説    教    詩篇67篇1〜3節  ヨハネ福音書8章51〜54節

「永遠なる神の御業」

2016・06・12(説教16241647)  主イエス・キリストは常に謙遜なかたです。決してご自分の側から進んでご自分が「キリスト」また 「神の御子」であることを明らかになさいません。しかし主イエスの謙遜は、真理を損ない福音を曲げ 人々をして道を誤らせる者たちに対しては毅然として語るべきことをお語りになる“本当の謙遜”でし た。主イエスの謙遜は父なる神に対する全き従順でありましたゆえに、福音を曲げ人間を損なわんとす る力に対しては、主イエスは決然と対峙せられ、神の御心を世に明らかになさったのです。  今朝の御言葉において、パリサイ人らは主イエスに対して「あなたが悪霊に取りつかれていることが、 今かった」と口を極めて主イエスを非難しています。その理由は51節と52節に示されているように、 主イエスが「わたしの言葉を守る者はいつまでも死を見る(味わう)ことがないであろう」と仰せにな ったことでした。いつの時代にも神の言葉は罪の力にとっては“つまずきの石”ですが、悔改めて神に 立ち帰る人々にとっては神の建物(教会)を建てる「隅のかしら石」となるのです。御言葉の前に罪の力 がつまずき倒れるところ、そこに“神の救いの御業”が現れ教会が建てられてゆくのです。  そこで今朝の御言葉です。主の御言葉を聞いたパリサイ人らは主イエスを嘲笑い傲岸不遜に申します。 おまえはついに馬脚を現した「アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。それなのに、あなたは『わ たしの言葉を守る者はいつまでも死を味わうことがないであろう』と言われる」。そして53節以下にこ う申したのです。「あなたは、わたしたちの父アブラハムより偉いのだろうか。彼も死に、預言者たちも 死んだではないか。あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」。これこそパリサイ人らが主イ エスに突きつけた問いの核心でした。もっとも彼らは主イエスからお答えを聞く以前に、既に自分たち で勝手に答えを用意しています。だからこそ主イエスを「悪霊に取りつかれた者」と嘲笑ったのです。 その答えとは「ナザレ人イエスはキリストなどではありえず、ただの人である」というものでした。「信 仰の父」アブラハムでさえも死んで葬られ、預言者たちもみな同じように死んだではないか。それなら “人に生命を与える”というあなたは「アブラハムよりも偉大な者なのか?」そのように彼らは罵った のです。キリスト(神が世に遣わされた救い主)ではありえない者が、どうして人に“死を超えた生命” を与える言葉を語りうるだろうかと罵ったのです。  マタイ伝16章13節以下に、ピリポ・カイザリヤで主イエスが十二弟子たちにお訊ねになった大切な 問いが記されています。それは主イエスが弟子たちに「人々は人の子(主イエス)をだれと言っている か」とお訊ねになったことでした。弟子たちは口々に答えて申しました。「ある人々はバプテスマのヨハ ネだと言い、他の人たちはエリヤだと言い、またはエレミヤのような預言者だ、と言っている人もいま す」。すると最後に主イエスは弟子たちにこうお訊ねになったのです「それでは、あなたがたはわたしを だれと言うか」。  信仰生活において大切なことは、周囲の人々や社会がイエス・キリストについてどう評価しどのよう に理解しているかということではありません。大切な唯一のことは、いつも私たち自身がどのように主 イエスを信じ・告白しているかということなのです。この点がしっかりしていないと、私たちの信仰生 活は社会の風潮や時代の趨勢に翻弄される浮草のようになってしまいます。政治家はいつも世論の支持 率を気にするものですが、教会に生きる私たちキリスト者が仮初にも社会の支持率とキリストへの従順 を天秤にかけることがあってはなりません。  先日、私は久しぶりに恩師・熊野義孝先生の著書「日本キリスト教神学思想史」を読み返していまし た。この中で熊野先生は植村正久の神学を「戦いの神学」と言い表しています。それは植村の生涯を通 して静かな毅然たる勇気ある数々の戦いが主の教会形成のためになされたからです。