説     教   詩篇14篇1〜7節  ヨハネ福音書21章1〜4節

「救い主の顕現」

2016・07・10(説教16281651)  「そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされ た次第は、こうである」。この御言葉によって、今朝、私たちに与えられた福音の音信は始まっていま す。さて「また…あらわされた」とありますからには、この福音書の記者使徒ヨハネは、主イエス・ キリスト(救い主)の顕現(私たちへの現れ)の事実を大きな感謝をもって宣べ伝えているのです。私たち は、主が幾度でも「あらわれ」て下さらなければ、信仰の道を正しく歩むことができない者だからで す。私たちの信仰生活は、たえず主の「あらわれ」を必要としているのです。  しかし、この「あらわれ」は、ただ一方的なキリストの、私たちに対する「あらわれ」であるだけ ではありません。それは同時に、私たちの側の主イエスに対する応答をも求められているのではない でしょうか。言い換えるなら、キリストの「あらわれ」は、私たちとキリストとの“出会い”となっ てこそ、はじめて信仰の出来事となるのです。喩えて申しますなら、私たちが誰か人と会う約束をし た場合、相手の人だけが約束の時と場所に「あらわれ」ただけでは、それは“出会い”とはなりませ ん。私たちの側もまた、その約束の時と場所を守って、そこに「あらわれ」るということがなければ、 そこに“出会い”は出来事とならないわけです。つまり相手に対する応答が“出会い”には必要不可 欠なのです。  しかし、今朝の御言葉を読むとき、私たちは驚くのです。なぜなら私たちはそこに、キリストの側 の一方的な恵みだけを見いだすからです。言い換えるなら、今朝の御言葉においては、キリストの「あ らわれ」に対して、弟子たちの側の応答は何ひとつないのです。示されているのは辛うじて21章4 節の御言葉だけなのです。「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれが イエスだとは知らなかった」。  ここに「辛うじて」とありますのは、漁に出た弟子たちが舟から目にしたものは、ただテベリヤの 海(ガリラヤ湖)の岸に立っておられる主イエスのお姿だけだったからです。しかも弟子たちの側では、 それがまさか主イエスであられるとは夢にも思わなかった。弟子たちにしてみれば、ただ「こんなに 朝早く岸に立ってこちらを見ているあの人は誰だろう?」と不思議に思っただけでした。つまり弟子 たちは相手の「あらわれ」をただ目にしただけです。なんとも不思議な人だなあ、と思いながら、黙々 と弟子たちは、舟の上で漁具の後片づけをしていました。なぜなら3節にあるように「その夜はなん の獲物もなかった」からです。  ペテロをはじめ、トマスも、ナタナエルも、ヨハネも「他のふたりの弟子」も、みな熟練の漁師た ちでした。ガリラヤ湖はいわば彼らの庭のようなものです。いつどこでどうすれば魚が獲れるか、長 年の経験と勘によって熟知していた弟子たちでした。その弟子たちが、皆で協力して夜通し漁に精出 したにもかかわらず、一匹の魚も獲れなかったのです。“骨折り損のくたびれ儲け”に終わったのです。 それは彼らにとって屈辱の経験でした。弟子たちはみな無表情に黙ったまま、黙々と岸に帰る支度を していたのです。  まさに、その時でした。最初にその不思議な人影に気がついたのは、弟子たちの中の誰だったので しょうか?。また、いつからその人影を意識するようになったのでしょうか?。とまれ、長かった夜 の帳が開け、あたりが次第に明るくなるに従って、いつしか弟子たちは、一人の人が岸辺に佇んで、 優しくこちらを見ていることに気がついたのでした。  もともと、彼らが漁に出たのは「昔取った杵柄」をもういちど担ぐ以外に、なすすべがなかったか らです。頼みとしていた主イエスは十字架に釘付けられて処刑されてしまった。墓前に愛惜の涙を注 ごうにも、その遺骸さえ誰かに奪われてしまった。もはや主イエスを偲ぶよすがの全てを失った弟子 たちは、弟子となる以前の生活に戻るよりほか、なすすべがなかったのです。しかしその漁さえも、 一匹の獲物もないという不首尾に終わったのです。深い疲労と絶望感が、弟子たちを支配していまし た。  これと同じことが、私たちの人生にもないでしょうか?。やることなすこと全てが空回りして、い くら焦っても、努力しても、頑張っても、ますます深みにはまるばかりで、何ひとつうまくゆかない 時が、私たちにもあるのではないでしょうか。そうした時に私たちが頼みとするものは何でしょうか?。 弟子たちの場合には「昔取った杵柄」つまり漁師に戻ることでした。かしそれすらも失敗し、不首尾 に終わるとき、私たちの失望と疲れは極致に達するのです。もうどうでもいいと開き直るか、何もか もだめだと絶望するか、いずれの道しか私たちには残されていないのではないてしょうか。  まさに、そのような私たちが、そこで目にする一人のかたの姿があります。