説    教   エゼキエル書37章11〜14節  ローマ書8章14〜16節

「聖霊降臨の喜び」

2016・05・15(説教156201643)  ペンテコステ(聖霊降臨日)主日礼拝を迎えました。この日私たちに与えられた主の御言葉はエゼキ エル書37章です。ここは“枯骨復活”と呼ばれる場面です。「枯骨」とは「枯れた骨」のことです。そ の復活(よみがえり)です。この世にいかに多くの不可能があったとしても「枯れた骨のよみがえり」ほ ど不可能なことはないのではないでょうか。しかしその不可能なことを、主なる神はなし給うというの です。エゼキエルに「あなたはそれを信じるか?」と問いたもうのです。  預言者エゼキエルは、主なる神の霊(聖霊)に導かれて「枯れた骨」の満ちた広い谷間へと導かれま す。それは恐ろしい光景でした。たぶん戦争の跡だったのでしょう。見渡すかぎり人骨が累々と横たわ り、しかもそれは「皆いたく枯れていた」というのです。言葉もなく佇むエゼキエルに、主なる神は3 節に言われます。「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。エゼキエルは答えます「主 なる神よ、あなたはご存じです」と。  もしエゼキエルが常識に立つ人ならば「いいえ、神よ、それは不可能です」と答えれば良かったので す。しかし彼はそこで自分の常識や人間の可能性ではなく、神がなしたもう新たな御業を信じました。 信仰をもって、畏れつつ「主なる神よ、あなたはご存じです」と答えたのです。神の語られる御言葉・ 神のなさる御業に、自分の全てを明け渡すのです。そこに「新しいこと」が起こります。それは枯れた 骨が「神の息」(神の霊)を受けてよみがえり、新しい「生命に生きる人間になった」という出来事です。 つまりここで、神の霊(聖霊)が私たちに新しい生命を与える「神の息」であることが明白に告げられ ているのです。創世記にも人は「神の息」を吹き入れられ、はじめて「生きたもの」になったとありま す。神は「聖霊」により、私たちに永遠の生命を与えて下さるのです。  エゼキエルはエレミヤと共に紀元前6世紀のイスラエル崩壊時代の預言者の一人でした。「バビロン 捕囚」の時代に捕囚の一人として民衆と共に苦難を味わった人です。イスラエルの民の受けた絶望的な 苦しみこそ「枯れた骨」と呼ぶに相応しい姿でした。まさにこの民に対して主なる神は「人の子よ、こ れらの骨は生き返ることができるのか」と問われるのです。それはここに集う私たち一人びとりに問わ れている御言葉でもあります。2600年前の「バビロン捕囚」の時代と現代社会に共通しているのは、社 会全体に根強く蔓延る絶望感と虚無感です。いなむしろ物質的に豊かな今日のほうがより深刻な絶望 感・虚無感に人間は捕らわれていると言えるでしょう。その意味で今日の私たちこそ「枯れ果てた骨」 のように、神の前に生命なき死んだ存在となっているのです。特に11節を見ますと「われわれの骨は 枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる」と記されています。ここにはっきり示されてい るのは、自分自身にのみ向き合い、神に背を向けている私たち人間の姿です。自分の絶望の暗闇にのみ 目を向け、御言葉に心を閉ざしている人々の姿です。まさにその姿をこそエゼキエルは「枯れ果てた骨」 として示されたのです。  もう少し詳しくこのことを学んでみましょう。今朝の6節に「わたしは……あなたがたのうちに息を 与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」とあり、また13節には「わが民よ、 わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげる時、あなたがたは、わたしが主で あることを悟る」と告げられています。つまり「生き返る」ということ(私たちが神の前に本当に生きた 者になること)は“神を救い主として知ること”(信じること)に関わっているのです。私たちの復活(新し い霊の生命)は主イエス・キリストを信じ「わが主」と告白することによるのです。その逆に、神が「わ が主」であられることを忘れ、神に拠り頼む信仰を失うとき、私たちは自分をも他人をも見失うのです。 絶望と虚無に陥るのです。  エゼキエルの時代も今日の日本の社会も、その絶望感と虚無感からの根本的な「よみがえり」(解決) は政治問題や社会構造の変化または経済の回復ではなく、ただ神と人間との関係・神の御言葉を聴いて 信じること。そして神の恵みに応えて生きる新しい生活、神との正しい関係にあるのです。そこにしか 人間の問題の本当の解決はないのです。ドストエフスキーが言うように、人間の問題を徹底的に扱おう とするなら、かならず神の問題へと向き合わざるをえないのです。  今朝の御言葉の特に13節で、主なる神は「あなたがたを閉じ込めている墓を、わたしが開き、わた しが、あなたがたをその墓からとりあげる」と語られます。「墓に葬られた存在」とは私たちことです。 その「墓」とは「罪」と「死」の支配です。そこから主は私たちを解き放って下さいます。そこに全て の人間の本当の救いと自由があります。キリストの十字架こそ唯一の救いです。言い換えるなら私たち の罪はキリストの恵みを忘れて自分で自分を救おうとすることです。真の神を見失うとき、私たちは「頼 むべきものは自分だけ」と頑なに思いこみ、そこに人間の個人主義化と神格化が始まります。エゴイズ ムが私たちを金縛りにします。人生の根本問題の解決を十字架のキリスト以外に求めるとき、私たちは 限りなく自己中心になり自分をも他人をも審く以外になくなります。