説    教   イザヤ書40章3〜5節  第一ペテロ書1章22〜25節

「砂漠に主の道を備えよ」

2016・07・31(16311654)  神谷美恵子さんという、哲学者にして医者でもあった女性がいました。瀬戸内海の長島という小さな 島の「愛生園」というハンセン氏病患者のための施設で、死ぬまで医師として働いた敬虔なキリスト者 でした。神谷さんの著作集はみすず書房から出版されていますが、その中の一冊「人間を見つめて」と いう本の中にこのような一節があります。「戦後25年のあいだに、日本は物では豊かになったが、心は かえって飢えている…」。古典ギリシヤ語の優れた研究者でもあり、古代ローマの五賢帝マルクス・アウ レリウスの「自省録」を翻訳した神谷さんにとって、現代の社会は“大切な何か”を喪失したまま、偽 りの豊かさの海を漂流する一艘の小船に喩えられているのです。私たちは神谷さんが「戦後25年」と 言ったことを「戦後70年」と言い換えてよい。なおさらそこで見えて来るものは、70年前に較べて「心 はますます飢えている」という事実ではないでしょうか。これは哲学的と申しますより神学的な問題で す。言い換えるなら、この現実世界は大きな「砂漠」を抱えているのです。「物では豊かになったが、心 はかえって飢えている」という砂漠です。  皆さんは本物の砂漠を経験したこがあるでしょうか。私はエジプトのシナイ半島で岩石砂漠を歩いた ことがあります。直感的に「このまま1時間も歩いたら自分は死ぬ」と思いました。それほどの灼熱の 世界なのです。湿度はほとんど0パーセント、気温は50度近くもありました。砂漠の本質は「全ての 人間の生存を拒絶する」ことにあります。全ての存在の拒絶こそ砂漠の本質です。それならばなおのこ と、今朝の聖書の御言葉・イザヤ書40章の御言葉は、実に驚くべき福音の告知であります。  まず預言者イザヤは、主なる神が全世界にイスラエルの民を通して「語れ」と命じたもうた「慰めの告 知」を宣べ伝えます。1節です「あなたがたの神は言われる、『慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエ ルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終わり、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろ の罪のために二倍の刑罰を、主の手から受けた』」。これは歴史的には紀元前532年のバビロン捕囚の終 わりをさしています。「そのとがはすでにゆるされ、…もろもろの罪のために二倍の刑罰を、主の手から 受けた」とあることは、私たちが自分の罪を、自分の手で既に完全に贖ったということではなく、あな たを罪から救うために“来たりたもう救い主を見よ”との主なる神の恵みの宣言です。十字架の主イエ ス・キリストの福音こそが、ここに宣べ伝えられているのです。だから続く3節以下にはこう記されま す。「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっす ぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、 険しい所は平地となる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは、主の口が語 られたのである』」。  ここで言われている「荒野」と「さばく」の違いは何かと申しますと「荒野」とは「岩石砂漠」であ り「さばく」とは「砂砂漠」のことです。いずれも、あらゆる人間の生存を拒絶する熾烈な環境であり、 生命のありえない不毛の地です。神の栄光を現わしえない場所です。古代イスラエルの人々は、砂漠に は「悪霊」が住んでいると考えていました。神に“見捨てられた土地”こそが「荒野」また「砂漠」だ と考えていました。つまり、砂漠という熾烈な環境が単に人間を寄せつけないだけではなく、そこは“神 の栄光を現わしえない場所”だから、人間はそこに近づいてはならず、人間の住む場所とはなりえない のだと考えたのです。  ところが、預言者イザヤを通して、主なる神が語られた福音は驚くべきものでした。そこに、全ての 人々が歩む「大路」(広い道)が造られ、主なる神の栄光が現われると言うのです。「われわれの神のため に」とは「われわれの神の恵みのゆえに」という意味です。それは、私たちが主なる神をお迎えするた めの“凱旋道路”です。古代社会では、王が戦争に勝利をおさめるとその記念として、都の最も賑やか な場所に“凱旋道路”を造りました。主なる神は私たちのために、私たちを捕らえ支配していた全ての 罪の支配から私たちを解放し贖って下さった。