説    教   イザヤ書53章1〜6節  ヨハネ福音書12章35〜40節

「人生の分岐点」

 豊橋中部教会にて 2016・06・26(説教16261649)  私たちの人生には、時に重要な決断を迫られることがあります。昔から思い切って決断することを「清 水の舞台から飛び降りるつもりで」などと申しますが、その例えが無理ではないほど難しい決断を迫ら れる場面が、私たちの人生にもあるのではないでしょうか。ヨーロッパの田舎に参りますと、村外れ、 町外れの岐かれ道のところに祠のようなものがあって、そこには十字架のキリスト像が置かれている、 そうした光景をよく目にします。さしずめ日本で言うところのお地蔵さんや道祖神のようなものですが、 しかし、それだけではない意味がそこにはあるように思います。  そもそも「岐れ道」というものは、私たちの人生そのものを現していると言えるのです。だから英語 やドイツ語で“危機”や“転換期”を意味する言葉は“岐れ道”という意味のラテン語に由来していま す。私たちは人生の“岐れ道”においてこそ、本当の意味での危機(転換点)に直面するからです。そ こで大切な決断を求められるからです。そして、何としばしば私たちは、その大切な決断において誤り をおかすことでしょうか。もしこの人生が、あの時の決断が、ビデオテープのように巻き戻せるのなら、 最初からやり直したい、そういう思いに駆られることがあるのではないでしょうか。  それなればこそ「岐れ道」に立つキリストの十字架を、私たちは単なる迷信と片付けることはできま せん。それは私たちが危機に立つとき、岐かれ道に立つとき、そこでこそ私たちは「人生のまことの主」 を必要とするからです。主よ、私たちと共にいて下さい。私がどちらの道を選ぶべきかお教え下さい。 そしてあなたの御心のある道を、主が喜びたもう道を選び取ることができるよう私をお導き下さい。私 たちはいつもそのように祈らざるをえない者だからです。そして大切なことは、その人生の「岐かれ道」 (危機)においてこそ、主イエスは私たちと共にいて下さり、私たちを支え、正しい道を選ばせて下さる 「救い主」なのです。ただキリストにのみ、私たちの人生の正しい唯一の指針があるのです。  ところで、今朝お読みしたヨハネ福音書12章35節以下36節において、私たちは不思議な事柄に出 会います。それは「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された」と記され ていることです。主はエルサレムの群衆がご自分をイスラエルの王に祭り上げようとしているのを知ら れるや否や、ただちに人目を避けて野山に籠もられ、そこで深い祈りの時をお過ごしになったのです。 それは、私たち人間の願いとキリストの御心との間には決定的な食い違いがあるからです。私たちはい つも、自分の幸福と満足を人生の目標としますが、キリストはいつも、ご自分を犠牲となして全ての人 を救うことを願っておられます。私たちはいつも、自分の願いや計画が実現することのみを喜びますが、 キリストはいつも、ご自分の思いではなく、父なる神の御心を行なうことのみを喜びとなさいます。私 たちはいつも、どうすれば自分が得をするかを考えますが、キリストはいつも、何が私たちの救いであ るかを知りたまい、そのためにご自分の生命をもお与えになるかたです。このような、私たちの心とキ リストの御心との食い違い(断絶)は、まさしく私たちの“罪”に由来するものなのです。  言い換えるなら、私たちの人生において最大の「岐かれ道」(危機)は常に私たちの内側にあるのです。 私たちの中にこそ“岐かれ道”が存在するのです。そのことを主イエスは今朝の12章36節に明確に語 られました。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」。主は私たちに「光を信じなさ い」と言われます。この「光」とは同じヨハネ伝1章9節にある「世に来てすべての人を照らす」とこ ろの「まことの光」つまり十字架と復活の主イエス・キリストをさしています。ですから主は36節の 御言葉によって私たちに「信仰」を求めておられるのです。  これを解きほぐして申しますと、私たちが人生において直面する“岐かれ道”の姿とは、突き詰めて 申しますなら、「まことの光」なる十字架と復活のキリストを信じ、キリストに従う者になるのか、それ ともなお“罪”の「闇の内」を歩む者になるのか、その二者択一の“岐かれ道”なのです。キリストを 信じキリストの御身体なる教会に連なって歩む神の僕になるのか、それともキリストを信ぜぬまま罪の 闇の中にとどまってしまうのか、その厳粛な“岐かれ道”に私たちは立たしめられているのです。  