説    教    申命記10章17〜19節    エペソ書6章5〜9節

「真の神に偏見なし」

2016・08・07(説教16321655)  私たち人間が物事を見たり判断をしたりする時、2つの見方があると思います。ひとつは「大きな視 点から見る見方」もうひとつは「小さな視点から見る見方」です。「マクロの視点」と「ミクロの視点」 と言い換えることもできるでしょう。ある事柄や出来事に対して、なるべく大局的な立場から総合的に 理解しようとするのが「マクロの視点」。これに対して、なるべく小さな、身近なところ、個別の経験か ら物事を判断しようとするのが「ミクロの視点」です。例を挙げますなら、ある場所に庭を造るとしま す。その庭全体の設計図を描き、どこに何の樹を植え、何の花を咲かるか、そのためにどういう花壇を 作るか、全体を設計する立場が「マクロの視点」です。それに対して、そのような全体の設計図ではな く、花壇の片隅に咲く一輪の花に心を留め、庭の設計者になるよりも、花の美しさに感動する心こそ尊 いのだとする立場が「ミクロの視点」です。  そこで、私たちの社会は常にそのような“2つの視点”の間を行き来しているのではないでしょうか。 たとえば、それが端的に表れるのは職場における労使の場面です。職場にある問題が起こったとします。 そのとき、私たちは組織全体の利益を優先するべきか、それとも個々の人間の幸福や満足を第一に考え るべきか、この2つの価値観の間で揺れ動くことがあるのではないでしょうか。それは、国家と国民、 自治体と住民との関係でも同じことが言えます。国家という組織の存立が国民幸福の基本条件である。 だから国家の危機に際して国民が痛みを担うのは当然の義務であるとする「マクロの視点」がある一方 で、いやそうではない、現実に生活に困り、苦しんでいる人たちがいる以上、まずその人たちの幸福と 福祉が最優先課題である。国家とは国民の幸福に仕える機能にすぎないとする「ミクロの視点」もある わけです。最近では「市民運動」「草の根活動」という言葉が頻りに用いられ「ミクロの視点」に立つこ とこそ人間的であり正義なのだという論調に賛同する人々が多いようです。  しかし、大切なことは、たとえマクロであれミクロであれ、それが人間の持つ視点(価値判断)である かぎり、そこには必ず限界があり欠点があるのであって、完全ということはありえないのではないでし ょうか。むしろ「自分はどちらの視点に立つべきか」などという単純な二元論で善悪を決定できないと ころに、この世界と人間の問題の本当の難しさがあるのではないでしょうか。そこで確かなことは、私 たちはどのような視点を持つにしても、実は過ちをおかす者だということです。人間はどんなに公平に 物事を観ているようでも、実は偏った見方しかできないものなのです。カメラ本体が壊れているときに、 レンズを交換しても無意味なのと同じです。しかし私たちは、自分というカメラはいつも正常なのだ、 自分はいつも正しい視点を持っているのだと自惚れているのです。自分の視点は正しくて、間違ってい るのは相手のほうだと、自分を正当化し、相手を非難するのが私たちなのです。  これと同じ問題が、使徒パウロが心血を注いで伝道したエペソの教会にも現われました。当時のロー マ帝国の中にあって、キリスト教は奴隷階級の人々の間に急速に拡まってゆきました。ローマ帝国は奴 隷制度、つまり制度的・身分的な労使関係の上に成り立っていた国家でした。多数派としての奴隷階級 の生み出す富を、少数派の市民たちが消費することによって成り立っていた歪な社会でした。もっとも ローマ帝国における奴隷は、私たちが想像する屈辱的な奴隷ではなく、見た目においては自由人と何ら 変わることはなかったのです。芸術家や技術者や教師にも奴隷階級の人々が大勢いました。それは、ロ ーマが征服した周辺諸国の国民が戦利品として奴隷にされたからです。しかし、いくら緩やかであると はいえ、奴隷は主人の所有物であることに変わりはありませんでした。生殺与奪の権限を主人の手に握 られていたのです。その意味で奴隷に人間としての自由(基本的人権)はなかったのです。生存権すらも 主人の手中にあったのです。  そこで、当時のエペソ教会の中に起った問題とは何かと申しますと、たとえ奴隷であっても自由人で あっても、教会の中では対等のキリスト者同士であるということに、奴隷の所有者である主人(自由人) が不満を持ったのです。もともと奴隷と主人と関係について、パウロの教えはまことに明確でした。