説    教    詩篇103篇1〜5節   ヨハネ福音書8章42〜47節

「福音による生命」

2016・05・29(説教16221645)  何が人間を本当に活かすのか、人間は何によって真に生きた存在となるのか、それが古今東西人間社会 の最も重要な関心事でした。人間はただ物質的に満たされれば充分なのではありません。むしろ物質的に 豊かな現代においてこそ、人間の心を深く蝕む不幸な状況(精神的な貧困)が多いのではないでしょうか。 そこに人間と他の生物との決定的な違いがあります。私たちは人生の目的を物質だけに置くことはできな いのです。  かつて「社会主義」という名の壮大な実験が地球上の国家を東西に二分して行なわれました。マルクス の理論(社会主義革命の理念)は本質的には徹底的(ラディカル)なヒューマニズムです。人間中心主義です。 しかし人間の問題は人間中心主義では決して解決しないのです。だから70年に及ぶ社会主義革命の実験 は大きな混乱と分裂を残して終わりを告げました。今なお国際社会はその余波である数々の民族主義・新 国家主義のイデオロギーと対決を余儀なくされています。テロリズムや戦争の問題もその中で起っている のです。  では、人間は何によって“本当に生きた者”となるのでしょうか。この答えは簡単なものではありませ ん。現代は分裂と対立の時代です。イデオロギーは分裂を深めるだけです。人間の問題の真の解決が見い だせないこの時代に、聖書の御言葉は何を私たちに告げているのでしょうか。私たちは主イエスが語られ た福音の御言葉にこそ耳を澄ませねばなりません。主イエスは言われます。今朝のヨハネ伝8章43節で す。「どうしてあなたがたは、わたしの話すことがわからないのか。あなたがたが、わたしの言葉を悟るこ とができないからである」。  ここに主イエスは、御言葉を「悟る」という、聖書では珍しい言葉を用いておられます。「悟り」という と何か仏教用語のように思われますが、実は聖書にも「悟り」が語られています。ただ、聖書の元々の言 葉で「悟る」とは「耳が開かれる」という意味です。「耳を開く」ではなく「耳が開かれる」という受け身 の言葉なのです。キリストが「主」であられることを信仰によって知ることです。それが聖書の語る「悟 り」なのです。  私たちはここに、主イエスがなさったある癒しの出来事を思い起こします。マルコ伝7章31節以下で す。ガリラヤの海辺で御言葉を語っておられた主イエスのもとに、群衆が「耳が聞えず口がきけない(ひ とりの)人」を連れてきました。すると主イエスはその人をただ一人「群衆の中から連れ出し」彼の両耳 と口とを「エパタ」(開けよ)と言って開いて下さったのです。この人は主イエスの救いによって神の言葉 を聴き、主の御名を讃美する者に変えられました。神の言葉が聴こえない私たちの耳、神を讃美しえない 私たちの口を、主イエスが「開いて下さった」のです。ここにこそ聖書が語る「悟り」の出来事がはっき りと示されているのです。  それならば、主イエスがユダヤの人々に「あなたがたは、わたしの言葉を悟らない」と言われたことは、 主イエスを「信じない」ということと同じです。「悟らない」とは「主イエスを信じない」ことであり「悟 る」とは「主イエスを信じる」ことだからです。ここに仏教とキリスト教の「悟り」の決定的な違いがあ ります。仏教の「悟り」は“自分自身の内なるものに目覚めること”ですが、聖書が語る「悟り」とは“イ エス・キリストを神の子・救い主と信じること”です。ただそれによってのみ、御言葉を正しく聴く耳が 開かれるのです。「悟り」の主体はキリストであって私たちではないということが大切です。  まさにこの「悟り」から今朝の御言葉が正しく読み解かれてゆきます。まず主イエスは続く44節に「悪 魔」という激烈な言葉を用いて私たちの「罪」を指摘なさいます。「あなたがたは自分の父、すなわち、悪 魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうとして思っている。彼は初めから、人殺しであ って、真理に立つ者ではない彼のうちには真理がないからである」。これだけを読むといかにも厳しく、強 い叱責のように聞こえますけれども、主イエスは私たちを限りなく愛したもうゆえにこそ、私たちを支配 している“罪の現実”に対して仮借なき鉄槌をお下しになるのです。  