説    教     ミカ書5章2節   ヨハネ福音書7章40〜44節

「神の御子イエス」

2016・06・05(説教16231646)  エルサレムの人々の間に、主イエス・キリストの御業と御言葉について、様々な評価が起こり、人々 の間に「分争」が生じました。なによりもそれは、主イエスが「だれでもかわく者は、わたしのところ にきて飲むがよい」と語られたことです。年に一度のユダヤの「仮庵の祭」の最終日に、エルサレム神 殿の中庭で、主イエスはこの御言葉を「立って、叫んで言われた」のでした。「だれでもかわく者は、わ たしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水 が川となって流れ出るであろう」。  主は「私を信じる者は」と言われます。この「信じる」とは、ただ主なる神に対してのみ用いられる 言葉です。ここに人々の戸惑いが起こりました。それは主イエスの外見はどうであったかと申しますと、 みすぼらしい服をまとった、一人の人間にすぎません。このことに多くの人々はつまずきを覚え、そこ に「分争」が生じたのです。  この者は、ガリラヤのヨセフの息子イエスではないか。その母マリアも我々は知っているではないか。 その兄弟たちも我々の仕事仲間ではないか。またこの者にはパリサイ人のような教育も権威も無いでは ないか。貧しい庶民にすぎないではないか。そのような者がどうして「だれでもかわく者は、わたしの ところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は…その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」 などと言えるのか。そこに、人々の戸惑いとつまずきの原因がありました。  今朝の40節以下に、それはいっそうよく現れています。すなわち「群衆のある者がこれらの言葉を 聞いて、『このかたは、ほんとうに、あの預言者である』と言い、ほかの人たちは『このかたはキリスト である』と言い、また、ある人々は、『キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。キリスト は、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか』 と言った」とあることです。さらに43節を見ますと「こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生 じた」とあるのです。キリストの御業と御言葉をめぐって、果てしない議論が続いた様子がうかがえま す。さらに44節には「彼らのうちのある人々は、イエスを捕えようと思ったが、だれひとり手をかけ る者はなかった」ともあります。  主イエスは「わたしが来たのは、平和をもたらすためではなく、剣を投げこむためである」と言われ ました。今朝の場面はまさに、その御言葉を彷彿とさせる場面なのです。いっそのこと主イエスを「捕 え」て処刑しようという動きさえありました。しかし最後の44節を見ますと「だれひとり手をかける 者はなかった」と記されています。パリサイ人や祭司長らの強い圧力にもかかわらず、人々は主イエス に手出しすることはありませんでした。その理由としてヨハネは同じ7章の30節に「イエスの時がま だきていなかったからである」と記しています。この「時」とは、十字架の時のことです。  そして、主イエスはその「時」のことを、同じヨハネ伝の中で「わたしが栄光を受ける時」と語って おられます。ご自分が全ての人の罪の贖いとして十字架におかかりになる「時」を、主イエスは「栄光 の時」とお呼びになりました。「栄光」とは神がなさる救いの御業です。神がなさる救いの御業が、罪と 死の支配を打ち破って世に現される「時」が、いま主イエスによって「来ている」のです。それこそ十 字架のその「時」であると主は言われたのです。それならば、この「(イエスの)時」とは「十字架の時」 であると同時に、まさしく主イエスによる私たちの救いの「時」を現しています。  すると、どういうことになるのでしょうか。今朝の御言葉を私たちはどのように読むのでしょうか。 人々は「分争」に陥りつつも「だれひとり(主イエスに)手をかける者はなかった」。これを逆に読むな ら、こういうことになるのではないか。まさに人々が主イエスに手をかけた「時」に、あの十字架がゴ ルゴタの丘の上に立てられたのです。その「時」人々は声を限りに「十字架につけよ」と叫び、主イエ スに十字架を背負わせたのです。「分争」とは「分かれ争う」と書きます。それこそまさに十字架の出来 事へと繋がる私たちの罪の姿ではないでしょうか。人間どうしが互いに、自分だけが正しく絶対である と主張して譲らないことです。人間は不思議なものでして、自分は正しく、絶対だと思っている人が罪 をおかすのです。残酷なことを平気でするのです。それならば、主イエスが私たちのために担って下さ ったあの十字架は、まさしく人々が、自分だけが正しく絶対であると主張してやまないその「分争」の (おのれを義としてやまぬ道筋の)果てに立てられたものでした。  同じ新約聖書ヤコブ書3章には、私たちの存在と生活がひとつの「泉」に譬えられています。「泉が、 甘い水と苦い水とを、同じ穴からふき出すことがあろうか」(ヤコブ3:11)。ヤコブは言うのです「わた したちは、この舌で父なる神をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっ ている。同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべき でない」。