と申しますよりも、ま さにそのような私たちに、ご自分を「あらわし」て下さるかたが、恵みの岸に立っておられるのです。 このかたは、私たちに優しいまなざしを注いでいて下さいます。このかたは、いったいどなたなので しょうか?。たとえ私たちがまだ、そのかたとの“出会い”を経験していなくても、また、私たちが まだ、そのかたが誰であるかを知りえなくても、私たちの側のあらゆる経験と認識の地平を超えて、 既にそのかたは、私たちにご自分を確かに「あらわし」ていて下さる。その事実だけが大切なのです。 その事実だけを、今朝の御言葉は私たちに示しているのです。  そこでどうか、気をつけて下さい。夜通し報われぬ漁に悪戦苦闘していた弟子たち、その弟子たち が気がついた時には、既にそのかた岸に立って、弟子たちを見つめておられたのです。ということは、 そのかたは、主イエス・キリストは、弟子たちが気がつくずっと以前から、弟子たちを見つめ続けて いて下さったのではないでしょうか。主が共におられないことを嘆いていた弟子たちでした。主が取 り去られてしまったと途方に暮れていた弟子たちでした。主を失った現実に絶望していた弟子たちで した。しかしその弟子たちを、主はずっと見つめ続けていて下さっていたのです。そして、弟子たち が帰ろうとする岸辺に立って、彼らを持っていて下さるのです。そのとき、どうでしょうか、彼らが 帰ってゆくその岸は、もはや元の岸ではありえないのです。そこではすでに、私たちの人生にとって、 根本的に新しいこと、本当の意味で革命的なこと、真に驚くべきことが、起っているからです。  それは、そこに、全ての人の救い主にいます主イエス・キリストが、共にいて下さるという新しい 出来事です。言い換えるならそれは、いと高き聖なる神であられるにも関わらず、私たち罪人と徹底 的に連帯されるために、人となられて十字架に死んで下さったかた…永遠なる神の御子キリストが、 私たちのために、私たちと共に、私たちの内に、存在しておられるという出来事なのです。私たちは 毎日、通勤や通学、家庭生活を繰り返しています。いわば今朝の弟子たちのように、舟と岸とを往復 する毎日です。疲れと虚しさと絶望感に捕らわれることがあります。しかし、私たちが帰る岸に、主 イエスがお立ちになっておられる。そこで私たちを見つめていて下さる。待っていて下さる。そのた ったひとつの出来事において、それは、無限の新しさを持つ生活として、私たちのために備えられた 祝福となるのです。  それは、私たちが自分を知るということは、主イエスのまなざしの中にある自分を見いだすことだ からです。そこではもはや、私たちのまなざしが何を見ているか、さえも最終的な問題ではないので す。大切なことは、主イエス・キリストが既に私たちを見つめていて下さっているという事実だけな のです。いますでに、どのような時にも、私たちは主イエス・キリストのまなざしの中に置かれてい る。主が私たちを知っていて下さる。主が私たちを捕らえていて下さる。主が私たちを顧みていて下 さる。その事実だけが大切な唯一のことなのです。真に新しいこと、真に喜ぶべきこと、私たちの信 仰の歩みは、ただそこから始まってゆくのです。  だからこそ使徒パウロは語りました。私たちは自分を宣べ伝えるのではない、ただキリストのみを 宣べ伝えるのだと…。自分はたとえ、どんなに脆い土の器であっても、その土の器に神が与えられた キリストの恵み、キリストの生命の確かさは、それを宣べ伝えずにはおれないのです。そこに生きる 喜びと祝福は、決して私たちから奪われることはないのです。それが、私たちの新しい生活です。「も はやわれ生くるにあらず、キリストわが内にありて生くるなり」とは、そのような恵みの確かさを示 す御言葉です。  「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなか った」。パスカルはパンセの中でこう語っています。「汝ら心を安んぜよ。もし汝らにして我と出会わ ざりしなば、我を求めざりしならん」。この言葉の意味はこうです。主が告げていて下さる祝福です。 「安心しなさい。既に私があなたに出会っている。私があなたを捕らえている。だからこそ、あなた は私を求めているのだ(教会に連なっているのだ)」。ここに、既に全く新しい出来事が私たち一人びと りに宣べ伝えられているのです。私たちが、キリストの限りない愛と祝福の中に、既に生かされてい るのです。私たちの全存在は、いま既にこの「救い主」の贖いの恵みのもとにあるのです。人類の歴 史もそうです。「人類の歴史は言葉の最も正確な意味において宗教史」です。知らずしてまことの神を、 真の贖い主を、求め続けてきた歩みです。  それならば、その歩みに、確かな唯一の答えが、いま神の側から与えられているのです。今朝の御 言葉において、すでに私たちを、岸で待っていて下さる主イエスの恵みにおいて、私たち一人びとり の人生に、いついかなる時にも、救い主・贖い主なるキリストが、伴っていて下さるのです。その恵 みは私たちの生きる限り、死を超えてまでも、永遠に変わることはないのです。