説    教   創世記31章51〜54節   ヨハネ福音書8章13〜20節

「人を救う権威」

2016・05・08(説教16191642)  今朝の御言葉はヨハネ福音書8章13節以下の音信です。ユダヤの仮庵祭の最終日に「わたしは世の光 である」と言われた主イエスの福音は、それを聴いた人々の間に大きな感動と波紋を拡げました。多くの 人々はその御言葉を受け入れず、主イエスをキリストと信じることをしませんでしたが、少数ながら主イ エスを信じた人々がいたのです。そこに主イエスに従う群れ(主の教会)が形造られてゆきました。  さて、主イエスを信じない人々の代表はパリサイ派の律法学者たちでした。彼らは「わたしは世の光で ある」と言われた主の御言葉に対してあからさまな敵意と反感を示し、わざと群衆の前で主イエスを罵っ たのでした。今朝のヨハネ伝8章13節以下です。「するとパリサイ人たちがイエスに言った、『あなたは、 自分のことをあかししている。あなたのあかしは真実ではない』」。このパリサイ人たちの発言は、証言に おける“権威の問題”を問うものでした。なんとかして主イエスを失脚させ(あわよくば殺そうと)画策 していたパリサイ人らにとって、主イエスが語られた「わたしは世の光である」という言葉は、自分を神 と等しい者とする神聖冒涜であり、許し難い発言だと理解されたのです。だからパリサイ人らは「あなた は何という不遜な発言をするのか」と厳しく主イエスを糾弾したのです。神ならぬ人間がどうして自分を 「世の光」などと言えるのか。ましてあなたは「異邦人の地」ガリラヤの出身であり、学問もなければ地 位も権威もないただの庶民に過ぎぬ者ではないか。そのような者が自分を「世の光」などと言うのは、そ れこそ神を汚す冒涜の罪ではないかと詰め寄ったのです。  ここでパリサイ人らが、主イエスを誹謗糾弾する旗印としたのが「あかし」の問題、つまり「証言にお ける権威の問題」でした。あなたは何の権威によって自分を「世の光」と称しているのか。律法によれば、 複数の証人がいなければ証言(証しの言葉)には何の権威もない。あなたは自分一人で「世の光」と言う だけなら、その言葉には何の権威もなく、あなたは偽りを語る罪人である。まさに“権威の所在”の問題 を彼らは論(あげつら)ったわけです。もっとも、彼らパリサイ人にしてみれば、最初から「主イエスの言 葉の真偽を確かめよう」などという思いはありませんでした。真理に対して公平無私な判断をしようとし たわけではないのです。むしろ彼らは最初から、主イエスは律法に背く罪人であり、その言葉も行いも人 を欺くまやかしと決めつけていました。パリサイ人らにとって「罪」とは律法に背くことだけでした。生 ける神の御言葉はどうでもよかったのです。その彼らの基準に照らせば、主イエスは罪人でしかなかった のです。旧約聖書・申命記19章15節に「どんな不正であれ、どんな咎であれ、すべて人の犯す罪は、た だひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人により、または三人の証人の証言によって、そ の事を定めなければならない」と定められています。パリサイ人らが持ち出したのはまさにこの規定でし た。彼らは主イエスに第三者としての「証人」が無いことを問題にし「あなたは、自分のことをあかしし ている。あなたのあかしは真実ではない」と決めつけたのです。  この、パリサイ人らの勝手な決めつけに対して、主イエスは今朝の14節以下にこうお答えになりまし た。「イエスは彼らに答えて言われた、『たとい、わたしが自分のことをあかししても、わたしのあかしは 真実である。それは、わたしがどこからきたのか、また、どこへ行くのかを知っているからである。しか し、あなたがたは、わたしがどこからきて、どこへ行くのかを知らない。あなたがたは肉によって人をさ ばくが、わたしはだれをもさばかない。しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい。 なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである。』」。主イ エスは言われるのです「わたしは、自分が何処から来て何処に行くのかを知っている者である」と。人間 にとって最大の関心事はまさにここにあるのではないでしょうか。  夏目漱石の「門」という小説に、主人公の青年が鎌倉の円覚寺を訪ねて座禅をする場面があります。こ の青年に老師が言います。「父母未生以前の己について考えるのも、悪くはなかろう」。これが禅の公案(老 師から参禅者に出される宿題)でした。「父母が生まれる以前に、おまえは何処に存在したのか」という哲 学的な問いです。この青年(漱石自身)は一所懸命に考えまして、やがて一週間が過ぎた頃、老師のもと に自分なりの答えを持って行きます。