説    教   創世記5章21〜24節   ヨハネ福音書12章25〜26節

「主に仕える生活」

2016・05・01(説教16181641)  今朝のヨハネ福音書12章25〜26節において、主イエス・キリストはこのように告げておられます。 「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであ ろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わ たしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、 その人を父は重んじて下さるであろう」。そこで、この最初の25節に私たちは素朴な、しかし大きな疑 問を抱くのではないでしょうか。主は「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者 は、それを保って永遠の命に至るであろう」と言われました。しかし「自分の命」を愛さない人間が果 たしているのでしょうか?。同じように「自分の命を憎む」人間が果たして存在するのでしょうか?。  実はこのことは、私たちにとってかなり根本的な問題です。もし「自分の命」に執着することを「命 を大切にすること」と言い換えるなら、それは人間にとって当然かつ不可欠な要求であり、ほとんど“本 能”と言っても良いからです。すると今朝の25節は「本能に逆らえ」という教えなのでしょうか?。 主は私たちに超人的な無理難題を求めておられるのでしょうか?。これは人生を達観し、本能を超越し た、特別な人間にのみ可能な“狭き道”(難行道)を行くことなのでしょうか?。もしもそうした“狭き 道”を歩みえた人のみが「永遠の命に至る」のなら「主よ、いったい誰が『永遠の命』を得ることがで きましょうか?」と、まさに私たちはあのニコデモや富める青年のように、嘆きつつ御前を立ち去るほ かはないでしょう。  しかし、主イエスが私たちに求めておられるのは、そういう不可能な無理難題でもなければ「本能を 超越せよ」という求めでもありません。そうではなく、この25節の御言葉は続く26節と切り離しえな い両輪のようなものです。どうか26節に注目して下さい。「もしわたしに仕えようとする人があれば、 その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おる であろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう」。ここでの 中心は“キリストに仕える”新しい生活の自由と幸いです。それこそ、私たちの信仰生活の中心なので はないでしょうか。私たちの日々の生活は、いつどこにあっても“キリストに仕える”生活だからです。 キリストを主と告白し、教会(聖徒の交わり)に連なり、福音の御言葉によって生かされる生活です。 主の御身体なる教会に連なる私たちは「主に仕える生活」を自分の生活の中心軸としている者たちなの です。  そこで、改めて「仕える」という言葉の意味を考えてみましょう。この「仕える」とは元々のギリシ ヤ語では“ディアコノイ”という言葉です。これは後の時代には教会の執事をあらわす言葉にもなりま した。本来の意味は「神に仕える」新しい生活です。ですからこの言葉は、執事であれ長老であれ、ま た教会員一人びとりであれ、教会に連なる私たち全体にかかわる大切な務めを意味します。「教会の務め」 と言っても良い。それは神に仕えみ言葉に養われてゆく礼拝者の生活です。それが「ディアコノイ」と いう言葉の持つ本来の意味です。すると、そのすぐ次に主イエスが語っておられる言葉が、非常に大切 な意味を持っていることがわかります。それは「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわ たしに従って来るがよい」と主が語られたことです。主イエスによる私たち全ての者への“招きの言葉” です。主イエスはここで「人生の執着を断ち切った者だけが私に仕えることができるのだ」と語ってお られるのではない。そうではなく、誰でも「わたしに仕えようとする人」があれば、その人は「わたし に従って来るがよい」と、恵みをもって招いておられるのです。この「従って来るがよい」とは「恐れ ず躊躇わず従って来なさい」という意味です。あとのことは全て私に委ねなさい。あなたはただ私に従 って来るだけで良いと主は言われるのです。尊い恵みの御招きの言葉なのです。  言い換えるなら、主は私たちにこのように語っておられる。「私に仕えることは、すなわち、私に従う 新しい生活である」と。つまり“キリストに仕える”ことは“キリストの御招きに従う”礼拝者の生活 なのです。そのとき、私たちの人生に本当の生命が与えられるのです。逆説のようですけれども、私た ちは、自分の生命を人生の最終目的(最高到達点)としている限りは、決して本当の生命を生きたことに はならないのです。むしろ私たちのこの人生は、人生よりも尊いかた(人生の創造主)によって支えられ、 意味づけられ、導かれているということ、その事実を信仰において知ることによってのみ、はじめて私 たちは、神との永遠の交わり、永遠の生命に生きる者とされるのです。  生まれながらに健康に恵まれ、スポーツをこよなく愛した一人の青年が、ある中学校の体育の教師に なりました。ところがある日、鉄棒から落ちて全身の運動機能を失い、首から下が完全に麻痺してしま いました。絶望した彼は病床の上で、何度も自殺を考えました。生きていても何の意味もないと考えた のです。その絶望の日々の中で、この青年は今朝のヨハネ電12章25節の御言葉に出会いました。そし て主イエス・キリストを救い主と信じ、病床の上で洗礼を受け、聖なる公同の教会の交わりの中に、新 しい歩みをはじめたのです。この青年=星野富弘さんが、こういう詩を書いています。「命がいちばん、 大切だと思っていたころ/生きているのが辛かった。/命よりも大切なものが、あると知った日/生か されていることが喜びになった」。この詩の中には、私たち人間にとって、最も大切な人生の奥義が示さ れているように思います。私たちも、日頃なにげなく「命がいちばん大切だ」と思ってはいないでしょ うか。しかし、自分の生命を人生の最大目標、最大の価値とする人生は、決して私たちを生かし得ない のです。そこに人間の不思議さがあります。それは言い換えるなら、私たちの生命、私たちの人生は、 いかなる意味においても、私たちの“主”とはなりえないということです。  そうではなく、私たちの生命は、また人生は、私たちの生命よりも尊いかた(創造主なる真の神)によ って祝福され、支えられ、与えられているものだということ。