説    教    詩篇82篇1〜8節   ヨハネ福音書10章31〜39節

「キリストの御業」

2016・04・17(説教16161639)  「キリストの御業」はどのようなものであったでしょうか。昔はよく主イエスの御業をあらわすとき「キ リストの事業」と言いました。「事業」と言っても会社や組織を興すことではありません。主イエスがなさ った事業(御業)はこの世のどのような事業とも比較できないものです。この世のどのような事業にも、始 まりがあると同時に終わりがあります。しかし主イエスのなさる事業には終わりはありません。この世の 事業には限界がありますが、主イエスのなさる事業には限界はなく、それは全ての人を神の国へと導くま で続くものです。私たちはこの主イエスの「事業」について、今朝の御言葉を通して福音を聴いて参りた いと思います。  今朝の御言葉の31節に「ユダヤの人々」とありますのは、パリサイ人(パリサイ派の律法学者)たち のことです。この人々が主イエスを「打ち殺そうとして、また石を取りあげた」というのです。すでに幾 度もパリサイ人らは、主イエスの命を奪おうとして虎視眈々と画策していましたが、ここにまたもや絶体 絶命の事態が起こるのです。今や彼らの手には大きな石が握られているのです。  初代教会において、エルサレム教会の執事ステパノの石打ちの刑がありました。ステパノは、わざにも 言葉にも、力と愛に満ちた素晴らしい神の僕でした。しかしこのキリストの証人を、パリサイ派の律法学 者たちは、キリストを「神の子・救い主」と告白した咎で石打ちの刑に処したのです。人々に石で打たれ ながら、ステパノは天を仰いで祈りました。そして主イエスが父なる神と共に栄光の御座に座しておられ るのを見ました。ステパノは自分を石で打つ人々のために赦しと祝福を祈りながら息絶えました。そのと き石打ちの下手人たちの荷物の番をしていた青年こそ、のちの使徒パウロとなったパリサイ人サウロでし た。大切なことは、このサウロの目にステパノの殉教の死は「眠り」と映ったことです。事実、使徒行伝 7章60節は「こう言って、彼(ステパノ)は眠りについた」と記しています。これはパリサイ人サウロの 心に焼きついたステパノの殉教の出来事です。「眠り」とは、終わりではないということです。  正義感と怒りとに燃えてステパノを石打ちに処した者たちのわざは、終わるのです。それは、神の国に おいて何の価値も持ち得ないのです。しかし、その石打ちの刑を受けつつ人々の罪を赦し、祝福して息絶 えたステパノの行為は、決して終わることがなく、永遠なる御国においてこそその輝きをまし、主の教会 によって受け継がれてゆくのです。この強い印象を心に記されたサウロは、やがてダマスコへの途上にお いて復活の主イエス・キリストと出会い、主の御声を聴くことによって、みずからも主を信ずる者へと変 えられてゆくのです。パリサイ人サウロの歩みを捨てて、キリストの使徒パウロとしての新しい歩みが始 まってゆくのです。ステパノは「キリストの事業」に携わる者とされたゆえに、もはや死の力もその歩み を止めることはできませんでした。ただキリストの事業だけが、罪と死の支配を打ち破り、私たちに永遠 の生命を与える唯一の祝福であり力なのです。パリサイ人サウロもステパノの殉教を通してその祝福に与 かる者とされたのです。死んだ律法に仕えるパリサイ人の歩みが、生きた福音に仕えるキリスト者の歩み に変えられたのです。  そこで今朝の御言葉に戻りましょう。主イエスを石打ちの刑に処し亡き者にせんとしたパリサイ人らの 企みに対して、主イエスは静かに、しかし毅然として言われました。「わたしは、父による多くのよいわざ を、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。ここで主が 言われることの中心は「父によるよいわざ」という言葉にあります。「父によるよいわざ」とは「父なる神 と共に行なっている救いの御業」という意味です。つまり主イエスは、ご自分の御業がいつも父なる神と の共同作業であることを明らかになさっておられるのです。言い換えるなら、主イエスを憎み殺そうとす ることは、父なる神を憎み殺そうとすることと同じなのだということです。  ところが、パリサイ人らにはその意味が理解できませんでした。それどころか続く33節に、実に身勝 手な理屈を並べて自分たちの行為を正当化しようとしています。「ユダヤ人たちは答えた、『あなたを石で 殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるの に、自分を神としているからである。』」。 