説    教  サムエル記上1章12〜18節  マルコ福音書5章25〜34節

「心を注ぐ祈り」

2016・07・24(説教16301653)  「(われら人間にとって)苦しみそのものが人生の問題なのではない…私たちにとって本当の難問は『な んのために自分は苦しまねばならないのか』という問いと叫びに対して、人生が何の回答も与えてくれ ないことにあるのだ」。これは19世紀ドイツの哲学者ニーチェの言葉です。この言葉は今もなお新しい 響きとして私たちの心を打つのではないでしょうか。今日ご一緒にお読みしたサムエル記上1章にはハ ンナという一人の女性が登場して参ります。彼女もまた大きな苦しみを負った女性でした。しかもニー チェが言うように、彼女を最も苦しめていた思いは「なんのために自分は苦しまねばならないのか」こ の問いに人生が何も答えを与えてくれないことにありました。  ハンナにはエルカナという夫がいました。しかしこのエルカナには2節にあるように「ふたりの妻」 がいました。もう一人の妻ペニンナには息子と娘がいましたが、ハンナには子供は与えられませんでし た。夫エルカナはハンナを愛していなかったわけではありません。5節を見ますと「エルカナはハンナ を愛していた」と記されています。しかしこの夫の愛も、ハンナの苦しみの解決とはなりませんでした。 その様子が1章8節に記されています。「夫エルカナは彼女(ハンナ)に言った、『ハンナよ、なぜ泣く のか。なぜ食べないのか。どうして心に悲しむのか。わたしはあなたにとって十人の子どもりもまさっ ているではないか』」。エルカナはここでハンナに、自分の愛は十人の子供の存在にもまさるものだと言 っています。この言葉に偽りはなかったでしょう。しかしそこにエルカナの傲慢が潜んでいました。自 分はこんなに相手を愛しているのだから、相手のことを誰よりも良く知り、理解しているはずだという のは、私たちの陥りやすい思い上がり(神に対する傲慢)ではないでしょうか。しかもエルカナはここ でハンナに、自分がこんなに愛しているのに、あなたが悲しむのは“おかしなことだ”と言っているの です。いわば自分の愛を盾に、妻の苦悩を「間違っている」と審いているのです。ここにも、私たちのよ く陥る過ちがあります。  私たちは、夫婦はもとより、親子、兄弟、親戚、友人、知人、同僚、近隣、その他あらゆる人間関係 において、本当に相手の苦しみに耳を傾けておらず、自己主張のみを盾にして審いていることが多いの ではないか。それは結局、自分が中心になって、相手に見返りを求めていることです。そして相手が答 えてくれないとき、怒りや失望に変わるのです。だから、エルカナの言葉はハンナの救いとはなりませ んでした。人を愛することは、相手のことを「自分がいちばんよく知っている」と思うことではありま せん。そうではなく、たとえ理解不可能な「苦しみ」がその人を支配する時にも、ただひたすらにその 人を信じ、その人の傍らに寄り添い、その苦しみを共にすることです。それが「愛する」ということな のです。  これを逆に申しますなら、私たち人間は、最も大切な愛においてこそ弱く、脆く、頼りない存在なの です。愛にさえ“無理解”と“審き”が侵入してくるのです。それは全ての人間関係において言えるこ とです。それゆえ「愛の問題」を突き詰めるとき、私たちは「信仰の問題」に行き着かざるをえないの です。ニーチェは愛の問題から人間のエゴイズム、そして自己神格化、最後に絶望というコースをたど りました。しかし聖書が示す人間の道はそれとは正反対の生命の道です。聖書は「神は死んだ」と叫ん だニーチェの叫びをも包み抱いて、私たちの救いのために十字架に死んで下さった唯一の神の御子イエ ス・キリストへと私たちを導きます。苦しみのゆえに孤独になり、絶望に陥ってしまった者を、その孤 独もろともに、かき抱くようにしてご自身の恵みの内に包み抱き、極みまでも愛して下さる唯一の主が、 イエス・キリストが、いま私たちに出会っていて下さるのです。その十字架の主こそ、私たちの人生の 真の主であり、あらゆる人間関係の中で私たちを絶望から救って下さる奇跡の出来事です。愛を本当に 追及すると、キリストに行き着くほかはないのです。本当に人を愛することは信仰の問題に行き着くほ かはないのです。  だからこそ、ハンナは「神の宮」に行き、涙ながらに祈りを献げます。10節を見ますと「ハンナは心 に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた」と記されています。それは「シロで彼らが(エルカナの 一族が)飲み食いしたのち」の出来事でした。「シロ」は聖所(神を礼拝する神殿)のあった場所です。 エルカナの一族が楽しく飲み食いする中で、ハンナは独り離れてシロの聖所で「はげしく泣き」ながら 神に祈りを献げました。この10節の「心に深く悲しみ」とある元のヘブライ語は、ヨブ記3章20節に ある「心苦しむ者」と同じ言葉です。よく私たちは「苦しい時の神頼み」という言葉を軽蔑します。し かし実を申しますなら、人間の本当の問題は「苦しい時の神離れ」になることにあるのではないでしょ うか。ハンナはどうにもならない苦しみの中で、その苦しみと絶望のあるがままに、主なる神の御前に 進み出で、自分の「魂を注ぎだす」祈りを献げたのです。これは一時の祈りの姿などではなく、彼女の 信仰の生涯そのものでした。この「祈り続ける」信仰の姿勢こそ「キリストの贖罪にからみつく信仰」(バ ルト)です。  さて、ハンナの祈りは余りに深かったゆえに、神殿の祭司エリにすら誤解されてしまいます。エリは ハンナが「酔って」迷いごとを言っていると思ったのでした。14節に「いつまで酔っているのか。