そこで、大切なことがあります。ここに集まっている皆さんの中には、まだキリストを信じていない かたもおられるでしょう。求道者のかたもおられると思うのです。そうしたかたにとっては、今朝の御 言葉はただ“岐かれ道”への決断を突き付けているだけなのでしょうか?。どちらかを「選べ」と迫ら れているだけなのでしょうか?。そうではないと思うのです。先ほどの1章9節には、キリストは「世 に来てすべての人を照らす」「まことの光」であると告げられていました。大切なことは、ここでの主語 はキリストだということです。  言い換えるなら、私たちの決断が主語なのではない。キリストの御業が主語なのです。この主語とは 「私たちの救い」です。私たちの決断が私たちを救うのではない。私たちのために主がなして下さった、 十字架と復活の御業こそが私たちの唯一永遠の「救い」なのです。だから、私たちはただ一人で「岐か れ道」に佇むのではない。そこに佇む私たちにいつも十字架と復活の主が共にいて下さる。だからこそ 主は「光を信じなさい」と、私たちに「信仰」を求めておられるのです。  それは、言い換えるならこういうことです。あなたは人生の「岐かれ道」に立って、どちらの道を歩 むべきか、それがわからないままでも良い。迷っているままでも良い。あなたに必要な事はただひとつ。 私を信じ、私に全てを委ねることだ。そうすれば、あなたはあなたの全存在を照らす「生命の光」を見 出すであろう。そのとき、あなたはもはや「闇」に追いつかれることはなく、永遠の御国の光が、あな たの全生涯を照らすであろう。そのように主は、はっきりと語っていて下さるのです。今朝の35節に こうありました。「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光の あるうちに、光を信じなさい」。十字架の主を信じ、主の御身体なる教会に連なり、礼拝者として歩むと き、私たちは人生の全体において、主がいつも共におられ、導いていて下さる恵みを知ります。それが 大切な唯一のことです。それこそ主が私たちに求めておられること、“信仰による新しい生活”なのです。  この“信仰による新しい生活”をさらに周知徹底させるため、福音書記者ヨハネは今朝の御言葉で旧 約聖書イザヤ書53章1節以下を引用しています。今朝の12章38節以下です。「預言者イザヤの言葉が 実現するためであった。彼はこう言っている。『主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の 御腕は、だれに示されましたか。』」。そしてイザヤは続く39節に「彼ら(は)信じることができなかった」 と語っています。このイザヤ書53章は「苦難の僕の歌」と言われます。キリストの十字架の出来事を 預言した言葉だからです。だから、イザヤが説く福音は人間の罪による断絶に留まらないのです。たと え私たちの“罪”という断絶がどんなに深くても、主なる神は愛する独子・主イエス・キリストを私た ちの救いのため、まことの自由と平和のために世に与えて下さった。神の御子が、私たちの歴史のただ 中にいらして下さった。神みずからが私たちの「岐かれ道」にお立ちになって下さる。その驚くべき恵 みを明らかにしているのです。  だからイザヤ書53章4節にはこう告げられています。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負った のはわたしたちの痛みであった」。5節にはこうもあります。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背 きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによっ て、わたしたちはいやされた」。  大切なのは彼の受けた懲らしめによって、わたしたちはいやされた」と告げられていることです。こ れこそ今朝の福音の内容であり中心なのです。ここに私たちは何を見るのでしょうか?。それこそ、私 たちの最大の“岐かれ道”すなわち私たちの底知れぬ“罪”のただ中に来て下さった十字架の主の御姿 です。まことに「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない」のです。しかし「すべての 人を照らすまことの光」なるキリストがその“岐かれ道”において私たちと共にいて下さるとき、私た ちはもはや行先を知らぬ放浪の民ではありえない。私たちの全生涯を通して、そこにキリストの真実が 輝いている。