そこに私たちの本当の人生の基盤がある のです。星野氏が言うように、まことに「命よりも大切なものが、あると知った日」にこそ「生かされ ていることが、喜びに」変るのです。自分の生命を愛するだけでは、本当の人生にはならないのです。 自分の生命を目的とするだけでは、人生の本当の意味を見失うのです。そして、この星野氏のみならず、 私たち一人びとりにとって「命よりも大切なものがあると知った日」とは、ほかならない、まさに“キ リストの御招きに従う”歩み、すなわち“キリストに仕える”新しい人生を見いだした「その日」では ないでしょうか。すなわち、キリストを救い主と信じ、まことの神の愛を知り、教会に連なって、御言 葉に養われつつ、キリストに従う歩みをなすことです。それこそが、否、ただその事のみが、人間にと って唯一の「命よりも大切なもの」を知ることだからです。私たちを極みまでも愛し、私たちの罪のた めに、十字架にかかって下さったかたを、わが主・救い主と信じ、告白することであります。  主は私たちに、及びがたく高く険しい道を、求めておられるのではありません。そうではなく、まさ に主イエスみずからが、まず私たちの罪の贖いとなって、呪いの十字架を担って下さった。何びとも歩 みえない、あのゴルゴタに続く苦難の道を、最後まで歩み、ご自分の生命を献げて下さった。その主の 御功によって、私たちは何の価もなきままに、主イエスに従う者とされているのです。人生のまことの 主を知る者とされているのです。それはどんなに幸いなことでありましょうか。主は「あなたはただ私 に従って来るだけでよい。その後のことはいっさい私に委ねなさい」と語っておられるのです。それが 「わたしに従って来るがよい」という言葉です。ルター訳の聖書では“ナッファフォルゲ”(Nachfolge) というドイツ語が用いられています。それは「あるかたに向かってわが身を投げかける」という意味で す。私たちは招きたもうキリストに向かって身を投げかければよいのです。それが信仰です。その私た ちの全存在を、主は確かに受け止め、支えて下さるのです。だからパウロは語りました。自分は「後ろ のものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばしつつ」走り抜くと。  私たちに求められていることも、まさにその信仰の従順の歩みです。それこそが「主に従う生活」で す。そして、主は従う私たち、身を投げかける私たちに、更に大いなる約束をして下さいます。それは 「そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう」との約束です。私たちは 目標のない旅路を行くのではない。主が共におられる所にこそ、私たちの歩みがあるのです。私たちが どこで、どのような歩みをなそうとも、私たちはそこで、キリストの御声に従う者とされています。そ の私たちの人生を、主はかならず大きな祝福に満たして下さり、いつも私たちと共にいて下さいます。 キリストに仕えることはキリストと共に歩むことです。キリストと共に歩むことは、キリストがおられ る所に私たちの日々の生活があることです。あの星野富弘氏も、まさにキリストの愛の中に人生の真の 目標を見いだしました。それは、神の栄光と隣人の幸いのために生きる新しい生活です。神の祝福と恵 みを物語る生活です。神の慈しみの真実に支えられ、守られた者の歩みです。そして主は約束して下さ います「視よ、われは世の終りまで、常に、汝らと共にあるなり」と。  それだけではありません。更に大いなるもうひとつの約束を、主は私たちにはっきりと告げて下さい ました。それは26節「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろ う」とあることです。ここで「重んずる」と訳された元々のギリシヤ語は“ティメ”という言葉で、そ の本来の意味は「価値」です。ですから「重んじて下さる」とは「かけがえのない価値を持つ存在とし て下さる」という意味です。これこそ現代社会で本当に人々が求めていることではないでしょうか。そ の反面、テレビにも新聞にもネットにも、自分の命だけを愛し、欲望のみを目的とし、他者を殺してま でもおのれを保たんとする罪の結果が満ち溢れています。まさしく「自分の命を愛する」ゆえに「それ を失う」歩みを、今日もなお人類は続けているのではないでしょうか。  それならば、まさにその現代社会に生きる私たち全ての者に、主は救いの御言葉として今朝の福音を 告げて下さいました。「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って 永遠の命に至るであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよ い。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えよう とする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう」。主イエスはご自分の生命を私たちのために 全く犠牲とし、私たちの罪を贖って下さったのです。それは全ての人が生きるべき真の生命、自由な神 の民の喜びに立ち帰るためです。全ての人が教会に連なり、復活の生命に連なる者とされ、本当の人生 の喜びと、生命の目標を知る幸に生きることです。そのキリストの贖いの御業の上に、私たち一人びと りの人生が、かけがえのない価値あるものとされている。私たちみずからが神によって、御子イエスの 贖いのゆえに、かけがえのない価値ある存在とならせて戴いているのです。そこに、私たちの変らぬ幸 いと喜びがあるのです。  十字架のキリストに向かって、キリストの愛と真実に向かって、身を投げ出す私たちを、父なる神み ずから、かけがえのない価値ある存在、愛する子として、重んじて下さいます。永遠の愛をもって覆い 囲んで下さいます。だから、私たちはいよいよ心熱くしてキリストを信じ、教会に連なり、礼拝者とし て生きようではありませんか。御言葉に養われつつ、キリストの愛と真実に向かって、日々私たちの身 を投げかけようではありませんか。そのとき「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」 との、ヨルダン川における主イエスの洗礼に響いた神の御声が、私たちの人生全体に響くのです。その ようにして私たちは、あのクリスマスの夜空に響いた天使たちの歌声に、共に唱和する僕とならせて戴 くのです。ルカ伝2章14節です。「いと高きところでは、神に栄光があるように。地の上では、御心に かなう人々に平和があるように」。