説    教     イザヤ書38章16節   ヨハネ福音書6章47〜51節

「 教会の信仰 」

2016・04・24(説教16171640)  私が高校生のころ、いちばん好きな授業は生物でした。生物の先生が、今から思い返してもたいへん優 れた教師でした。あるとき、こういう問いかけが出ました。「ロウソクと人間と、どこがどう違うのか、証 明してみなさい」と言う質問です。当然のこと生徒たちは「ロウソクは無生物であり、人間は生物である」 と答えました。すると先生は「それでは答えにならない」と言うのです。では「ロウソクが生物ではない、 ということを、生物学的に証明してみなさい」と詰めよってきたのです。実はこの段階で私たちは答えに 詰まっていました。ロウソクは呼吸をする。酸素を燃焼して二酸化炭素を排出します。つまりエネルギー を放出します。寿命があります。ロウが燃え尽きれば火が消えます。成長もします。ロウが垂れて積み重 なってゆく。繁殖もします。他のロウソクに火を移せばふえてゆきます。変化があります。炎が揺らいだ り形が変わったりします。そういうことを考えてゆくと「ロウソクは生物である」と言われても反論でき なくなるのです。そうした不思議な生物の授業を高校生の時に経験しました。  このこととの関連で、同じように、私たちはこの現代社会において「何が人間を人間たらしめているの か」また「人間とは本当は何であるのか」が不明瞭になっているのではないでしょうか。「誰でも良かった」 というキーワードで、不可解な殺人事件が次々と起こるのもその現れです。「誰でも良かった」と言うのは、 逆に言うなら、普段からその人自身が「自分の存在などどうでも良いものだ」と思い続けてきたというこ とです。自分の存在理由が全くわからない。だから他人の生命をも「誰でも良かった」と言って簡単に殺 すことができるのです。まさに「人間の本質」が不明瞭な社会に私たちは生きています。ただ単に「人間 は生物である」と言うだけなら、極端な話がロウソクと変らないことにさえなるのです。「生命は大事なも のだ」という論理では戦争や殺人は防ぎようがないのです。それは「人間とは何か」が曖昧な時代に私た ちは生きているからです。人間を真に人間たらしめるものを見えなくする、新しい「人間神話」が蔓延し つつあるのです。  それは個人のみならず、社会や国家の行動にも現れます。世界各地で頻発する「同時多発テロ」もその 現れです。ISやタリバンなどイスラム過激派の無差別武装テロも同じ原理によるものです。そうした世界 規模の混乱に対して「全面報復」すなわち戦争をもって報復すれば解決できるのでしょうか?。イラクや アフガニスタン、シリアやレバノン、イランや北朝鮮、これらの問題の根底にあるのは、ひとつの正義に 対する他の正義の衝突です。正義の反対語は悪ではなく「別の正義」です。正義と正義が衝突して無限の 分裂と対立そして戦争を生むのです。こうした人類の愚行に対して私たちは本当になすすべがないのでし ょうか?。10年前アメリカはイラクへの軍事行動を「無限の正義」作戦と名付けました。そもそも人間の 行為に「無限の正義」がありうるのか…。そこにも私たち人間が、自分を神格化する“バベルの塔”を建 てているのではないでしょうか。正義の名のもとに無限の報復がループする神話的世界への逆行…。人間 はロウソクと同じような「生物」のように見える、というだけの存在ではないはずです。  まさに、そのような私たちと、私たちの社会全体に対して、主イエス・キリストは、今朝のヨハネ伝6 章47節以下の御言葉を語っておられます。まず、ここで主は47節に「よく、よく、あなたがたに言って おく。信じる者には永遠の命がある」と語っておられます。この「永遠の命」とは“まことの神との永遠 の交わり”“まことの神との正しい関係”をあらわす言葉です。この「永遠の命」とは、イエス・キリスト が教会において私たちに与えておられる“復活の生命”であり、その復活の生命に連なって生きることこ そ、主の御体なる教会に連なって生きることです。「罪」とは意識的にも無意識的にも神から離れ、神に叛 く生活をしていたことです。そのような私たちが、神に立ち帰って、神との正しい交わりの内に(永遠の 生命の内に)本当の自分を回復されてゆくのです。「いても居なくても、どうでもよい自分」ではなく「神 に呼ばれ、招かれ、愛されている自分」を、私たちはキリストの内にのみ見出すのです。  