そこにキリストの恵みの導きが現れている。私たちの人生そのものが、共にいて下さるキ リストの恵みにおいて、神の栄光を現すものに変えられてゆく。その幸いと感謝を共有する群れとして、 いま私たちはここに招かれています。世にある全ての人々を、主はご自身の御身体なる教会へと、復活 の喜びの、生命の光の中へと、招いておられるのです。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信 じなさい」。  フランスの思想家パスカルは、この光なるキリストに従う生活を“恩寵への飛躍”と呼びました。私 たちには“飛躍”が必要です。しかし闇雲に飛躍するのではない。そこには明確な対象があります。そ れこそ十字架の主イエス・キリストです。私たちは十字架の主イエス・キリストに向かって自らを飛躍 させるべく神によって招かれているのです。それがパスカルの言う“恩寵への飛躍”であり「信仰」で す。使徒パウロもまた、私たちはキリストの恵みのもとにあるとき、もはや「空を打つような拳闘はし ない」と申しました。私たちがみずからの全存在を投げかけても、決して私たちを失望させることのな い唯一の主が私たちを招いておられるからです。  私は子供の頃、家で飼っていた子猫が高い木に上って降りられなくなったことがあります。そのとき 私は木の下から子猫を見上げ、手を広げて「ここに飛び降りろ!」と叫びました。すると子猫は木の上 から私の胸に飛び降りてきました。飛躍したわけですね。子猫は「かならず自分を受け止めてくれる」 と私を信頼したから飛躍した。譬えて申せばそれと同じように、神との断絶である“罪”を私たちは自 分の力ではどうすることもできませんが、そこに一人のかたが、十字架の主がお立ちになって呼びかけ ていて下さる。「さあ、私に向かって、安心して飛躍しなさい。私にあなたの存在の重みを、その罪もろ とも委ねなさい」と。そうすれば私たちはそこで知るのです。主は、私たちをかならず、かならずご自 身の愛の御手の内に受け止めて下さると。  なぜならば、主は、私たちの罪の重みを、既にあの十字架において全て受け止めて下さったかただか らです。罪なき神の子みずから、私たちの不義を身に受けたまい、私たちの病を負いたもうて、呪いの 十字架にかかって下さったからです。聖なる神ご自身が、私たちのあらゆる悲しみ、その罪の重みの全 てを、十字架において担い取って下さったからです。その恵みの御業の確かさはそのまま、私たちの救 いと生命の確かさなのです。その救いと生命の確かさはそのまま、私たちの教会の確かさなのです。主 はまことに、その十字架の御苦しみと死によって“われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、 われわれを癒して下さった”のです。私たちは実にこの主にのみ、私たちの全てを投げかけることがで きる。この「主」を信じてこそ飛躍することができるのです。  葉山教会の金曜日の祈祷会で、先日、私はスパージョン(C.H.Spurgeon)という19世紀イギリスの伝 道者の話をしました。スパージョンは15歳のとき回心(conversion)を経験します。それはある日の説教 でイザヤ書45章22節の御言葉「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは 神、ほかにはいない」を聞いたことによります。そして神学校に入学した16歳の時からスパージョン は説教者の歩みを始めます。植村正久もブラウン塾に入学した17歳の時に名古屋伝道をしています。 私の書斎に“Preaching Spurgeon”(説教するスパージョン)という絵があります。それは説教壇から離 れ、コミュニオンサークルに両手をかけて、会衆席に向かって身を乗り出すようにして、人々に決心を 促している姿です。「いまここに集る人は全て、キリストに自分を委ねなさい」と語り告げている姿です。 なぜスパージョンはこのように説教したのか?。それはまさに、ここで、礼拝において、主イエス・キ リストご自身が私たちに語り告げていて下さる恵みを知るゆえにです。「あなたの全存在を、あなたの人 生を、いま私に委ねなさい」と。私たちはいまエフェソ書5章8節の恵みを知る者とされています。「あ なたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」。 主は私たちをことごとく受け止めて「光の子」として歩ませて下さるのです。この大いなる約束こそ、 いかなる人生の分岐点においても、私たちを支え導いて生命の道に至らせる祝福なのです。