって、 歴史の初めと終わりを語っているのです。ということは、現在は中間時であるわけで、その中間時にお ける歴史形成の原動力こそ「主は近し」との音信です。これは、初めをも終わりをも神が主イエス・キ リストにおいて、私たちと絶えず「共にいて下さる」という音信であり、限りなき慰めと喜びの告知な のです。  そこで、私たちは毎週の礼拝のたびに使徒信条を歌い告白しています。その中に「かしこより来たり て、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」という告白があります。この告白を私たちはどれだけ正し く、真実に受け止めているでしょうか。私たちはこれが本当に、私たち人間のまことの救いに関わる告 白であることを、正しく理解しているでしょうか。初代教会のキリスト者たちは、この告白を文字どお り生命を献げて言い表しました。キリストが既に救いを実現して下さった。約束して下さった。その実 現と約束の現実の中に(神の恵みのご支配の中に)私たちは存在しているのだという慰めです。だから迫 害の中でも希望を失いませんでした。宗教改革者カルヴァンも今から460年ほど前、ジュネーヴで大胆 な礼拝改革を行ないました。カルヴァンの礼拝改革は聖書の御言葉を通して、初代教会の礼拝(つまり 教会のあるべき真の礼拝)を回復したものです。宗教改革は何よりも礼拝の改革です。御言葉の宣教と 聖礼典が正しく行なわれる、キリストの御身体なる教会の礼拝を回復し整えたことです。信仰と職制を 整えたことです。  ヨハネによる福音書の4章に、サマリヤのスカルの町はずれの井戸端で、主イエスが一人の女性と出 会われ、そこに「生命の水」をめぐる対話が始まったことが記されています。あの対話の中で、みずか らも知らずして激しい魂の飢え渇きを抱いていたあの女性が、いつしか主イエスによって導かれたのが “まことの礼拝とは何であるか”という問いでした。ヨハネ福音書4章19節以下です。「女はイエスに 言った、『主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、 あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています』。イエスは女に言われた、『女よ、 わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝 する時が来る。……まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そう だ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、 礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである』。女はイエスに言った、『わたしは、キリス トと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、いっさいのことを知 らせて下さるでしょう』。イエスは女に言われた、『あなたと話をしている、このわたしが、それである』」。  主イエスはこの女性に対して、人の手によらず「霊とまこととによる」真の礼拝の回復が「今きてい る」とお告げになりました。人間が真に人間たりうる唯一の生命の道として「まことの礼拝」がキリス トによって「今きている」これが「主は近し」という福音の内容です。礼拝は私たちを極みなく愛した もう真の神に対する私たちの感謝と讃美の応答です。赤ちゃんの成長には周囲の人たちの「語りかけ」(対 話)が最も大切です。それならばなおのこと、造り主なる真の神の「語りかけ」(交わり)においてこそ、 私たち人間は本当の生命を持つのです。主イエスはこの「生命」を失っていた女性をお訪ねになり、ご 自身の恵みによって神の「語りかけ」の中に、彼女の全生活を回復して下さいました。同じように今こ こに、私たち一人びとりに対して、主イエスは、ご自身の贖いの恵みによって建てられた真の教会に連 なり、キリストの御臨在の確かさうちに、神をわが主、わが父として告白する、唯一の真の礼拝を与え て下さいます。今ここでこそ私たちは「主は近し」との確信に生きる群れとされているのです。  カルヴァンが真実の礼拝を回復したのは、それはまさにいま申したような意味で、聖霊と御言葉によ る(「霊とまこと」による)主キリストの御臨在が鮮やかに証しされる礼拝を回復し再建したことでした。 その結果、今日私たちが献げているこの礼拝、御言葉と聖礼典(聖餐と洗礼)が一体になった礼拝が確 立したのです。私たちの礼拝はシンプル・リタージー(簡潔な礼拝式順)ですが、その簡潔さの中に宗教 改革の伝統が受け継がれているのです。なによりも聖書を通して明確に示されることは、ピリピの教会 もそうですが、真の礼拝者たる生活の中でこそ「主は近し」との確信と喜びとが生活のただ中に満ち溢 れることです。いま私たちはこの礼拝を通して、活ける贖い主なるキリストに出会っている。