そして私たちの人生を偽りと幻想 が支配します。イスラエルの民と同様「われわれは滅びるばかりだ」と嘆き「われわれの望みは尽きた」 と叫ぶばかりなのです。  哲学者ニーチェは、神との生きた関係を失った人間が辿る道は、第一に「神への信頼の喪失」、第二に 「過大な自己評価」、第三に「絶望」であると語りました。ニーチェは「神は死んだ」と唱え、その結果 自分が神の代理を務めなければならないと考えました。神なき世界では全ての価値観が崩壊します。人 間の存在も人生も何の意味も持たなくなります。それを食い止めるためには自分が神に成り代わるほか ありません。その結果ニーチェは、ついに自らの生命を絶つほど絶望に捕らえられてしまったのです。 では私たちはニーチェほど純粋でないから、絶望もせず、適当に自分をごまかして生きているだけなの でしょうか?。  そうではありません。いま私たちは今日の世界にはっきりと告げられている主なる神の御言葉を聴い ているのです。私たちを生かしめる本当の生命、それは私たちがどんなに自分に絶望しようとも、神は 絶対に私たちを見放したまわない。私たちと共にいて私たちを捕えていて下さる。その神の恵みの真実 に私たちの「真の生命」があるのです。たとえ私たちがいかに自分や世界に対して絶望しようとも、神 は私たちに絶望したまわないのです。それどころか、まさに絶望という「枯れた骨」になっている私た ちを御自身の「息」(聖霊)によってよみがえらせ、生かしめて下さるかたなのです。生命の御霊(真理の 御霊)を私たちに吹き込んで下さるのです。  パウロはローマ書8章16節において「御霊みずから、わたしたちが神の子であることをあかしして くださる」と語っています。神の愛から来る聖霊の注ぎを受けて、私たちはイエス・キリストを「主」 と告白し神と共に生きる民とならせて戴くのです。「アバ、父よ」と祈る者とされているのです。私たち は聖霊によって、すでに絶望と罪の支配、死の縄目から解き放たれ「神の子」とされているのです。だ から聖霊による生命に生きるということは、永遠に変わらぬ神との絆に生きることです。  聖霊は私たちを永遠にキリストに結び合わせる絆です。私たちが自分の知恵や力でその「絆」を作る のではない。罪によって全く無力であった私たち、主なる神の御前に「朽ち果てた骨」でしかなかった 私たちが、神の賜物である「聖霊」によって教会に連なり、キリストに永遠に結ばれた者とならせて戴 けるのです。それがペンテコステの出来事です。だからニカイア信条では「生命を与える聖霊」と告白 します。初代教会の人々も「造り主なる聖霊よきたりませ」と祈りました。この「造り主」とは「生命 の与え主」という意味です。枯れた骨をもよみがえらせ、喜びの生命をもって主の御前に歩ませて下さ る神が私たちと共におられるのです。  では、この神の「霊」によって生命を与えられた私たちの新しい生活とはどのようなものでしょうか。 ペンテコステの恵みを受けた私たちの教会はいかに生きる群れとされているのでしょうか。ペンテコス テの出来事は神の霊が教会を通して一人びとりの上に「とどまった」ことです。教会をお造りになった 神の霊が私たち個々の人生を真に生かし導くものになったことです。それは私たちの人生がそのあるが ままに、キリストの愛と恵みを物語るものへと変えられてゆくことです。  だから今朝のエゼキエル書37章10節に、神の霊を受けてよみがえった人々が「生き、その足で立ち、 はなはだ大いなる群衆となった」とあるのです。これは神の霊によって復活の生命に生かされた人々が、 喜び立ち上がって主の御業のために“御声を聴きつつ生きる者になった”という出来事です。烏合の衆 が生き返ったというのではないのです。聖霊によって復活の生命を戴いた私たちは、主の御業のために “御声を聴きつつ生きる者になった”のです。これがとても大切なことです。  それこそ礼拝者の姿勢であり、信仰の歩みそのものです。私たちはそれまでは個々の人生を自己中心 に生き、絶望と虚無の「墓」に沈んでいました。その私たちが神の聖霊を受けて新たにされ、ばらばら であった人生の物語が各々の個性あるがままにひとつにされ、キリストの愛と恵みを物語る器とされた のです。大いなる神の救いの出来事の中に受け止められているのです。まさにそのことが「はなはだ大 いなる群衆となった」(御声を聴きつつ生きる者になった)ということです。この葉山教会において、神 のなさる新しい御業のために隊列を組み、主の御名を証する私たちとされているのです。絶望する人々 に真の希望を語り、喜びを物語る群れとされているのです。  私たちは、自分は本当に小さな取るに足らぬ僕であり、何ひとつ主のお役に立つことなどできないと 思うかもしれません。そうではないのです。私たちはあるがままで、既に神の御手にある「勝利の民」 とされているのです。私たちの弱さの中にこそ最も強く神の力が働いて下さるのです。聖霊なる神が御 業を現わして下さるのです。そして神の民として御声を聴きつつ生きる私たち、礼拝者として生きる私 たちを、神は大いなる出来事(神の国の全き到来)の歴史へと導いて下さいます。  神が御自分の救いの物語、いま聖霊によって全世界に行なわれている救いの出来事の中に、私たちの 小さなわざをも用いて下さるのです。だから私たちは、信仰の勇気と平安をもって主の御跡に従って参 ります。主は言われます「われすでに世に勝てり」と。あなたの日々の歩みの全てが永遠の御国に繋が っている。だから勇気を出しなさいと…。十字架の主が聖霊によっていつまでも私たちと共にいて下さ るのです。そこに聖霊降臨の喜びがあり、私たちの新しい、主に結ばれた信仰の歩みがあるのです。