罪と死の支配に対して絶大な勝利をおさめて下さった。 だから記念として“凱旋道路”が造られるのです。しかも、そこは賑やかな場所などではない。そうで はなく、生命なき不毛の砂漠(荒野)にこそ、その「大路」は造られるのです。  障害となる山と丘(これは峨々たる岩山のことです)は低くせられて平らになり、逆に、千尋の深い 谷間は埋められて平らになり、そこに「主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る」と告げられて いるのです。ここに今朝の福音の中心があります。その道路は、私たちが「救い主なる神と出会う場所」 です。そして「神と共に歩む場所」です。私たちが神の勝利の喜びに連なる「凱旋道路」です。十字架 の主イエス・キリストによる罪と死に対する絶大な勝利に、私たちはただ主を信じて教会に連なること により、連ならせて戴くのです。キリストの勝利が私たちの自由と幸いとなる喜びの凱旋礼拝に、私た ちはいま連なる者とされているのです。  どうか覚えましょう。この豊かな恵みは「砂漠」に現されるのです。「砂漠」にこそ主なる神の凱旋道 路が備えられ、私たちはみな共にその「栄光」を見る者としてここに招かれているのです。だから今朝 の御言葉の2節には「ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ」と告げられています。これは直 訳すると「同伴者としてエルサレムの心に語りかけよ」という意味です。主イエス・キリストがはっき りと示し、現わして下さった真の神は、私たちに対して「ここまで登って来なさい、そうすればあなた は救われるであろう」と言うかたではないのです。多くの宗教がそうした自力救済の道を説きます。修 業を積み、悟りを開いて、ある水準に達しえた者だけの「救い」を説きます。しかし主なる真の神はそ のような偽りの救いを私たちに告げたもうのではありません。そうではなく、真の救い主なる神は「来 たりたもう神」なのです。高みから私たちを見下ろし、睥睨し、登って来いと命ずる神ではなく、まさ に私たちの現実が生命なき「砂漠」であるがゆえにこそ、その砂漠のただ中に、私たちの罪と死の現実 のただ中に、測り知れぬ愛をもって独子イエスを与えて下さった神なのです。「来たりたもう」かた、そ のかたを私たちは「イエス・キリストの父なる神」とお呼びするのです。  実に「神はその独子を賜わったほどに世を愛された」のです。まことの主なる神は砂漠に生命を現し たもう神です。それが今朝の御言葉の5節に「こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る」 とあることです。この「主の栄光」とはキリストの十字架の出来事のことです。ヨハネ伝でも主イエス は、ご自分の十字架のことを「わたしの栄光」と呼んで下さいました。私たちのために測り知れないご 苦難を担われ、十字架にご自分の全てを献げ抜いて下さった恵みによって、私たちの「砂漠」の現実の ただ中に「主の栄光」(キリストによる真の救い)が現されたのです。しかも「人は皆それを見る」とあり ますように、その福音はキリストの御身体なる教会によって全世界に宣べ伝えられ、全ての人々を真の 永遠の生命へと招いているのです。だからこのかたは、生ける者と死せる者すべての、真の唯一の救い 主なのです。  「砂漠」も「荒野」も見捨てられた土地です。しかしまさにその「見捨てられた土地」でしかない私たち の歴史現実のただ中に、真の救い主はまっしぐらに来て下さいました。私たちの罪の性質は「落ちてゆ かざるをえない」ことにありますが、その「落ちてゆかざるをえない」私たちの存在の重みを罪もろと もに、どん底において受け止めて下さったただ一人の救い主こそ、十字架の主イエス・キリストにほか ならないのです。このかたが、私たちの存在の重みをどん底において受け止めて下さったこと、それが あの痛ましい十字架の出来事です。その贖いによって、私たちの「砂漠」の現実の中に「主の道」が備 えられたのです。私たちは主の教会により、復活の勝利の生命を戴いて、真の神と共に歩む「大路」を 歩む「御国の民」とされた僕たちです。今すでにここにおいて、活けるキリストの現臨のもと、私たち は砂漠の中の「大路」を歩む民とされているのです。  それゆえ、もはやそこは「砂漠」ではない。「荒野」ではないのです。キリストが私たちと共にいて下 さるからです。私たちの生きる限り、否、死を超えてまでも、主が共にいて下さる恵みのうちに、心を 高く上げて歩む者とされているのです。それゆえにこそ、そこは「イスラエル」(神の御支配)と呼ばれ、 また「エルサレム」(神の家)と呼ばれるのです。