特に1891年(明 治24年)の第一高等中学校における内村鑑三の「教育勅語不敬事件」に対する擁護、1893年(明治26 年)の井上哲次郎との教育論論争、そして1902年(明治35年)の海老名弾正とのキリスト論論争など が特筆されるものです。そのいずれもが決して過去の事件ではなく、今日の教会形成にも繋がる大切な 問題です。ひと言で言うならそれは「本当に神の言葉を聴き、キリストを主と告白する時にのみ、私た ちは真に自由な者となる」という問題でした。逆に言うなら私たちが正しく御言葉を聴いておらず、キ リスト告白者として堅く立っていないとき、私たちを数々の因習や観念=偶像が支配するのです。  たとえば植村牧師は1891年の「教育勅語不敬事件」の擁護に関して、この問題は突き詰めて言うな ら“人間の良心を冒しうる権威はこの世に存在するか否か”という問題であると見抜いています。教育 勅語に敬礼をしないことが国家を侮辱するという考えそのものが「偶像崇拝」であると植村は語ります。 「吾人は新教徒として、万王の王なる基督の肖像にすら礼拝することを好まず。何故に人類の影像を拝 すべきの道理ありや。吾人は上帝の啓示せる聖書に対して低頭拝礼することを不可とす、また之を潔し とせず。何故に今上陛下の勅語にのみ拝礼をなすべきや。人間の儀礼には道理の判然せざるもの少なか らずと雖も、吾人は今日の小学中学等に於て行はるる影像の敬礼、勅語の拝礼を以て殆ど児戯に類する ことなりと言わずんばあらず…陛下を敬するの意を誤まり、教育の精神を害し…明治の御代に不動明王 の神符、水天宮の影像を珍重すると同一なる悪弊を養成せんとす。吾人は敢て宗教の点より之を非難せ ず。皇上に忠良なる日本国民として、文明的の教育を賛成する一人として、人類の尊貴を維持せんと欲 する一丈夫として、かかる弊害を駁撃せざるを得ず」。  「それでは、あなたはわたしをだれと言うか」との主の厳粛な問いかけに対して、弟子たち(つまり 教会)を代表してペテロが答えたのです。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と。その告白に生 活と存在の全体をもっていつも忠実であり続ける私たちとされているのではないでしょうか。私たちは 改めてこのヨハネ伝8章31,32節を心に留めざるをえません。「もしわたしの言葉のうちにとどまって おるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理 は、あなたがたに自由を得させるであろう」。  実は今日のこのヨハネ伝8章52節以下の御言葉において、問われているのはパリサイ人のほうであ って主イエスではありません。パリサイ人たち、否、私たちこそ主イエスから「あなたがたは、わたし をだれと言うか」と問われているのです。私たちが「あなたは、いったい、自分をだれと思っているの か」と主イエスを問うのではないのです。主イエスの問いにこそ答えねばならない私たちなのです。そ れならここでもパリサイ人たち、否、私たちは本末転倒した姿を主の御前に曝しているのではないでし ょうか。主に問われている私たちがその問いを無視して、逆に主を試みようとしているとすれば、それ こそ私たち自らが「悪霊(罪)の支配を受けている」と言わざるをえないからです。  そこでこそ、主は永遠なる神として救いの福音を告げていて下さいます。主イエスはパリサイ人らを さえ救おうとされるかたです。私たちの眠った良心を目覚めさせ、悔改めと永遠の生命へと導くために、 御言葉を大胆にお語りになります。そこでこそご自分が誰であるかを鮮やかに示したまいます。それが 今朝の54節以下の御言葉です。「イエスは答えられた、『わたしがもし自分に栄光を帰するなら、わた しの栄光は、むなしいものである。わたしに栄光を与えるかたは、わたしの父であって、あなたがたが 自分の神だと言っているのは、そのかたのことである。あなたがたはその神を知っていないが、わたし は知っている。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。し かし、わたしはそのかたを知り、その御言を守っている。あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの 日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ』」。  