説    教  エゼキエル書2章1〜7節  ヨハネ福音書15章20〜25節

「聖なる慰め」

2016・07・17(説教16291652)  あるとき主イエス・キリストは弟子たちに「わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものでは ない』と言ったことを、おぼえていなさい」とお語りになりました。これは同じヨハネ伝13章16節の 場面で語られた御言葉です。主イエスは十字架を目前にされて「よく、よく、あなたがたに言っておく。 僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない」と言われ たのです。  そこで私たちは、この主イエスの御言葉をいつも「おぼえて」いるでしょうか。この「覚える」とは 「信じる」という意味です。元々のギリシヤ語で申しますと「いま自分に与えられている救いの出来事 を信じる」という意味です。ただ言葉を記憶に留めるということではなく、主イエス・キリストにおい て全世界に与えられている限りない救いの出来事を、今この自分に与えられた福音として信じ、告白し、 主の御身体なる教会に連なって生きることです。それが、主の御言葉を「おぼえる」ことなのです。    さて、この御言葉において「主人」とは主イエス・キリストのことであり、また「僕」とは私たちの ことであることは明らかでしょう。私たちは主イエス・キリストに「まさるもの」でないことは至極当 然のことです。しかしそれは、ただ単に神と人間との本質的な違いということではありません。そうで はなく、主イエスがここで明らかにしておられることは、十字架の恵みの絶対性なのです。では十字架 の恵みの絶対性とはいかなることでしょうか。それは、主イエス・キリストの十字架の贖いの恵みに対 抗しうる罪の力は存在しないということです。いかなるこの世の力も、罪の支配も死の力も、十字架の 主イエス・キリストにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできないということです。それが十 字架の恵みの絶対性です。キリストの十字架の恵みにまさる勝利の力はどこにも存在しないのです。    すると、どういうことになるのでしょうか。そこでこそ明らかになる恵みは、私たちは今、どなたに 属する群れとして生きているのか、どなたに連なる者として生かされているのか、ということでありま す。主イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」と 言われました。そして「あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世 から選び出したのである」と告げたまいました。ここで明確にされていることは、私たちは今この教会 において、すでに主イエス・キリストに連なる群れとされているという事実です。キリストに属し連な る「僕」として生かされているという恵みの事実です。    その事実は、私たちがキリストの十字架の恵みの絶対性に連なる者とされている救いの恵みにほかな りません。キリストが私たちのいっさいの罪を担って十字架にかかって下さり、私たちのために贖いの 死を遂げて下さり、復活して下さったからには、もはや私たちを支配しうる罪と死の力は存在しないの です。それはキリストがことごとく十字架において打ち砕き、復活において勝利して下さったからです。 私たちはいま教会に連なり、キリストの十字架の贖いと復活の勝利の恵みに結ばれている者たちなので す。今ここにおいて「まことのぶどうの木」であられるキリストに連なる活きた「枝」とされているの です。  すると、そこで明らかになるもう一つの恵みこそ「主人」であられる主イエス・キリストと「僕」で ある私たちとの生き生きとした関係ではないでしょうか。それは、十字架を担って下さった神の御子と、 その十字架による限りない救いの恵みに連ならしめられている私たちとの関係です。それこそ「僕はそ の主人にまさるものではない」と言われた主イエスの御言葉の意味なのです。キリストによって全ての 罪を贖って戴いた私たちは、罪の贖い主なるキリストに「まさる」ものではありえない。それは言い換 えるなら、私たちは自分の罪の贖いと救いについて何ひとつなしえない存在だということです。私たち はほんの少しでも、自分の救いについて「キリストに協力した」と言うことはできないのです。私たち の力は何ひとつとして、自分の救いの役には立っていないのです。ただキリストの御力と御業のみが、 私たちの救いなのです。    だからこそ、それは限りなく確かなもの、絶対性を持つ恵みなのです。救いは少しも私たちの業では なく、ただキリストの御業でありますゆえに、私たちの救いは絶対に確かなものなのです。いかなる罪 と死の力も、キリストの御業の前にはひれ伏し、打ち砕かれるのです。それゆえにこそ、主イエス・キ リストは私たちの永遠の「主人」すなわち“まことの主”であられます。私たちはその「僕」です。そ れをいつも「おぼえていなさい」と主は言われるのです。“いま自分に与えられている救いの出来事とし て”その福音を信じなさいと言われるのです。ここに聖なる慰めがあります。  「信ずる者には、何でもできる」と、主は言われました。これはラザロの復活の場面でマルタに告げ られた御言葉です。ところが私たちはこの御言葉を疑うのです。いやいや、キリストを信じていても、 自分の思い通りにならないことは幾らでもあるではないか。病気も、災いも、防ぎようがないではない か。そう思ってはいないでしょうか。しかし本当に「信ずる者には、何でもできる」のです。なぜなら、 キリストは十字架において、私たちの全てを贖い取って下さったからです。私たちの「からだ」すなわ ち全存在を(身も心も魂も全てを)復活の生命に連ならせて下さったからです。だから、キリストを信 じて教会に結ばれた者には本当に「何でもできる」のです。  ローマ書8章32節の御言葉を心に留めましょう「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちす べての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。 私たちはイエス・キリストにおいて「万物」を神から賜わっています。存在を虚無に陥れていた罪から、 十字架の主によって贖われた私たちは、この世界と人生の全体を、同じ十字架の主から、限りない祝福 として賜わっています。  キリストに連なって生きる「聖なる慰め」に満たされた新しい生活は、譬えて申しますなら、夜が明 けて太陽が昇ることに似ています。太陽が昇ると全てのものが明るく照らし出されます。そのとき影の 部分もまたはっきりと現れるのです。光が強ければ強いほど、影の濃さも際立ってくるのです。それと 同じように、十字架の主の福音が世に宣べ伝えられるということは、その福音の光のもとで、隠されて いた人間の罪の姿もまた明らかにされるのです。私たち人間は罪と親和性を持っています。罪は私たち の体質そのものになっていますから、自分では自分の罪を知ることはできません。ただ福音の光に照ら されてのみ、私たちの罪は明らかになるのです。  そこで大切なことは、これはパスカルがパンセという本において強調していることですが、私たちは ただ一つの仕方において罪を知り、そしてただ一つの結論を与えられるのです。それは何かと申します と、私たちはただ、十字架の上に死にたもうた神の御子の死によってのみ自分の罪を知り、それと同時 に、神からの唯一の結論として「子よ、汝の罪、赦されたり」との大いなる宣言を、いま自分に与えら れている福音の出来事として聴くのです。    私たちの罪は、限りなく愛に富みたもう神の御子イエス・キリストが、あの呪いの十字架に釘付けに され、死んで下さらなければ贖われえなかったほど、それほど大きな根深いものであるということ。そ して同時に私たちは、十字架において罪を知るということは、ただ十字架の主イエス・キリストによっ て贖われたものとして、ただそのようなものとしてのみ自分の罪を知るということ。すなわち、自分の 前に立ち塞がるものとしてではなく、すでに主が打ち滅ぼして下さったものとして自分の罪を知るので す。だから使徒パウロは「キリストの内に自分を見いだす」幸いを語っています。キリストに結ばれる ことによって「古き人」(すなわち罪の支配)は終わりを告げた。そして「新しき人」(キリストの恵み のご支配)が私たちの中に始まったのです。 ここに、私たちに与えられている「聖なる慰め」があります。私たちはいま主の御身体なる教会におい て、その慰めに豊かにあずかる僕とされているのです。「わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさる ものではない』と言ったことを、おぼえていなさい」。この御言葉をいつも「おぼえて」いる私たちであ りたいと思います。