説    教      詩篇100篇1〜5節   ヨハネ福音書10章16〜18節

「教会と宣教の主」

2016・06・19(説教16251648)  私たちキリスト者にとって、信仰生活の中でいつも意識する大切な問題は、教会の外にいる人々(いわ ゆる未信仰者)の存在です。主イエス・キリストが来られて、福音を宣べ伝えられ、救いの御業を確立な さったこの世界に、どうしてかくも多くの、キリストを信じていない人々(未信仰者)がいるのかという ことです。この問いは決して、容易に答えられるものではありません。単なる数の問題でもないのです。 たとえば数百人の礼拝出席のある教会を見て、私たちは「すごい」と感じるかもしれない。「どうすればそ のように成長できるのか」と思うのではないでしょうか。しかしそのようないわゆる「大教会」といえど も、この世の中では本当に小さな群れにすぎません。  東海連合長老会では講壇交換という機会があります。今年は来週26日(日)がその日です。東海の全加盟 教会で一日だけ牧師の交換をいたします。たいてい電車で参ります。改めて驚くことは、どこに行っても 日曜日は大勢の人たちで賑わっている。普段あまり日曜日に電車に乗る機会自体ないものですから、なお さら強く感じるのでしょう。一歩教会の外ではこんなにも大くの人々があてどなく行楽に彷徨うのだと思 うとき、改めて私たちの責任を考えさせられます。わが国のキリスト教人口は総人口の約0.6パーセント。 1000人あたり6人と言われています。しかし南米ブラジルなどでは国民の98パーセントがカトリックで す。サンパウロの中心に聖マリア教会という大きな教会があり、そこには毎日(!)数百万の人々が集まり ます。または隣の国、韓国では国民のおよそ20パーセント(5人に1人)がクリスチャンです。ソウルで は毎朝暗い内から教会の早天祈祷会に出席する人で道路が渋滞する。「早天祈祷会渋滞」と言うのだそうで す。これを私たちはどう考えたらよいのでしょうか。そのような国ではキリスト者であることが当然のこ とですから、私たちのような問題意識は起こらないのでしょうか。そうすると今朝のヨハネ伝の読みかた も違ってくるのでしょうか?。  主イエスは言われました。今朝の御言葉の16節です。「わたしにはまた、この囲いにない他の羊がある。 わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群 れ、ひとりの羊飼となるであろう」。端的に問います。これは主イエスが私たちにノルマを課しておられる のでしょうか? そのノルマを十分に満たしているブラジル、十分ではないけれども合格点に達している韓 国のような国がある。かたやプロテスタント宣教160年になるのに合格点にはほど遠いわが国のようなキ リスト教後進国がある。そういうことなのでしょうか? スコットランドに「牧羊犬コンテスト」というの があります。どの犬が早く上手に羊の群れを囲いの中に追いこむことができるかを競うコンテストです。 私たちの伝道をこの牧羊犬に譬えるなら、私たち日本の教会は160年かかって1000匹の羊の群れの中か ら僅か6匹しか囲いの中に追いこめずにいるのです。今朝の御言葉の前にシッポを垂れてうなだれるほか ないのでしょうか?。  事実として、歴史上そのようなヨハネ伝の読みかたを教会はしてきました。しかし本当にそうなのでし ょうか。主イエスからの伝道ノルマとして今朝の御言葉は読まれるべきなのでしょうか?。そうではない と思います。もともと今朝のヨハネ伝10章16節以下の背景は、ローマ帝国による初代教会の迫害という 深刻な教会存亡の危機に直面して、各地の教会がそれこそ狼に散らされるようにばらばらにされた経験で した。その散らされた教会が再び一つになるという主の約束を、礼拝の中で人々は確信したのです。それ ばかりではない、教会の主にして宣教の主であにれるキリストは、まだ信仰を持っていない多くの世の人々 をも、いつの日かこの「囲い」の中に(教会の中に)導いて「一つの群れ」として下さる。その望みに初 代教会の人々は喜びつつ生きたのです。その希望を御言葉によって先取りし、主にある希望と感謝と讃美 の礼拝を献げ続けたのです。  しかし時代が下って10世紀以降・中世になりますと、ローマ・カトリック教会による解釈として今朝 の御言葉の「囲い」という言葉はカトリック教会の組織制度、また「ひとりの羊飼」とはローマ教皇のこ とだと理解されるようになり、ここに今朝の御言葉がノルマのように解釈されるように変質しました。