では、どうすれば私たちは、その「永遠の生命」に連なる(あずかる)者とされるのでしょうか。その いちばん確かな答えとして、主イエスは「信じる者には永遠の命がある」と言われました。私たちに求め られているものは、主イエス・キリストを「わが主、わが救い主」と信じ告白する「信仰」です。信仰と は、キリストを見つめ、キリストの御跡に従って生きることです。単なる心の状態ではなく、私たちの生 活の全体をキリストの御手に明け渡すことです。私たちは「信仰」と言うと、それは「自分の心の中の状 態のこと」なのだと勘違いしやすい。もしそうなら「自分の心の中の状態」は誰にも窺い知ることはでき ませんから、それは徹底的に“個人的なこと”だということになります。実際に多くの人が「信仰」と聞 くとすぐに、それは“個人的なこと”だと思っているのです。そしてこの“個人的なこと”とは、実は私 たちにとって魅力的な言葉なのです。  この現代社会の中で、私たちは心のどこかで、本来(あるべき)の自分を生きてはおらず、本当の自分を 失っていると感じています。自分に嘘をついて生きている(存在の自己欺瞞性)と感じているのです。その ようなとき「信仰は個人の問題だ」と聞くと、妙な安心感を抱いてしまうのです。ああそうか、信じるの も信じないのも、要するに自分の勝手なんだと、いつのまにか信仰が“教会的”な生命のあるもの、建設 的・主体的なものではなく“個人的・主観的”な姑息なものに陥ってしまうのです。せいぜい「本来の自 分が取り戻せるところ、自分が安心して生きられるところ」が信仰なのだというだけのことになるのです。  ちょうど、逆風に逆らって道を歩いて来た人が、一軒の喫茶店に駆けこんだときの安心感のようなもの です。そんな個人的な安心感で「信仰」がわかったような気になってしまう。疲れて仕事から帰ってきた人 が、やれやれと寝転がってテレビを視ているような程度の安心感です。さらに譬えて言うなら、傷ついた 動物が地面に適当な窪みを見つけて、そこにじっと蹲るようなものです。それが「信仰」だとどこかで私 たちは思っているのではないか。もしそうなら、私たちは続く48節の主イエスの御言葉を襟を正して聴 かねばなりません。主イエスは言われます。「わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを 食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わた しは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与え るパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。  実に驚くべきことが、ここには記されているのです。「信仰」とは個人の小さな安心感などではありませ ん。そうではなく「信仰」とは「命のパンであられるイエス・キリストを食べること」なのです。そして、 そのイエス・キリストは「わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」と言われる。 ご自身が私たち全世界の罪の贖いのために十字架にかかられたキリストであられることを明言しておられ る。それなら、本当の「信仰」とは「十字架の主イエス・キリストにあずかること」です。「キリストを食 すこと」です。それが聖書の語る「まことの信仰」であります。「個人的なこと」などではない「教会的な 出来事」なのです。キリストの御身体に連なることなのです。  しかも、ここで主は49節に「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった」と言われ ます。これは、モーセに率いられてエジプトから脱出したイスラエルの民が40年間もの荒野の旅のあい だ「マナ」と呼ばれる「天からのパン」によって養われた出来事をさしています。その人々はしかし「死ん でしまった」のです。身体に必要な食物だけを求めた人々、人間関係だけに救いを求めた人々、自分の功績 を誇った人々、その人たちは、死によって無に帰してしまった。罪に打ち勝つ生命を得ることができなか った。彼らはマナを食べたけれども、そのマナは単なる肉体の糧であって、罪から人を救う「霊の食物」 ではなかった。そのように主は語っておられるのです。