「悪魔」と訳された元々のギリシヤ語“サターナー”の本来の意味は「神に叛かせる者」です。私たち を神の御言葉に叛かせるのです。私たちの人生を支配し、巧みに人の心を撹乱して神の言葉を聴こえなく させ、神に背かせようとするのがサタン(罪)の常套手段です。この世界には神の言葉などより価値ある もの(魅力的なもの)がたくさんあるとサタンは私たちを誘惑するのです。「神の愛」に気づかせなくさせ 「神の恵み」を知ることがないように巧みな誘惑で私たちの心を麻痺させるのです。私たちは知らず知ら ずの内に主が言われるとおり、この「悪魔」の「欲望どおりを行なおうと思っている」者にさせられてし まうのではないでしょうか。  この世のどんな知恵も、名誉も、学問も、経験も、知識も、この悪魔の策略に対しては無力です。むし ろこの世的な力に富めば富むほど私たちは悪魔の誘惑に陥りやすく、御言葉に叛く者になりやすいのです。 だからこそ主は「彼(悪魔)は最初から人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がな いからである」と言われました。私たちもまた「(自分の中に)真理を持たない」点では同じです。つまり 私たちの力では「罪の正体」を見破ることはできません。あたかも「罪」にこそ自由と幸いがあるかのよ うに錯覚してしまうのです。神ではないものを神として拝んでしまうのです。そして自分たちは「アブラ ハムの子」である、神のわざを行う者であると自惚れ、他者を審こうとするのです。それこそ今朝の44 節にあるように「罪」の「本音」は常に「偽り」です。だからキリストが「真理」の御言葉、人を活かす 唯一の神の言葉を語られても「罪」はそれを「悟る」ことをしません。  それで45節に主は「わたしが真理を語っているので、あなたがたはわたしを信じようとしない」と言 われました。このことをハイデルベルク信仰問答は「さかさまな存在」と語っています。私たちは「さか さまな存在」である。それは「罪」が私たちを支配している結果、私たちは「真理」を憎みキリストに叛 く者となることです。今朝の聖書の御言葉は恐るべき深みにおいて私たちの「罪」の真相を明らかにしま す。この私たちのどこに「救い」があるだろうかと思われるほどなのです。  しかし、まさにそこでこそ、今朝の46節以下の御言葉が響くのです。「あなたがたのうち、だれがわた しに罪があると責めうるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがたは、わたしを信じないの か。神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからで ある」。この厳しい主の御言葉がほかならぬ私たち一人びとりに向けられていることは明らかです。それな ら、この、どこにも“救い”などありえぬように見える私たちの“罪の現実”のただ中にこそ、主イエス・ キリストは私たちを永遠に活かしめる“生命の御言葉”を与えて下さるのです。否、ご自身が“永遠の生 命の言葉”そのものとして、私たちの只中に来て下さったのです。聴こえないはずの私たちの耳を、神を 讃美しえないはずの私たちの口を、「エパタ」(開けよ)と言われて「開いて下さる」のです。  旧約聖書イザヤ書6章に預言者イザヤの召命の出来事が記されています。イザヤはまだ青年であった紀 元前740年に、主なる神の召しを戴いて預言者とされました。イザヤが聖なる神の現臨に接したとき「わ ざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは穢れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に 住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる神を見たのだから」と申しました。しかし主なる神は、イ ザヤの口と言葉とを「燃える火」をもって清めて下さり、罪の赦しの恵みにおいて、新しい霊の生命を与 えて下さいました。その恵みによってイザヤは謹んで応える者になります。「ここにわたしがおります。わ たしを(あなたの御用のため)おつかわしください」。