そ ればかりではなくプロテスタント教会をこの「囲い」の外にあるものとして扱い、いつか全てがローマ教 皇のもとに纏められるのだという読みかたがされ、皇至上主義のカトリシズムへと変わっていったのです。  もちろん、私たちはそのように理解しません。と言うよりも主イエスはそのように語ってはおられませ ん。なによりも主イエスはここで、ついに「一つの群れ」「ひとりの羊飼」となるであろうと語りたまい「一 つの囲い(になる)」とは語っておられません。このことをイギリスのある優れた神学者(C.H.ドッド) は「一つの群れではあるが、多くの囲いがある」という言葉で現しました。主イエスが語っておられる教 会の姿は、ある特定の地上の組織制度に限定されるものではなく、数多くの組織制度が並立しつつ、しか もその全てが「一つの群れ」である「聖なる公同の教会」なのです。言い換えるなら「公同の教会」(エク レシア・カトリカ)という基礎の上に多くの建物があり、その個々の建物が長老教会であったり、バプテ スト教会であったり、ローマ・カトリックであったり、メソディスト教会であったりする。しかしどの建 物も「公同の教会」という唯一の基礎の上に建てられている。その意味において「一つの群れ」「ひとりの 羊飼」なのです。  だから私たちは、自分の属する教会だけが(目に見える囲いだけが)真の教会であり主の群れであると いう独善的な考えかたをしません。教会史の大家ハルナックは「自分の教会だけが完全だと考えることが 異端の始まりである」と語っていますが、そのとおりです。教会の公同性、つまりその教会が真にキリス トの御身体であるか否かは、その教会が纏っている衣装にではなく、その教会の信仰告白の正しさにある のです。私たちが顧みて糺すべきは、私たちがいつも正しい信仰告白に立つ群になっているか否かです。 言い換えるなら、私たちがいつも「ひとりの羊飼」なる主の御声のみを正しく聴く群れになっているか否 かです。それは何よりも礼拝において現わされます。私たちが真の礼拝を献げる群れになっているか否か、 それが本当に大切なことなのです。  ではそれは、具体的にどういうことでしょうか。使徒パウロはそれを第一コリント書14章24節以下に 示しています。「しかし、全員が預言をしているところに、不信者か初心者がはいってきたら、彼の良心は みんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝 み、『まことに、神があなたがたのうちにいます』と告白するに至るであろう」。  ここでパウロが言う「全員が預言をしている」とは、全員が神の御言葉(福音)によって生きているこ とです。全員が福音の喜びに生きる群れになっていることです。キリストをさし示す者になっていること です。そのとき、そのような礼拝の場に初めて入ってきた人がそこで何を見いだし、何を経験するか。そ れこそ「彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、その心の秘密があばかれ」ることだ とパウロは言うのです。それはどういうことでしょうか。私たち人間は誰もが人生の旅路において大きな 重荷を負っています。それは「罪」と「死」という重荷です。その重荷をいかなる人間の道も、知恵も、 力も、努力も、担うことはできません。  そこで私たちは意固地になるのです。頑なな心になるのです。自分がその重荷を最後の最後まで背負わ ねばならないと思いこむのです。自分を審き、他人をも審く思いが生れます。その結果、絶望が私たちの 人生航路を塞ぎます。進退窮まることになるのです。そして私たちは例外なくみずからの「罪」の重みに 押しつぶされてゆきます。罪の本質と目的は私たちを造り主なる「神の愛」から引き離すことです。イエ ス・キリストの「恵み」を見えなくすることです。その計略に私たちはまんまと陥ってしまう。罪は私た ちの自尊心、自惚れ、誇り、名誉心、敵愾心、向上心、知恵、善意、悪意、ねたみ、その他あらゆる私た ちの思いを用いて、私たちを「神の愛」から引き離し、滅ぼそうとします。私たちはそこで身動きが取れ なくなるのです。  しかし礼拝において、主の御言葉により「あなたのための救いの出来事」が宣べ伝えられるとき、そこ に私たちの思いを遥かに超えた主の御業が現れます。おのれの中に頑なに籠もっていた私たちの思いが御 言葉の真理に触れたとき、本当に解き放たれ、自由にされるのです。