酔い をさましなさい」と言うエリに対して、ハンナは答えて申しました。「いいえ、わが主よ、わたしは不幸 な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。は しためを、悪い女と思わないでください。積る憂いと悩みのゆえに、わたしは今まで物を言っていたの です」。この「積る憂いと悩み」という言葉に注目しましょう。私たちの人生には、自分ではどうするこ ともできない“積る憂いと悩み”があるのです。健康であった人が病気になること。順調であった仕事 が失敗すること。楽しかった人間関係が修復不可能になること。計画していたことが予想外の悪い結果 を生み出すこと。家庭の中にも、わが子の成長にさえも、思いがけない困難が生ずることがあります。 数えるならきりがないでしょう。  それこそ「何のために自分はこんなに苦しまねばならないのか」明確な答えが与えられぬまま、しか も私たちは全力で「積る憂いと悩み」に向き合うことを余儀なくされるのです。だからニーチェは、現 代人はギリシヤ神話のシジフォスのようなものだと言っています。ギリシヤ神話で最も悲劇的な人物は プロメテウスですが、それ以上にシジフォスという人には救いの余地が全く無いのです。そこでは自分 が神になり代わる以外に救いはないという結論になります。自分が神になる道は絶望への高速直線道路 ですから、そこに現代人の救い無き悲劇があるというのがニーチェの結論です。大切なことは、そのニ ーチェの言う「救い無き悲劇」は、絶望をさえ担い取って十字架にかかって下さった主イエス・キリス トによってのみ、生命と祝福へと変えられるのです。それが今朝のサムエル記上1章の告げている福音 です。その喜びと幸いをさし示しているのがハンナです。  ハンナは申します「わが主よ、わたしは不幸な女です」と。これは「現代人の救い無き悲劇」という 必然的命題に直結します。ここでこそ現代人とハンナの祈りは結びつくのです。まさにそのような私た ち一人びとりに、福音による大きな救いと慰めが告げられているのです。それは15節にある「主の前 に心を注ぎだす」という言葉です。「主の前に」とありますからには、ここに唯一の救い主なる神が来て おられるのです。私たちに出会っていて下さるのです。どのようなかたとしてか?。十字架の主として です。十字架の主イエス・キリストのみが、私たちの「救い無き悲劇」を、神に対する罪を、ご自身の 死によって永遠に解決して下さったのです。そのような人生の唯一の主として「主イエス・キリストが あなたのもとに来て下さった」という福音の音信を、私たちは今朝の御言葉を通して聴くのです。まこ との神が、救い主が、われらと共におられるというインマヌエルの事実です。  私の手帳(牧会手帳)には、私が牧師になって今日までに葬儀を司式した約150名の人たちの名前が記 されています。今日は中村功さんが帰天されてちょうど6年目の記念日です。中村功さんは執事として 素晴らしい働きを献げて下さいました。謙遜で、誠実で、勇敢な、本当の主の僕でした。この中村功さ んが、最後に港赤十字病院の病室で語られた言葉を思い出します。その日、私が聖書を読んで病床で祈 りを献げたとき、功さんも祈られ、最後にこう言われたのです。「先生、私は世々の聖徒らと共に、来る べき主を待ち望みます。私は神を待ち望み、決して離れません」。その翌日、功さんは安らかに主のみも とに召されました。こうした信仰告白を、地上の最後の言葉としたところに、中村功さんの、まさにハ ンナのごとくに「心を注ぎ出だす」信仰の姿を見ました。たとえ死の陰の谷を歩むとも、贖い主なる神 と共にあり、死を超えたキリストの生命に支えられた主の証人の歩みが、そこにも輝いているのです。  神を信ずることの素晴らしさ、信仰の歩みの輝きは、苦しみや災いから逃れられるという“無事息災” とは違います。そうではなく、多くの憂いや苦しみや悲しみのただ中にあっても、なおそこで、十字架 の主に贖われた僕として、十字架の主と共にあり続ける者の幸いであり、神と共にある人生の素晴らし さなのです。それこそ「主の前に自分を注ぎ出す」祈りに生き続けることです。主なる神の御言葉と御 業に、自分の全存在、全人生を明け渡し、神の器とされた者の幸いであり喜びです。それを私たちも今、 主の御手から戴いているのではないでしょうか。  今朝、あわせて新約聖書マルコ伝5章25節以下を読みました。十二年間も「長血」を患っていた女 性を主イエスが癒したもうた出来事です。そこで34節に、主は恐れおののく女性に優しくお告げにな ります。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。この「安心して行きな さい」とは直訳するなら「わたしの平安のもとに生き続けなさい」です。主はここに連なる私たち全て の者に、「わたしの平安のもとに生き続けなさい」と告げていて下さるのです。  ハンナの祈りは、まさに十字架の主イエス・キリストによってのみ、限りない生命の祝福へと変えら れてゆく、私たち現代人の受けるべき唯一の救いを示しています。主なる神は私たちの全存在、私たち の全生涯を、恵みの御手にことごとく受け止め、その魂を根底から甦らせ、生かしめ、いかなる時にも、 限りない平安と喜びを満たして下さいます。まさにその唯一の主の御前にこそ、私たちはハンナと共に 「心を注ぎ出だす」幸いを与えられています。そしてその祈りの果てに、ハンナはサムエルという独り 子を与えられます。サムエルは十字架の主をさし示す預言者になります。私たちもそのように「心を注 ぐ祈り」を通して、ただその信仰の歩みによってのみ、十字架の主の恵みと、救いと、祝福と、幸いの 確かさを、さし示す僕とならせて戴けるのです。