まさにその「あるべきでない」ことをなすのが私たちなのではないでしょうか。今朝の御言葉 に現わされた人々の「分争」の姿こそ、ほかならぬ私たち自身の姿です。私たちこそ主イエスの十字架 を立てた張本人であり「呪いの十字架」を造った者たちなのです。  スイスの神学者カール・バルトが、あるクリスマスの説教の中で次のように語っています。幼子イエ ス・キリストを入れた飼葉桶と、キリストが担われた十字架とは、同じ森の木から切り出されたのでは ないだろうか?。ベツレヘムはエルサレムに近い場所ですからその可能性は大きいのです。この「森」 とは私たちの社会であり「木」とは私たちのことです。私たちの社会そして私たち自身、まさにその私 たちがクリスマスを祝い、同時にキリストに呪いの十字架を背負わせているのです。まさに「さんびと のろい」が同じ穴から出ているのです。  今朝の御言葉に示されている、主イエスを取巻く群集のさまざまなキリスト理解に、私たちは今日の 社会の縮図を見ます。大切な事柄、人間を救う真理に対して、いつも相対的な評価しか下しえずにいる 現代社会の姿です。ある人々はキリストを「ただの人にすぎない」と言い、またある人々は「社会革命 家だ」と言い、またある人々は「愛の偉人だ」と言います。しかしそこで決定的なことは、ここで人々 がいかに勝手な解釈を主張しても、その是非はともかく、そこに最終的に生じていることが「分争」に 過ぎないということです。まさにその「分争」の行き着く先に、あのゴルゴタの十字架が立てられてい るのです。  それならば、まさに主イエスはその十字架を黙って担って下さいました。罪なき神の御子が、罪の極 みにある私たちのために、贖いの「呪いの十字架」を背負われ、人々の嘲りと蔑みの中で、測り知れぬ 御苦難を受けて死んで下さったのです。墓に葬られる者となって下さり、陰府にまで降りて下さったの です。いと高き神が、陰府に降さって下さったのです。そうしてまでも、私たちの罪を贖って下さった のです。「あるべきでない」ことのみをしている私たちの罪を赦すために、神の御子みずから「あるべき でない」十字架を担って死ぬ者となられ、墓に葬られ陰府にまで降って下さった。それが十字架の出来 事なのです。  使徒パウロは「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信ずるだけではなく、彼のために苦しむこ とをも、恵みとして賜わっている」と語りました。私たちの信仰生活は、これと逆のものになってはい ないでしょうか。主にのみ十字架を負わせまつり、わが身とわが生活は安逸を求めるものになっていな いでしょうか。主は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負 うて、わたしに従ってきなさい」と言われました。私たちはキリストに従うこと(自分の十字架を負う こと)を恥としていないでしょうか。主が私たちに日々担うようにと求めておられる「自分の十字架」 とは“信仰の生活”です。信仰の生活、教会に結ばれた礼拝者たる生活のみが、キリストに従う私たち の健やかな生命の歩みなのです。  信仰生活には、この世で様々な困難(戦い)が伴います。しかし私たちは既に主イエスが勝利して下 さった戦いに召されている者たちです。信仰生活の戦いは勝敗が決まらない出たとこ勝負ではなく、既 にキリストが総大将として決定的な勝利をして下さっている戦いです。だから私たちは安んじて主に従 うことができるのです。日々「自分の十字架」である“信仰の生活”に勇気を持って生きる者とされて いるのです。罪の力も死の支配も、キリストのものとされた私たちに何の手出しもできません。私たち はキリストの溢れる恵みの主権のもとに堅く守られ、立たしめられているのです。その恵みが鳴り響く 場所、それは他でもない、日々「自分の十字架を負うて(キリストに)従う」信仰の生活であり礼拝者 の歩みです。  互いに互いを審き合う「分争」に現れた私たちの罪の姿は、あの十字架において頂点に達しました。 私たちは神の独子イエスが十字架におかかり下さらなければ贖われえなかったほどの罪の持主なのです。 まさしく主はそのような私たちの罪の重荷を担われ、十字架への道を歩んで下さいました。全ての者の 罪を贖う“十字架の主”として主は来て下さいました。私たちを「神の民」として下さるために…。御 言葉に叛く私たちを生命の糧に養われ、神を讃美しえない者をまことの礼拝者となし、罪と死の支配の 内にあった者を復活の生命によみがえらせ、失われていた者を見いだし、死んでいた者が生まれ変わっ て、キリストと共に歩む者として下さるために…。それが私たち一人びとりにいま起こっている神の救 いの御業なのです。そのために主イエスは十字架を「わたしが栄光を受ける時」と呼ばれ、その御苦し みの杯の全てを一滴余さず呑み尽くして下さったのです。  あの十字架の全ては、私たちの罪の結果です。それを主イエスは黙って担い取って下さいました。私 たちの生み出す「分争」(呪いと絶叫の嵐)の中を黙して歩んで下さいました。十字架において「すべて 事、終わりぬ」と宣言して下さいました。いま、あなたのもとに救いが来たと、十字架の恵みをもって 宣言して下さいました。だから、私たちは主を仰ぎつつ歩んで行きます。十字架の主イエスを「神の子、 救い主」と信じます。そこに私たち唯一完全な救いがあり、生命があり、平安があります。そこに私た ちの新しい歩み、礼拝者たる日々の歩みが、造られてゆきます。主が勝利されなかったいかなる戦いも なく、主が共にいて下さらないいかなる瞬間もありません。私たちの歩みはいつも、主イエス・キリス トの御手の内にあります。新しい週も、感謝と讃美をもって主を仰ぎ、主に従いゆく私たちであり続け たいと思います。祈りましょう。