ここに決定的な福音の真理が明らかにされました。私たちを救う“永遠なる神”の御心が示されたの です。アブラハムはキリスト・イエスの「日」を「見ようとして楽しんだ」のです。この「楽しんだ」 とは「神を信じ頼みとした」という字です。アブラハムはイエス・キリストの父なる神を信じ、来るべ きキリストの来臨を待ち望む信仰に生きた人なのです。だからこそ主はパリサイ人らに言われました。 58節です「よく、よく、あなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。 主イエスはまさにこの御言葉によって、ご自分が歴史を超えた存在、すなわち神と等しいかた=永遠な る神の御子であられることを公に言い表されたのです。ご自分の御業が“永遠なる神の事業”であられ ることを明確にされたのです。  この世界の内側には世界と人間の救いは存在しないのです。世界と人間の唯一の救いは、創造主にし て贖い主なる神にのみあるのです。みなさんはサルとネコの子供の運びかたの違いをご存知でしょう か?。サルは子ザルが母ザルにしがみついています。それに対してネコは子ネコが母ネコに運ばれてい ます。その違いが私たちの「救い」にも譬えられると思います。私たちの信仰は“サル型”ではいけな いのです。子ザルのしがみつく力が弱ったり、疲れたり、子ザルが病気になれば、母ザルから落ちてし まうからです。“ネコ型”は違います。たとえ私たちが何もできなくても、弱ったり、病気になっても、 母ネコが子ネコを運ぶように、主は私たちを最後まで運んで下さるのです。繋がっていて下さるのです。  そのことを主イエスはヨハネ伝15章5節に“ぶどうの木と枝の譬え”でお語りになりました。「わた しはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人 とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」。この15章5節でいちばん大切なことは「ま た、わたしがその人とつながっていれば」という主の約束です。最初の「人がわたしにつながっており」 とは私たちの信仰告白であり、教会に連なって生きる生活です。そこにさらに大きな主の約束が響いて います。それが「わたしがその人とつながっておれば」です。これは私たちのために主が担われた十字 架の恵みです。私たちの信仰生活の唯一の永遠の基盤は十字架の主の一方的な恵みにある。私たちの側 の信仰の深さや確かさではなく、キリストの恵みの真実の確かさに私たちの「救い」があるのです。  主イエス・キリストは、永遠なる神の、永遠なる御子であられる。ニカイア信条にあるように「神と 同質」なるかたです。だからこそこのかたによる「救い」は私たちのあらゆる罪の力をも打ち砕き、私 たちを罪の支配から自由にし、死を超えた新しい復活の生命を、信ずる者すべてに与えるものなのです。 だからパウロは第二コリント書5章17節に語りました。「だれでもキリストにあるならば、その人は新 しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。「キリストと 結ばれる人は誰でも」と聖書は告げているのです。誰でも無条件でキリストと共に、キリストの永遠の 恵みの主権のもとを歩む者とされているのです。だから私たちはあのアブラハムのように主イエスを信 頼し、主イエスに結ばれた者とされていることを喜び受け入れるのです。そうできるのはただ「恵み」 によるのです。キリストを主と告白し教会に連なって生きるとき、私たちは主にありて「勝ちえて余り ある」者とならせて戴けるのです。  このかたこそ、私たちの唯一永遠の救い主なのです。永遠なる神の御子のみが、十字架という決定的 な救いの恵みをもって私たちと共にいて下さり、また世にある全ての人々を等しく招いておられるので す。そこに私たちの尽きせぬ喜びがあり、慰めがあります。この主を信じ告白し、主の復活の御身体な る教会に連なって生きる私たちの人生そのものに、主にある喜びと慰めが満ち溢れてゆきます。その喜 びと慰めにおいて、いよいよ心を高く上げて、主に従ってゆく私たちでありたいと思います。