第 一コリント書7章22節に「主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、 召された自由人はキリストの奴隷なのである」と告げられています。これが奴隷と主人の問題に対する 聖書の基本的な教えです。つまり、奴隷であっても自由人であっても、主イエスによって召され教会に 結ばれている以上、キリストの前では対等な兄弟姉妹、平等なキリスト者、共に神の栄光を現わすべく 召された「主の僕たち」なのです。  事実、同じ第一コリント書6章20節には「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだ から、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」と教えられています。この「代価を払って 買いとられた」とは「贖われた」というギリシヤ語です。主イエス・キリストが、私たちの全存在を、 測り知れない罪もろとも十字架において贖い取って下さった。だからキリストのものとされた奴隷は、 キリストにおける自由人であり、逆に、キリストのものとされた自由人は、キリストの奴隷(主の僕)と されているのです。その意味で、たとえ社会にあって奴隷と主人の関係であっても、教会の礼拝におい ては主の御前に全く対等な「主にある兄弟姉妹」「キリストの僕」であり「共に御国の御業に仕える者た ち」なのです。  ですからそこに、不平不満が起ることのほうがおかしいのです。しかし人間は礼拝の場にさえ、教会 の中にさえも、自分の勝手な価値観を持ちこもうとするのです。教理(神の御業)よりも自分の気持ち(自 分の我儘)を大切にするのです。パウロの確信は「いかなる人間関係も神の御手から離れてはありえない」 ということにありました。だからパウロは、奴隷と主人という制度的な労使関係も、神の御手から新し く受けとる幸いを、私たちは与えられているではないかと教えているのです。労使関係の難しさは、そ こに偏った見方が支配することです。主人は常にマクロの視点で奴隷を支配しようとしますし、逆に奴 隷はミクロの視点で主人を批判するわけです。そこでパウロは、今朝のエペソ書6章5節以下において、 その双方に福音による新しい生活を宣べ伝えます。すなわち5節以下です「僕たる者よ、キリストに従 うように、恐れおののきつつ、真心をこめて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして目先 だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるよう に、快く仕えなさい」。そして、主人たる者に対しては9節以下に、こう勧告しています。「主人たる者 よ、僕たちに対して、同様にしなさい。おどすことを、してはならない。あなたがたが知っているとお り、彼らとあなたがたとの主は天にいますのであり、かつ人をかたより見ることをなさらないのである」。  ここで大切なことは2つの言葉です。まず5節に「キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心 をこめて」とあることです。これは奴隷と主人の両方に、つまり当時の全ての人々に告げていることで す。私たち全ての者に対する福音による新しい生活の幸いへの勧告なのです。私たちはどのような仕事 をし、また何をするにしても、いつのまにか、自分の利益だけが目的となって、その結果、偏った効率 主義・功績主義に陥ってしまうのではないでしょうか。つまり、成果が上がれば良いことと看做し、自 分もまんざらではないと自惚れ、逆に成果が上がらなければ、失敗だったと落ちこみ、自信を失い、原 因を追究し、自分や他人を審くことになるのです。しかし聖書は、自分を基準にして成果を問う私たち の頑なな価値観を、キリストに明け渡してしまいなさいと勧めています。それが「キリストに従うよう に…」とあることです。そして「恐れおののきつつ、真心をこめて」とは「十字架の主を見上げるまな ざしで」という意味です。否、何よりもまず、主なる神ご自身が私たちを変わらず見つめていて下さる。 その神のまなざしの中でこそ、はじめて私たちは頑なな自分を主の御手に委ねることができるのです。 自分の思いや価値観を絶対化してそれに従うのではなく、どのような仕事をするにしても、私たちはそ こで心から「キリストに従う」歩みをなすことができるのです。職種や立場は全く関係ありません。