これはただ単に、イスラエルの民の昔の出来事な のでしょうか。そうではありません。ここに集まっている私たち一人びとりが、この社会にあって何によ って生きているのかが問われているのです。私たちもまた、あのイスラエルの民のように、一時は満腹し たけれどやがては死んでしまった、朽ちる「肉の糧」のみを頼みとしているのか。ただ「個人的なこと」 として「信仰」を理解しているにすぎないのか。吹きすさぶ社会の嵐の中で、適当な窪みを見つけて、身 を潜めているだけなのか。  まことの信仰とは、そのようなものではないと、主ははっきりと言われるのです。まことの信仰とは「命 のパン」である「イエス・キリストを食すること」です。「世の命のために与えるわたしの肉」を与えたも う十字架のキリストを信じ、主の教会に連なって生きることです。それは「個人の問題」などではなく、 まことの神との関係(神との和解)において、私たちが真に健やかな喜びの生命に生きる者となることで す。窪みに蹲って安心するのではなく、むしろ主イエスの御声を聴いて立ち上がり、主イエスと共に歩ん で行く平安を、私たちは主の御手から戴いているのです。それが聖書の語る「信仰」なのです。  私たちが教会によって主から戴いている御糧は、古い「肉の糧」などではありません。それはキリスト ご自身であり、「霊の糧」すなわち御言葉と聖霊による「いまここにおけるキリストの救いの御業」です。 私たちをあらゆる罪の支配から解放し、真の自由と平和の道を歩ましめるものです。だからこそ主は最後 の51節に「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろ う」と言われました。この「いつまでも」とは「永遠」ということです。キリストが永遠なる神の御子で あられるように、私たちもまた、キリストの「生命のパン」にあずかり、キリストの復活の生命に満たさ れ、導かれ、強められてゆくのです。それが「いつまでも生きる」ということです。  旧約聖書の創世記32章に、ヤボクの渡しを渡るヤコブの物語があります。ヤコブの心を捕らえていた ものは、兄エサウとの和解でした。それさえ叶えば自分は救われると思っていたのです。しかし、そこに 神の人が現れてヤコブと夜明けまで組討をします。その激しい戦いの中で、ヤコブははじめて気がつくの です。人間にとって最も大切な唯一のこと、それは神との和解であると。だから神の人に「あなたの名を 聴かせて下さい」と願い「わたしを祝福して下さらなければ、あなたを去らせません」とまで言います。私 たちの救いは私たち自身の中に(世界の中に)あるのではない。ただ天地を造りたまえるまことの神にあ るのです。キリストの御業にあるのです。キリストの贖いにあるのです。十字架によって私たちは神と和 解させて戴いた。そしてキリストの御身体(生命のパン)にあずかる者とされた。主は私たちに「イスラ エル」(神の支配)という新たな名を、そこで与えて下さるのです。  今朝の御言葉の最後の51節に、主イエスは「わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの 肉である」と語っておられます。これは聖餐の聖礼典のときにかならず読まれる言葉です。「これは汝らの ための、わが身体なり」。そしてパンと杯が配られます。教会をあらわすコイノニアという言葉さえ、この 「共にひとつの糧にあずかる」というギリシヤ語に由来しています。まさに主がご自分の肉を裂かれ、血 を流して私たちの罪の贖いとなって下さった、その測り知れない恵みのもとに、私たちのこの教会が建て られ、そこに私たちは集められているのです。ここで共に主が下さる「生命のパン」にあずかる者とされ ているのです。  それこそが、聖書の語る「信仰」の歩みです。まことの信仰とは「教会的」なものです。教会において、 キリストの十字架の贖いの恵みにあずかることです。私たち全ての者のため、全世界の救いのために、十 字架に御自身を献げて下さった主イエス・キリストにこそ、私たちが真に人間として生きうる唯一の「生 命の糧」があるのです。そこにおいてこそ、人間ははじめて、罪の縄目から解放され、神の御心に適う歩 みをなす者へと変えられてゆくのです。「誰でも良い」のではなく「かけがえのないあなた」を神は「生命 のパン」(キリスト)へと招いておられる。そこに私たちの幸いがあり、喜びがあり、本当の生命があるの です。