しかし老師は眼光するどく彼を一瞥するなり「もっと“ぎろり”と したものを持って来なければだめだ」と言い放つのです。その迫力に射すくめられ、ほうほうの体で寺を 立ち去り途方に暮れる、それは漱石自身の生きた体験でした。実はここに漱石は、現代の人間が避け難く 持つエゴイズムの問題を見据えています。現代人は人生のもっとも深い問題に対して「ぎろりとした」確 かな答えなど持ちえない存在だということです。  しかし主イエスは、そういう哲学的な問いで私たちの心を射すくめられるようなかたではありません。 それに「答えられない」からといって私たちを去らせるようなかたではないのです。そうではなく、今朝 のこの御言葉において、まず主イエスご自身がいちばん確かな答えを私たちに与えておられるのです。ご 自分の身をもって最も確かな答えをまず示していて下さるのです。それが「わたしは、自分が何処から来 たのか、また、どこに行くのかを知っている」ということなのです。譬えて言うならこうなるでしょう。 私たちが知らない土地の初めて降りる駅に降りて、駅前からバスに乗ってある目的地に行くとします。バ スにはその目的地の地名が書いてあります。ただそれだけで私たちは安心してそのバスに乗るのではない でしょうか。具体的にそのバスがどういう道順でその目的地に行くのか知らなくても、運転手に任せて安 心してバスに乗ることができます。それと同じように、主イエス・キリストは私たちを永遠の御国へと導 いて下さる唯一の導き手(運転手)です。私たちはどんな道(人生)を通ってそこに行くのかは知らなく ても、そのことで不安になる必要はないのです。それは主イエスが知り尽くしておられ、かつ最もよい方 法で最善のルートで私たちを天の御国へと導いて下さるからです。だから私たちに求められていることは 2つだけです。第一に、バスを乗り間違えないこと。第二に、バスの運転手(キリスト)を信頼すること です。  それなら、私たちはそこでこそ主イエスが語られた重要な御言葉を改めて受け止めるのです。すなわち 主がパリサイ人らに語られたことです。「しかし、あなたがたは、わたしがどこからきて、どこへ行くのか を知らない」。これは主イエスを信頼しないこと(つまり「キリスト」と告白しないということ)です。主 イエスが神から出て神に帰られるかただと信じないということです。「イエスはキリストなり」と信ずるこ とをしないことです。そのときパリサイ人らの歩みは、バスを乗り間違えた乗客と同じになってしまいま す。別の運転手の操るバスに乗って全く違う目的地に着いてしまうのです。まさにそこから15節の罪が 現れてきます。「あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれをもさばかない」。主は「わたしは だれをもさばかない」と言われます。主が審くことをなさらないのに、私たちは「肉によって」すなわち 自分の物差しで隣人をも自分をも簡単に審くのです。一万タラントもの膨大な負債を主に赦して戴いたに もかかわらず、その恵みを見事に忘れてたった50デナリを返せない隣人を審くのです。自分の目の中に 「梁」があるにもかかわらず、他人の目の「塵」を取らせてくれと言うのです。  それこそパリサイ人の心ではないでしょうか。「罪」を自分にではなく、いつも他人の中に見出す心です。 そしてほんの僅かな汚れや醜さを目にしても、さも潔癖そうに眉をひそめ、自分がいかにそれと無関係の 者であるかをアピールする心です。自分の心を自分で磨き上げ、完璧に光らせて、その光を曇らす一点の 汚れもシミも他人から受けたくはないと願う自己保身の心です。そこに「審き」が生まれます。審きは自 己保身の心の現れです。自分を守ることが他者への審きを生み出すのです。それこそ、パリサイ人の心で あると同時に、私たちの心でもあるのではないか。私たちの心もまた自己保身の原理原則に支配されて頑 なになっていることはないでしょうか。私たちもパリサイ人と似てくることがあるのです。私たちは罪か ら離れようと願って罪を離れうる者ではなく、むしろ使徒パウロが言うように「欲するところの善は行わ ず、欲しない悪はこれを行う」者です。たとえ修行をしても全く無意味です。罪は私たちの外にではなく まさに私たちの内側にあるのです。「ああわれ悩める者なるかな。この罪の身体より我を救う者は誰ぞや」。 このパウロの叫びはまことに、私たち一人びとりのものなのです。  それなら、聖書は(キリストの福音は)そこでこそ大きな永遠の確かな答えを、いま私たちと共にいま す贖い主キリストの御口から全ての人に宣べ伝えているのです。「われらの主イエス・キリストによりて、 神はほむべきかな」。キリストのみが永遠に讃めたたえられますように。なぜならこのかたのみが、私たち の底知れぬ罪を担われて十字架にかかりたもうた唯一の救い主だからです。