主は私た ちの永遠の贖い主として、近きにいまして下さる。この恵みの事実に打ちのめされ、新たにされる幸い において、時間的にもいっそう主の来臨に近いはずの私たちが、ピリピの人々よりも心鈍く、信仰が眠 っていることがあってはならないのです。  かつて冨士教会を牧された福田雅太郎先生が常々「日本の教会に最も欠けているものは健全な終末論 である」と語っていらしたのを思い起こします。「健全な終末論」とは今朝の御言葉で申しますところの 「主は近し」との確信に生きる礼拝者の姿であり信仰の姿勢です。主は私たちにいと近く在したもう。 それは礼拝(説教と聖礼典)に如実に現れるのです。それを生活の中心するとき、私たちの生活は自己中 心ではなくキリスト中心へと変えられてゆきます。真の礼拝は(「主は近し」との確信は)エゴイズムか ら私たちを自由にします。私たちは「主は近し」との告白に生きるときにのみ、本当の意味で“キリス ト者”であることができるのです。「終末論」のことを英語でエスカトロジー(eschatology)と申しますが、 それはもともと「目的」という意味のギリシヤ語「エスカトン」に由来しています。つまり「主は近し」 との「健全な終末論」に生きるとき、はじめて私たちは、人生の本当の目的を見出し「口先で主よ、主 よ、と唱えつつ、御父の御心を行なわない」生活ではなく、真のキリストの僕とされるのです。  それゆえに、使徒パウロは今朝の御言葉の4節以下に「あなたがたは、主にあって、いつも喜びなさ い」と告げているのです。もはや私たちの生活は根無し草のような漂流者の生活ではなく、神が導いて おられる救いの歴史において、かけがえのない神の恵みの器とされている僕の生活だからです。神がキ リストの御身体なる教会において、世界に現しておられる救いの御業と聖なる目的のために奉仕する僕 たちだからです。だからこそパウロは「繰り返して言うが、喜びなさい」と告げています。主なるキリ ストがあなたのすべての罪を贖い、あなたと永遠に共にいて下さる。「主は近し」。だから、あなたはど のような境遇にあっても、決してキリストの恵みの主権から離れることはないと、聖書ははっきりと告 げているのです。  そのとき私たちは「いつも喜びなさい」という命令形が、驚くべき自由の福音の音信であることを知 ります。つまり「主は近し」そして「主にありて」というキリストの現臨の2つの恵みが、私たちの生 活を「いつも喜んでいる」ものとなすのです。キリストが私たちのために十字架におかかりになったこ と。そして墓に葬られ、甦られたこと。そして天に昇られて父なる神の右に座したもうこと。そこから 歴史における「救い」を完成なさるために再び世においでになること。この事実こそ「主は近し」とい う恵みの事実の確かな根拠なのです。私たちはいま「主に結ばれて」ここに存在しているのです。キリ ストの勝利の内に、共に生かされているのです。  だからいま私たちは、ローマ書5章1節が告げるように「信仰によって義とされたのだから、わたし たちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」のです。そして同じローマ書5章10 節にあるように「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとす れば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」と告げられているの です。「そればかりではなく」とパウロは申します「そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得 させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」。そこでも改めて「主は 近し」と告げられています。そしてピリピ書4章6節に続きます。「何事も思い煩ってはならない。た だ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリ スト・イエスにあって守るであろう」。  スイス改革派教会に昔から伝えられた祈りに「キリストの香り」というものがあります。短い祈りで す。私はよくドイツ語で唱えます。「主よ、願わくはわれをして、キリストの香りを世に伝える僕となら しめたまえ。わが言葉も、わが思いも、わが行いも、なんじの赦しの恵みに輝かしめんことを。なんと なれば『主は近し』なればなり」。この祈りが、私たち一人びとりのものとなるところ、それこそこの礼 拝であり、礼拝において始まる新たな一週間なのです。他の誰でもなく、私たち一人びとりを、主はご 自身の「香り」を世に伝える器として、招いていて下さる、そして、世に遣わして下さるのです。まさ に「主は近し」との永遠の恵みの事実に生きる僕として、私たち一人びとりが、その祝福を伝え行く僕 とされていることを覚え、心を高く上げて信仰の道を歩んで参りたいものです。祈りましょう。