ここではもはや「罪」の重荷を自分 の中に抱えこまなくても良いのだとわかるのです。それが「彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの 者にさばかれ」ということです。そして「その心の秘密があばかれ」るのです。人生の重荷を、主の御手 に委ねる幸いが始まるのです。主は言われました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもと にきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。  この主の御声に従い、私たちはこの礼拝において御言葉を聴き、御言葉の御糧にあずかることによって、 まさこの主の御手に私たちの人生の重荷を委ねて生きる幸いに歩みはじめるのです。あなたは私と共に歩 む者とされている。私があなたの「罪」のいっさいを十字架において担い取った。あなたは永遠にわたし のものだ。わが子よ、わが恵みにおいて強かれと、主は私たち全ての者に語っていて下さるのです。その とき、私たちは「その結果、ひれ伏して神を拝み、『まことに、神があなたがたのうちにいます』と告白す る」にいたるのです。私たちみずからが、いつもそのような礼拝を献げる群れになるために、十分な恵み を主から賜わっているのです。これは私たちのことなのです。私たちがいまそのような礼拝者として、一 人でも多くの同胞に、福音による罪の赦しと、よみがえりと、自由と幸いとを宣べ伝え、証してゆく幸い に生きるのです。私たち一人びとりをそのような「主の証人」として下さるのです。  そのように顧みて参りますと、今朝の御言葉はまことに、主イエスの祝福であり恵みの約束であること がわかります。ノルマなどではない。あなたは役立たずの牧羊犬だと叱られているのではないのです。す でに御言葉において、聖霊において、そして何よりも主の復活の御身体であるこの教会において、私たち に豊かに与えられている祝福によって、いつの日かこの約束が成就する時が来るのです。全世界が「一つ の群れ」となり「ひとりの羊飼」なる。主の御声によって、罪と死から甦る時が来るのです。主がこの世 界になされた救いの御業が、完成する日が来るのです。だからこそ、主イエスは「わたしにはまた、この 囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない」と語られました。御自分の囲いの中に 「いない」から見放されるのではない。まさにいま「この囲い」に「いない」ことのゆえに「わたしはか れらをも導かねばならない」と主ははっきりと語って下さる。私たちは主がペテロに命じたもうた「わが 羊を養え」との御言葉を思い起こします。  主はここにはっきりと「いない」とか「他の」という言葉によって、教会にとって否定性を持ち他者性 を持つこの世の人々のことを「わたしは彼らをも導かねばならない」と仰せになるのです。キリストを否 定するから、教会にとって他者だから、どうでも良いというのではないのです。逆なのです。まさにその ような否定性を持ち、他者である他の人々をも「わたしは導かねばならない」と言われるのです。そして 私たちの教会は、この主イエスの御声に仕える群れなのです。つまりキリストを否定し教会に対立する、 そのような社会に対してこそ私たちは愛と責任を持っている群れなのです。数の問題ではないと最初に申 したのはその意味です。愛と責任は数を問題にしません。たとえキリスト者が全人口の0.6パーセントで あっても私たちは少しも落胆しない。また逆に、たとえキリスト者が全人口の100パーセントになっても それで十分とはしないのです。私たちがなすべき務め、主に対して果たすべき愛の責任は、そこに主の愛 したもう人間が存在するかぎり、主が十字架を担いたもうた世界があるかぎり、決して変ることはないの です。  だからこそ、私たちは今朝の大いなる御約束と祝福を感謝し、主の御名を崇めます。「わたしにはまた、 この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聴き従うで あろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう」。教会の主は同時に宣教の主であられ、 宣教の主は同時に教会の主であられます。この唯一の主の御業に仕える僕たる人生を、私たちは忠実に歩 んで参りたいものです。祈りましょう。