そのとき主なる神はイザヤにこう言われました「あ なたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。 あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない。あなたはこの民の心を鈍くし、その耳 を聞こえにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔 い改めていやされることのないためである』」。  これは実に不思議な御言葉です。預言者の務めは人々に神の御言葉を聞かせ、悟らせ、見せることでは ないでしょうか。それなのに主なる神は全く逆のことをお命じになる。それはなぜかと言うと、彼らは自 分自身の心で(人間中心主義=ヒューマニズムで)人間の問題を解決しようとしているからだ。自分自身の 心と耳と目で、真理を把握しうると自惚れているからだ。それではいけない。それでは人は決して活きた 者(悟った者)とはならない。それでは罪の支配から逃れることはできない。それこそ使徒パウロのいう 「行いによる義」に陥ってしまうのです。自分自身を救いの根拠とすることです。それではいけないと主 なる神は言われたのです。だからあなたは、その民の耳と心と目とを「閉ざして」しまいなさいと言われ たのです。  ては、主なる神がなされたことは、民の耳と心と口とを「閉ざすこと」だけだったのでしょうか。もち ろんそうではありません。自分の耳と心と目などいかに頼りにならぬものであるかを人々にわからせ、人々 に本当の「悟り」を与えるために主なる神はイザヤをお遣わしになったのです。それなら、神の御子主イ エスが世に来られたことは、なおさらそのためではないでしょうか。主イエスは私たちに本当の「悟り」 を与えて下さいます。その「悟り」とは「イエス・キリストを主と告白する信仰」です。そして主の御身 体なる教会に連なる新しい歩みです。私たちの耳、私たちの心、私たちの目、私たちの行いが、私たちを 救うのではない。救いはただイエス・キリストのみにあるのです。  私たちのあらゆる不確かさを打ち破って、主イエス・キリスト御自身が私たちの確かな“永遠の救い” の唯一の根拠となって下さるのです。それがパウロの言う「イエス・キリストを信ずる信仰による神から の義」を受けることです。救いの根拠は私たち自身にではなく、ただ私たちのために御苦しみを受け、十 字架におかかりになり、復活せられた主イエス・キリストにあるのです。それが聖書が人類に、そしてこ の現代社会に力強く告げる福音のおとずれであり、人をして真に活かしめる“生命の福音”なのです。  再び今朝の御言葉の47節に戻りましょう。「神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き 従わないのは、神からきた者でないからである」と主は言われました。大切なことは、ここに「神から来 た」唯一のかたが“私たちと共におられる”という事実です。教会は十字架と復活の主の御身体であり、 私たちは教会に連なることによって「神から来た」唯一のかたに堅く結ばれて信仰の道を歩むのです。そ れならば私たちは、いまここにおいて礼拝者として神の御言葉に聴き従う新しい生命を与えられているの です。御言葉に叛かしめるサタンの誘惑に屈することのない、キリストの絶大な勝利の御手にいま支えら れているのです。  それこそ、キリストの教会であり、キリストの教会に連なる私たちの新しい生命なのです。私たちは「行 いによる義」によってではなく「イエス・キリストを信じる信仰による神からの義」によって真に活きた 者となるのです。主はヨハネ伝6章63節にこう言われました「人を生かすものは霊であって、肉はなん の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。主の御言葉こそが「霊 であり、また命」なのです。その御言葉が私たちの全生活を“神の恵みの支配”に根ざす喜びと平安の生 活となすのです。この主の御贖いの恵みによって新しい生命によみがえらされた私たちに、もはや罪の支 配(悪魔)は何もなしえません。キリストの恵みの主権が私たちと共にあるからです。キリストの生命が 私たちを活かしめるからです。キリストが私たちを救われたからです。この音信こそ、私たちが今日の御 言葉を通して新たに聴くべき“生命の福音”の御言葉なのです。