「よいわざ」をしたことが死に価する罪なのではないとは、な んと支離滅裂な理屈でしょう。「よいわざ」は「罪」であるはずはないのです。しかもこの「よい」という 言葉は「神に喜ばれる」という意味です。それなら「よいわざ」とは「神に喜ばれるわざ」です。それが 「罪」であるはずはありません。そこでパリサイ人らは、主イエスが行った「よいわざ」によっては主イ エスを殺害できないので、そこに“神を汚す罪”を持ち出すのです。もちろん「よいわざ」をしておられ る主イエスが、“神を汚す者”であるはずはありません。むしろ彼らがここで持ち出したのは、主イエスが 自分を神の子だと偽っているという神聖冒涜罪でした。すなわち33節に「あなたは人間であるのに、自 分を神としているからである」と彼らが語っていることです。  そもそも「あなたは人間であるのに」とは、パリサイ人らが勝手に決めつけたことです。なに何よりも 主イエスは同じ10章の25節において「あなたがキリスト(神の子)であるなら、そうとはっきり言って いただきたい」と言うパリサイ人らに対し「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わ たしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている」と言われました。主イ エスが神の子であると信ずべき「しるし」は、主イエスがなさっておられる「すべてのわざ」(まさにキリ ストの事業)に余すことなく現れているのです。それなのになお主イエスを信じようとしないのは、彼らパ リサイ人らの心が神の言葉に対して閉ざされていたからです。閉ざされているとは“信仰がない”という ことです。神の言葉を受けてもそれを信じることをしないのです。「論語読みの論語知らず」と申しますが、 パリサイ人らは「聖書読みの聖書知らず」になっていました。聖書を神からの語りかけ、すなわち「福音」 として聴き、受け入れ、信じることをしなかったのです。それこそ25節に「わたしは話したのだが、あ なたがたは信じようとしない」と主イエスが言われたことです。そこにあらゆる律法主義の、否、私たち 人間の罪の姿があるのです。  そこで主イエスは、パリサイ人らが拘る聖書の御言葉をお用いになって、彼らの根本的な誤りを指摘し て下さいます。それは旧約聖書・詩篇82篇6節の御言葉です。すなわち今朝の御言葉の34節以下「あな たがたの律法に『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。神の言を託された 人々が、神々といわれておるとすれば(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)父が聖別して、世 につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と 言うのか」。  パリサイ人たちはあらゆる機会を捕えて主イエスを殺害しようと画策していましたが、そのような彼ら の悪だくみに対しても主イエスは決して、それが悪だくみであるゆえに排斥したもうことなく、常に限り ない愛と恵みをもって彼らに相対されました。たとえあからさまな敵意と殺意をもって近づいてくる者で あっても、主イエスは常に愛をもってその人を受け入れ、支離滅裂なその論理に対しても、親が幼い子供 を諭し導くように、その誤りを丁寧に指摘され、助け導いて、福音の真理を受け入れることができるよう に心を砕いて下さいました。それが主イエスのなさりかたです。あのイスカリオテのユダに対してさえ、 主は彼を「友よ」とお呼びになったのです。  今朝の御言葉のうちにも私たちは、その主の愛の御心をはっきり読み取ることができます。特に37節 以下の御言葉です「もしわたしが父のわざを行なわないとすれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、 もし行なっているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父が わたしにおり、わたしが父におることを知って悟るであろう」。主は言われるのです。私が語った言葉や御 業、それら全てをあなたがたが見て、それが天の父なる神の御業でないというのなら、私を信じなくても よい。しかしもしそれが神の御業であると思うのなら、たとえ私を信じなくとも、その「わざ」そのもの を信じて、神に感謝と讃美と栄光を帰する者になりなさい。そのように主は言われるのです。主イエスは 少しもご自分の栄光・ご自分の誉れをお求めになりません。