主イエスは今朝の16節に「し かし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わ たしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである」と語られました。十字架の主イエス・キリスト のみが「正しいさばき」を世になしうる唯一の救い主なのです。私たちを捕らえている罪はキリストの福 音によって(十字架の出来事によって)永遠に審かれるのです。解決されるのです。それは私たちが負う べき罪の審きを、神の御子イエス・キリストが、私たちに代わって担い取って下さったことです。これこ そ福音の真髄なのです。罪なき神の御子が私たちのために罪を担われ、私たちに代わって永遠の死として の審きを死んで下さったこと。それがキリストの死の真相なのです。  だからキリストの死は、愛に満ちた素晴らしい人格者であるキリストというかたが、その愛のゆえに私 たちのために死なれたという単なる歴史的出来事ではない。そうではなくキリストの死は、永遠の滅びと しての死と罪の審きを、このかたのみが私たちの身代わりとなって引き受けて下さった贖いの出来事なの です。だからキリストの死は「罪の贖いのための御子の死」と呼ばれます。英語では“アトンメントと申 します。これは「二つのものを一つにする」という意味です。神から離れていた私たち、罪の支配にしか なかった私たち、天国行きのバスを乗り間違えてしまう私たち、その私たちを救うために、御子イエス・ キリストは私たちの罪の底辺にまで降ってきて下さり、そこで呪いの十字架を担われ、永遠の死としての 罪人の死をご自分の身に引き受けて下さったのです。エペソ書2章14節の告げるとおりです。「(キリス トは)二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つ のからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」。これこそ福音そのもの であり、私たちが賜わっている「救い」なのです。  だからパリサイ人らが「あなたの父はどこにいるのか」と主イエスに訊ねたとき、主イエスは19節に こうお答えになりました。「あなたがたは、わたしをもわたしの父をも知っていない。もし、あなたがたが わたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたであろう」。のちに主イエスは弟子の一人ピリポに「わ たしを見た者は父を見たのである」と語られました。私たちは神について漠然と知る者たちではない。私 たちは主イエスの恵みを知るとき、主イエスを信ずる者として生きるとき、あたかも父なる神のみもとに ありて神の御顔を拝するような確かさをもって、父なる神を知る者とされているのです。神はその独り子 なる主イエスを私たちのために世にお遣わしになったほど私たちを愛したもうかたです。キリストの御言 葉、キリストの御業、何よりもキリストの十字架において、私たちは神の愛がいかに絶大なものであるか。 そして私たちを救いたもう神の御業がいかに確かなものであるか。それを知りそれを宣べ伝え、その恵み の確かさに生きる群れとされているのです。  私たちはときどき、自分に与えられている“救いの確かさ”を問うことがあります。自分は本当に救わ れているのだろうか?。本当に神に祝福されている存在なのだろうか?。少なくとも自分自身を見つめる かぎり、救いに全く自信が持てません。疑心暗鬼に陥るのです。迷いを生ずるのです。しかし私たちはい つも、今朝の御言葉の確かさの前に生きる者とされているのです。これが信仰に生きることです。それは 「たとえ、わたしが自分のことをあかししても、わたしのあかしは真実である」そして「わたしをつかわ されたかたが、わたしと一緒だからである」と言われたキリストの恵みの御言葉の確かさに生きる新しい 生活です。私たちの救いの確かさ、それはキリストの恵みの確かさです。キリストご自身の確かさこそ、 私たちの救い(また祝福)の確かさなのです。そして私たちはいつも確信する者とされています。このか たが十字架の熾烈な愛と恵みをもって、永遠に変りなく私たちの救いの「証人」となって下さったことを …。われらの生きる時にも死ぬ時にも、変ることなき唯一の救い主(慰め)として、このおかたこそ、私 たちの救いの「権威の所在」なのです。私たちの救いの確かさはキリストの確かさなのです。  そこに、私たちはただ恵みによって招かれ、キリストの御身体なる教会に連なる者とされ、主のご復活 の生命に結ばれつつ、神による一つの民とされ、心を高く上げて、新しいこの一週間をも歩んで参ります。 キリストに贖われた僕として、生命のかぎり、否、死を超えてまでも…。そこに私たちの幸いがあり喜び があり、そこにキリストに根ざした者たるわれらの感謝と自由の生活が造られてゆくのです。