ど のような職種や立場であれ、私たちはその仕事を通して、キリストに仕える歩みをなすことができるの です。  もうひとつ、大切な御言葉は最後の9節に「彼らとあなたがたとの主は天にいますのであり、かつ人 をかたより見ることをなさらない」とあることです。これも全ての人々に告げられている福音の言葉で す。もともとこの「主は…人をかたより見られない」とある言葉は旧約聖書・申命記10章17節に由来 しています。そこには「イスラエルよ、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕えよ」と命じ られた後で、このように告げられているのです。「あなたがたの神である主は、神の神、主の主、大いに して力ある恐るべき神にましまし、人をかたより見ず、また、まいないを取らず、みなし子とやもめの ために正しいさばきを行い、また寄留の他国人を愛して、食物と着物とを与えられるからである。それ ゆえ、あなたがたは寄留の他国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で寄留の他国人であった」。  私たちは、人を偏り見ることしかできない存在です。自分の視点を絶対化する愚かな者です。しかし 主なる神は、絶対に人を偏り見たまわない。主イエス・キリストの父なるまことの神だけが、人を偏り 見たまわぬ唯一のかたなのです。先日ドイツ語(ルター訳)の聖書を読んでいて気が付いたのですが、ル ターは「偏り見る」という言葉に「名声を博する」あるいは「一目置く」という意味の“アンゼーエン” というドイツ語をあてています。つまりルターは「人を偏り見る」ということは、その人自身をではな く、その人の「名声」を見ることだと定義しているわけです。 そして、そのような人の評価(名声)だ けを人生の基準とするとき、私たちは自分をも他人をも「偏り見る」ことしかできなくなるのです。そ こに人間の存在の意味と理由さえ見失われてゆくことになります。人間の存在それ自体ではなく、その 人間の業績や能力だけが評価の対象になるとき、私たちはその人を「偏り見る」ことしかできなくなる のです。しかも、自分は人を偏り見てなどいない、正しい評価をしているのだと思いこむから、なおさ ら危険なのです。  その思いこみは、結局は自分もそのように評価されたいという自己願望の裏返しなのです。人を測る その秤で自分をも測り返しているだけなのです。そのような私たちに対して聖書ははっきりと告げてい ます。あなたは主イエス・キリストが生命をかけて贖い取って下さった「主の僕」ではないか。主はあ なたを教会の活きた枝として下さったではないか。主はすでにあなたの一切の罪の重みを十字架におい て担い取って下さったではないか。あなたはその贖いの恵みによって「主のもの」とされているではな いか。キリストに「買い取られた」者とされているではないか。それならば、あなたもまた、否、あな たこそ、キリストに結ばれて限りない生命を与えられた人である。主の御身体なる教会に結ばれ、御国 の民とならせて戴いている「神の僕」たちである。その私たちに、もはや奴隷と自由人との区別はない。 主にあって(主に結ばれて)私たち皆が、主の御業に仕える者とされているからだ。だからパウロはコロ サイ書3章11節にこう告げています「そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開 の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいま すのである」。また第一コリント書12章13節にはこうも告げられています「なぜなら、わたしたちは 皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプ テスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである」。  私たちは全て、キリストによって罪を贖われるまでは「罪の奴隷」に過ぎなかったのです。その罪の 奴隷であった私たちを解放し、真の自由を与えたもうために、主はみずからの全てを十字架において献 げ尽くして下さったのです。まさにこの十字架の主の測り知れぬ恵みによってのみ、私たちはここにひ とつの主の御身体とせられ、主の御業に共に仕え、主を唯一のかしらとして、主にある自由と喜びをも って主に従いつつ、それぞれの務めへと召し出されているのです。