主が求めておられるのは、福音を信ずること により私たちが救われることたけです。私たちの罪が贖われ赦されて、私たちが新たな永遠の生命によみ がえることだけです。ただそれだけを主は願っておられる。パリサイ人らに対しても少しも変りはないの です。  主イエスは今朝の御言葉を通して、パリサイ人らを福音の真理へと招きたまいました。主の切なる願い は彼らの救いと生命です。彼らがまことに神を信じ、御言葉によって新たにされ、罪に打ち勝つ新たな生 命に生きる者になることです。キリストの使徒とされたパウロは、そのためならば、すなわち同胞である イスラエルの救いのためなら、たとえこの身が呪われて神から離されても構わないと申しました。燃える ごとき愛と熱心をもってキリストの恵みを証する生涯を、殉教の死にいたるまで全うしたのです。エルサ レム教会の執事・殉教者ステパノを通して現された「キリストの事業」を、パウロもまた受け継ぐ者とさ れたのです。パウロだけではありません。初代教会の使徒たちにはじまり、二千年後の今日に至るまで、 あらゆる時代のあらゆる場所で、キリストの事業が受け継がれてきたのです。  それは御言葉を宣べ伝え、教会を形成し、キリストの御業を、福音を、全世界の人々に宣べ伝えること です。この世界を今もなお支配しているかのように見える、あらゆる罪の力に対して、キリストの十字架 が、決定的に、最終的に、そして永遠に、勝利したもうたことを宣べ伝えることです。行くべき道を見失 い、目的地を失なった人類に対して、まことの主がいつも「よい羊飼」として、御言葉と聖霊によって導 いておられることを宣べ伝えることです。希望を失い、絶望に捕らわれ、死の支配の下にある全ての人々 に、キリストに結ばれ贖われた者の、真の幸いと希望、生命と祝福を宣べ伝えることです。この「キリス トの事業」にまさる偉大な事業、大切な事業はありません。私たちは今まさにこの主の御身体なる教会に 連なることにより、そのキリストの事業に心を合わせて参加する者とされているのです。  使徒パウロは、ローマ書15章5節にひとつの勧めを書き記しています。「どうか、忍耐と慰めとの神が、 あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、こうして、心を一つにし、声を合 わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように」。人間というものは、 みな互いに驚くほどものの考えかたや感じかたが違います。十人十色どころか千人千色なのが人間です。 そして現代という時代は、ますます人間の心がばらばらになり、孤立し、悲しみと絶望を深めて行く時代 なのです。しかしそのような時代にあって、私たちはこの復活の主の御身体なる教会に招かれ、生命なる キリストに連なって生きる者とされている。そこで私たちはキリストにあって、互いに同じ思いと目標を 抱く者たちとされているのです。それは「心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリス トの父なる神をあがめる」心です。礼拝者の心です。そして、そこでこそ、私たちの人生そのものが、互 いに個性も多様性もあるがままに豊かに主によって用いられ生かされて、キリストの事業に仕える者とな らせて戴けるのです。ほかならぬ私たち一人びとりがその者なのです。  かつて訪ねた高知教会で聞いたことです。昔そこに片岡健吉という長老がいました。自由民権運動の創 始者で初代の衆議院議長を務めた人です。同じ教会の中に政治上は正反対の立場に立つ人がいました。し かし礼拝を終えて帰るとき、この二人は堅い握手を交し合うのが常でした。「あなたと私とは政治の上では 正反対の立場であるが、お互いにキリストの栄光のため、そしてこの国のために、大いに励もうではない か」そう言って握手し互いの健闘を祈りつつ別れたというのです。「キリストの事業」に使える志において 同志だったのです。ただ教会だけがこのような真の交わりを育む場所なのです。私たちはそのことを、今 朝の御言葉と合わせて神の祝福として心に留めたいと思います。  終わりに、今朝の御言葉の最後の39節には主イエスが、捕らえようとするパリサイ人らの手をのがれ て「去って行かれた」ことが記されています。これは十字架への道をまっしぐらに歩むためです。この「去 って行かれた」とは彼らから離れたことではなく、十字架へと向かわれることによって彼らの罪を担われ たことです。そして主はあの十字架において全ての罪に勝利したもうたのです。その主の勝利の御手に、 いま私たちは教会によって堅く結ばれ「キリストの御業に仕える者とされているのです。